問題に関するコメントもあったので少し書いておくと、日本の被差別民と西欧の奴隷制はまったく違うものである。西欧の奴隷は主人の所有物で物である。だから、如何なる権利も持っていない。だから、最も徹底的な全人格的な支配である。それに対して、日本のと呼ばれ、現在では被差別と呼ばれている人たちはちゃんとした権利を持ち、家族を持ち生活していた人たちだ。また、生活水準で比較すると民が他の人たちに比べて貧しかったわけではなく、むしろ生活水準では勝っていた例もたくさんあったことも付け加えておかなければならない。だから、全然待遇が違っていた。
江戸時代の被差別を非難するのは、被差別の人たちには他の人と同じ権利が認められていたなったということが原因なのだろうが、それには色々な問題がある。すべての人を同じように扱って同じ権利を与えるのであれば話は簡単かも知れないが、それでなければ話は単純ではない。江戸時代の日本においては、権威においては武士が圧倒的であったが、経済力においては商人がかなりの力を持っていた。こんなとき差別はいけないから、経済力に応じて商人にも権威を与えるべきだというのは正しいのだろうか。権利にも色々な種類があるから、必ずしもすべてを同じように与える必要はないし、権利をそれぞれに応じて色々な階層に与えることが正しいこともある。つまり、ここで言いたいのは必ずしもすべての権利が与えられていないからといってそれを差別だと否定するのは違うということと、欧米を賛美した武士がそのようなあらゆる権利を武士に与えなかったことを持って江戸時代を差別社会としたのであれば、完全な間違いであるということである。
現在でも、在日朝鮮人は各種の山のような特権を享受しつつ、日本人と同じ権利がすべてにおいて与えられていないという理由で差別されていると主張している。しかしながら、もし在日朝鮮人は何の義務も果たそうとせず日本人でないが故の特権を享受しつつ、在日朝鮮人だけが日本人と同じ特権を享受すべきだと考えているのであれば、それはすさまじい差別主義だということだ。なぜなら、他の日本人以外の権利をまったく認めず、それでいて自分達だけには現在の特権以上の権利が与えられることが当然だと考えるのは、自分達と自分達以外の非日本人との間に絶対的な差別意識があるからだとしか言いようがないからである。
結局、自分達が決めた範囲内はすべてが同じでないと差別だが、その範囲外ならどんなことがあっても問題がないというのは平等主義ではなく、差別主義である。だから、ヨーロッパの奴隷制を無視してヨコ社会といい、日本をタテ社会と主張し、ヨーロッパの奴隷制の存在を指摘されたら、問題を持ち出して日本にも差別があると言うのは意味不明だ。必要なのは、それぞれがどのような状態だったのかをちゃんと調べた上で、社会を分析していくことだろう。日本の問題と在日朝鮮人だけをすべてに絶対的に優先することはまったくもって非論理的だろう。