車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

奴隷制と部落問題

2009年06月06日 | 文化論

問題に関するコメントもあったので少し書いておくと、日本の被差別民と西欧の奴隷制はまったく違うものである。西欧の奴隷は主人の所有物で物である。だから、如何なる権利も持っていない。だから、最も徹底的な全人格的な支配である。それに対して、日本のと呼ばれ、現在では被差別と呼ばれている人たちはちゃんとした権利を持ち、家族を持ち生活していた人たちだ。また、生活水準で比較すると民が他の人たちに比べて貧しかったわけではなく、むしろ生活水準では勝っていた例もたくさんあったことも付け加えておかなければならない。だから、全然待遇が違っていた。

江戸時代の被差別を非難するのは、被差別の人たちには他の人と同じ権利が認められていたなったということが原因なのだろうが、それには色々な問題がある。すべての人を同じように扱って同じ権利を与えるのであれば話は簡単かも知れないが、それでなければ話は単純ではない。江戸時代の日本においては、権威においては武士が圧倒的であったが、経済力においては商人がかなりの力を持っていた。こんなとき差別はいけないから、経済力に応じて商人にも権威を与えるべきだというのは正しいのだろうか。権利にも色々な種類があるから、必ずしもすべてを同じように与える必要はないし、権利をそれぞれに応じて色々な階層に与えることが正しいこともある。つまり、ここで言いたいのは必ずしもすべての権利が与えられていないからといってそれを差別だと否定するのは違うということと、欧米を賛美した武士がそのようなあらゆる権利を武士に与えなかったことを持って江戸時代を差別社会としたのであれば、完全な間違いであるということである。

現在でも、在日朝鮮人は各種の山のような特権を享受しつつ、日本人と同じ権利がすべてにおいて与えられていないという理由で差別されていると主張している。しかしながら、もし在日朝鮮人は何の義務も果たそうとせず日本人でないが故の特権を享受しつつ、在日朝鮮人だけが日本人と同じ特権を享受すべきだと考えているのであれば、それはすさまじい差別主義だということだ。なぜなら、他の日本人以外の権利をまったく認めず、それでいて自分達だけには現在の特権以上の権利が与えられることが当然だと考えるのは、自分達と自分達以外の非日本人との間に絶対的な差別意識があるからだとしか言いようがないからである。

結局、自分達が決めた範囲内はすべてが同じでないと差別だが、その範囲外ならどんなことがあっても問題がないというのは平等主義ではなく、差別主義である。だから、ヨーロッパの奴隷制を無視してヨコ社会といい、日本をタテ社会と主張し、ヨーロッパの奴隷制の存在を指摘されたら、問題を持ち出して日本にも差別があると言うのは意味不明だ。必要なのは、それぞれがどのような状態だったのかをちゃんと調べた上で、社会を分析していくことだろう。日本の問題と在日朝鮮人だけをすべてに絶対的に優先することはまったくもって非論理的だろう。

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タテ社会とヨコ社会

2009年05月30日 | 文化論

日本をタテ社会、欧米をヨコ社会として対比的に論じるのは、中根千枝の『タテ社会の人間関係』だけでなく、ルース・ベネディクトの『菊と刀』にも共通する主題で、日本文化論における定番のテーマである。しかし、客観的にはこれほどまでに事実と合致しない主張もないと言えるほどに実際の事実とは違っている。

江戸時代の終わりから明治時代の始めにかけてアメリカに行った日本人が、アメリカでは初代大統領ワシントンの子孫が何をしているか知らないで、それが日本の天皇制や徳川幕府の世襲制と対極的で、日本の身分制とアメリカの自由との格差に驚いたという話は有名である。しかし、現実にはそのころのアメリカは奴隷制を採用しており日本とは比べ物にならないほどの格差と差別が支配する身分制社会であった。これは、ヨーロッパにおいてはさらに酷く、植民地の労働者と本国、そして本国内での身分的な格差が社会を支配していた。

実は、欧米がヨコ社会で日本がタテ社会であるというのは、欧米というのは支配階級と被支配階級に別れ、一定数の支配階級には同じように選挙権のような権利が与えられ、その支配階級が被支配階級を絶対的に支配するということを意味しているに過ぎない。つまり、欧米においては一番上の天皇家や徳川家の権力は強くはないが、階級間の差は日本よりもはるかに大きな社会である。こう考えると、なぜアメリカに行った日本人がアメリカを絶賛し、日本を否定したかが分かる。貧しい武士階級の出身者にとっては、市民に同じ権利を与え、奴隷を絶対的に支配する権利を与える社会に憧れを抱き、そのような権利を支配階級の武士に与えない江戸幕府を憎悪したのだ。

このような思考回路の最大の問題点は、一般の庶民を比べれば日本の方がちゃんとした権利を与えられたヨコ社会であり、欧米の方がはるかに酷いタテ社会であったということである。だから、このような思考回路の結果として江戸時代暗黒史観というものが生まれてきたのだが、最近の研究によって完全に否定されている。同じように天皇制と日本のタテ社会を結ぶつける議論もあるが、当然のことんがらナンセンスであるとしか、言いようがない。このような客観的な事実に基づいた文化論がそろそろ必要なのではないだろうか。

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日本人の勤勉性

2009年05月11日 | 文化論

今日の池田信夫blogの記事のテーマが勤勉革命だったのだが面白いテーマなので書いてみたい。

この不況で問われているのは、日本人の働き方だと思う。日本企業が戦後の一時期、成功を収めた一つの原因は、農村共同体が解体したあと、その行動様式を会社に持ち込んでコミュニティを再構築したことにある。その労働倫理の原型は明治期より古く、江戸時代に市場経済が農村に浸透したころに始まるといわれる。速水融氏は、これを産業革命(industrial revolution)をもじって勤勉革命(industrious revolution)とよんだ。

イギリスの産業革命では、市場経済によって農村が工業化され、資本集約的な産業が発達したのに対して、日本では同じころ逆に市場が農村に取り込まれ、品質の高い農産物をつくる労働集約的な農業が発達した。二毛作や棚田のように限られた農地で最大限に収量を上げる技術が発達し、長時間労働が日常化した。そのエネルギーになったのは、農村の中で時間と空間を共有し、家族や同胞のために限りなく働く勤勉の倫理だった。

日本が非西欧圏でまれな経済発展をとげた一つの理由が、この勤勉であることは疑いない。それを支えていたのは金銭的なインセンティブではなく、共同作業に喜びを見出すモチベーションだった。サラリーマンは命令されなくても深夜まで残業し、仕事が終わってからも果てしなく同僚と飲み歩いてコミュニケーションを求める。こうした濃密な人間関係によるコーディネーションの精度の高さが、多くの部品を組み合わせる自動車や家電で日本企業が成功した原因だった。

ということで、勤勉性が経済発展の原動力になった、或いは日本の経済発展の原因には日本人の勤勉性が深く関わっているという議論はよく聞く話だ。しかし、歴史的な事実を調べてみると分かるのだが、江戸時代の日本の一つの大きな特徴は祭日や休日の増加である。特に職人においては効率的に速く仕事を終わらせて残りの時間を他のことに使って過ごすことが優秀な職人の印だった。

だから、長時間労働を勤勉性として考え、それが江戸時代からの日本人の特徴だと考えるのは少し違うだろう。むしろ、農民や職人が生産の増加分を収入増として得られるようになったことが、モチベーションを高め経済を活性化したと考える方が適切だろう。このことは世界史的に見ても言えて、ヨーロッパの知識人は農民や植民地の現地人が怠惰で、怠けて働こうとしない。これでは、経済発展などしようがないと軽蔑していたが。現実には、最も長時間働いているのはそのような農民や、植民地の労働者や奴隷達であった。農民や奴隷は最も長時間働いていたが、生産した分は徹底的に上の方に搾取され手元には何も残らなかったので、労働意欲が湧かずひたすらヨーロッパ人が搾取し続けるだけだった。

つまり、勤勉性というのは長時間働くことが美徳とされるということよりも、ちゃんと働いた分の対価がそれぞれの人に分配されるという約束がもたらすモチベーションであると考える方がいいのではないだろうか。その意味で、ひたすら搾取しつつ、搾取されている者達を怠惰であると虚構の事実によって軽蔑したヨーロッパ人や、中高年よりも低賃金で長時間働いているワーキングプアを努力が足りないと非難し、日本人の勤勉の美徳が失われてきていると嘆いている人たちは、勤勉ということの意味をもう一度考え直し、いかにして公正な対価が払われる社会が実現可能かを考えてみる必要があるだろう。

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ヨーロッパ中心主義

2009年05月09日 | 文化論

昨日の話の補足でもあるのだが、西洋が発展した理由と、産業革命が起こった理由に関しての議論について書いてみる。昔からなぜ西洋が現在のような発展を遂げたのか、産業革命や生産量の劇的な増大がなぜ可能になったのかについて議論や研究がなされてきた。当然、これほどの変化が起こったのであるから何か劇的な変化や、いくつもの重大な進歩が途中にあったことは間違いない。

しかし、重要なことは新しいことを発見したり発明したりしたことによって発展するということと、周りのものがそれを真似することが出来ず発展できないくらいに文明の進歩の度合いに違いがあるということとの間には、断絶に匹敵するくらいの開きがあると言うことだ。これは、現在の経済や社会を考えてみるとすぐ分かることであるが、どこかの会社が新技術を発見したり効率的な生産方法を開発したとする。そうすれば、当然その会社は競争的に優位に立つだろうが、他の会社もそれに追いつこうとするために差は次第に縮まっていくだろう。研究の世界においても、最初に発見するには並外れた頭脳と独創性を必要とするが、三十年もすれば新発見を多くの人が当たり前のように使いこなしているというのはよくあることだ。つまり、新しい優れたものを開発するのと、それを真似して学習するのとでは難易度に天と地ほどの開きがあるということだ。

これは、文明の発達においても同じ事で最初に発見されるには並外れた人間が必要とされるが、一度発見されてしまえばそれは急激に伝播していくことになる。人類が灌漑を発見し最初の文明を作り出したのはもう四千年も前の話になるが、四大文明と言われる様に、四つの地域において同じような技術に基づく文明が時期をそれほど隔てないで登場した。このことには、新しい技術や社会制度の構築方法においてある程度の知識の共有や伝播があったことを想像させる。つまり、独自にどこかが発展し他の場所には何も起こらなかったのではなく、どこかが発見したことが他に影響を与えたといえる。そして、最初の文明達が生み出した知識は他の地域へと広がっていき世界全体で農業が営まれるようになっていった。同じように、現在でも先進国間において知識の伝播や技術の共有化が起こっていて、先進国間においては長期で見ると経済発展は同じレベルへと収斂していくことが実証的に明らかになっている。

だから、そのような技術や知識、新発見の一般的な性質を考えると、欧米社会だけの発展や、さらには西洋の発展の過程で逆に周辺においては衰退が起こったことは奇異に感じる。つまり、通常であればどこかの社会が新しい優れたものを生み出せば周辺の社会はそれを真似して受け入れ追いついていくのが普通なのに、そのようなことが起こらずに逆に衰退さえしたのはなぜだろうかと疑問に思えてくる。これに対する一つの答えは、発展には西洋特有の自由や民主主義的な価値観やキリスト教的な価値観が不可欠なので、遅れた社会にはまったく受け入れることが出来ずに停滞が起こったということであるが、この主張は価値観とは関係なしに技術が伝播できるという性質や、大陸ヨーロッパにも実は民主主義的な制度はちゃんとなかったにも関わらず産業革命が起こったという事実と明らかに矛盾している。

従属理論やヨーロッパによる収奪論はこのようなところから出てくるものであるが、それほど過激ではなくても通常の歴史を考えるとヨーロッパが発展していく中で周辺の文明が衰退したというのは奇妙な現象なのである。だから、これからの研究によって明らかにしていくべきことが残っていることは確かなのだが、まず第一に新発見をすることとそれを他のものが真似できないということとの間には絶対的な開きがあることを認識する必要があるだろう。そして、西洋が優れていたから新しい発見をしたんだから、他の社会が真似すら出来ないくらいに優れていたはずだという歴史経験的にナンセンスな議論から一歩引いた上で、どのようなことがほんとにあったのかを議論していく必要があるだろう。

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丸山真男

2009年03月13日 | 文化論

池田信夫blogに丸山真男氏に関する記事が出ている。丸山真男氏の思想の中心にあったのは、西欧の確立された自己・近代的主体と日本の従属的で全体に流される日本人という、西欧の自立に対して自立できない日本人を否定し、それが日本が抱える多くの問題の根本であるとする考えだ。このような思想は、丸山氏だけでなく多くの進歩的知識人が共有するものであるし、そもそもはヨーロッパの思想家のヨーロッパ中心主義から来たものだ。

しかし、客観的な事実を見ればこのような主張はほんとに根拠の怪しいものである。ヨーロッパ人は自立している。個が確立していると言われる。では、集団に流されたり支配されたりしないかといったらそうではない。自立した個人が一つの思想に支配され他の者達を支配するということが起こり続けている。フランス革命などはその典型で一部の人間達が勝手な理想を掲げ、それに多くの市民が迎合し、それに従わない民衆や貴族達を虐殺した。ヨーロッパ人が自立していると言うのは、王には従わず、一部の人間達が勝手な考えで談合し、他の人間達を暴力で従わせる。所詮、その程度のものなのである。世界的に見ても、ヨーロッパ人は強いものに迎合し、主体的に自分の考えで行動することが出来ず、強いものによる支配に反対し自立していたのは日本人や現地人であった。

このように、客観的な事実に基づけば自立したヨーロッパ人という概念はそもそも胡散臭いものであるし、それがヨーロッパ社会の発展をもたらし他の社会との違いをもたらしたという主張も怪しいものである。そもそも、そのようなことが起こるのなら最初にそのような思想が現れたギリシャ・ローマがそのまま発展せず、世界史的に見ても特異な文化と知識の暗黒時代を6世紀から13世紀にかけて作りだしたことが不可解そのものだ。結局は、進歩的知識人の思想は結論ありきのこじ付けとも言うべきもので、ヨーロッパ中心主義者と同じで事実に基づいて理論を組み立てるではなく、そうあってほしいという願望で理論を組み立てているに過ぎないのである。

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市場経済と市民社会

2009年03月01日 | 文化論

この前の記事でも取り上げた池田信夫blogのこの記事だが少し補足しておきたいことがあるのでまた一言。その前に少し引用を。

『資本論』で圧倒的に多く使われる概念は、資本主義ではなく市民社会(burgerliche Gesellschaft)である。これを「ブルジョア社会」と訳すのは誤りで、これはヘーゲル法哲学からマルクスが受け継いだ概念である(最近の言葉でいえば市場経済)。ヘーゲルにおいては「欲望の体系」としての市民社会の矛盾は国家によって止揚されるが、マルクスは国家は市民社会の疎外態だと考え、それを廃止することによって真の市民社会を実現する革命を構想した。・・・

むしろマルクスとハイエクがともに依拠した西欧的な市民社会の概念が、どこまで普遍的なモデルなのかが問題だ。歴史的には市民社会が普遍的ではないことは自明であり、「欲望の体系」が人々の感情を逆なでする不自然なシステムであることも、ヘーゲルが指摘した通りだ。しかしそれが西欧文化圏の奇蹟的な成長を可能にし、それ以外のモデルがすべて失敗に終わったことも事実である。マルクスは、階級対立を生み出さない純粋な市民社会としてのコミュニズムが可能だと考えたが、それは間違いだった。欲望を解放する市民社会は、必然的に富の蓄積によって不平等な資本主義を生み出すのである。

マルクス、ハイエクともに市場経済を特殊西洋的なものと捉え、先進的なものとしてそれを理論の出発点にした。これは、西洋の思想家に共通して言えることであるが、ヨーロッパを進んだ社会として、それ以外を遅れた社会として理論を構築していく。問題は、市場経済において西洋が進んでいたという主張そのものが怪しいものであるということである。市場経済で西洋が進んでおり東洋が遅れているというと、東洋では市場経済が機能していなかったかのような錯覚にいたるが、実はより自由で制約のない市場が機能していたのは東洋のほうであった。これは、国際的な海洋貿易において言えることで、西洋においては一部の国家による独占や排除が行われる一方、それ以外の社会においては本当に自由な交易システムが発達していた。だから、この点においては市場が機能していなかったのはむしろ西洋のほうである。

では何をもってマルクスやハイエクが西洋を進んでいたとしたのかというと、市民社会であったということである。わかりにくいかもしれないが、古代のギリシャや中世ヨーロッパを考えるとわかりやすいが市民の権利が発達し、上の支配を受けず自由に活動していたことをもって市民社会といっているのだ。つまり、東洋のように王が権力を持っていれば専制的と捉え、あらゆるものを否定し実際に存在している自由な市場さえ否定するが、西洋のように市民が存在する状態であればそれが他の階層を支配し搾取していても、市場を管理し自由を制約していても善と考える西洋において伝統的な考え方をマルクスやハイエクも受け継いでいたということだ。

そのような考え方に基づくものであるため、西洋の市場経済事態を否定したり、東洋を肯定しようとするのは、極端であるとしても、西洋には進んだ市場経済や市民社会があったという主張を鵜呑みにするのは危険なのだ。だから、問題を考える場合にはこのような歴史的な事実をちゃんと知った上で考える必要があるだろう。

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