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思考の部屋

2020-01-20 06:20:27 | 哲学の窓
思考の部屋を紹介します。


 ここから https://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon

信州の安曇野市有明山の麓に住まいする方のサイトです。

実は2010年12月にも紹介しています。

------------以下は2010年のものです------------

最近は、ニーチェがらみで、いろいろな哲学のブログを訪問しています。



ここは、「思考の部屋-日々の思いを綴る小部屋-」というサイトです。

12月8日は次のような内容でした。

------以下引用-------

アリストテレス・最高の善・非思量


そもそも信じるに足るものであるか否かが、私自身が体験しその場で感じるものであれば真実ですと答えようがありますが、史誌がある目的を持って創られたものであるならば私自身で検証できるものでもなく、その史誌を根拠に文化論的な思想を語ったところでそれはあくまでもそれは私見を離れることはできないと言えるのではないかと思います。

 「禅譲」の世、尭(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)の徳による政治を理想とする思想は、ギリシャ哲学の哲人政治のなんたるかを語るようなアリストテレスのプラトンのイデアに対する懐疑の語りの前に挫折せざるを得なくなります。

 従って性善説は何を持って、あるがままの先験的に徳などのようなものがあると断言できるのかあくまでも私見の推測でしかないように思えてしまいます。

 実体の真実性をそのまま他者間で共有できならば、イデア的なものが存在するのか、無限大に近い証明がしかもそれをそうだと是認する感覚の共有がなされるのならば可能なのであろうがそんなことは不可能に違いないと誰もが思います。

 リンゴがリンゴであることがわかる。遠くから見ると本物があるとしか見えない写真、樹皮でできたリンゴ。目の前のリンゴのようなものが真実リンゴであれば、酸味、色合い・・・・と、無限大の証明でなどうにか同一の本物と他者に納得できるまでのこぎつけることができるかもしれません。

 統治者たる大王も然りで、完璧なる誰もが思い描く徳を持ち合わせたものであるわけがなく、人々に意に沿わないものが必ずやあるのではないのかアリストテレスの政治学はそんなことを語ります。

 統治される側、国民や市民、庶民はその可能性を信じるしかありません。徳のある政治をしてくれる人とその可能性の中で期待し、信じるしかありません。

 みんなが善いと思った代表者が、意に沿わなかったリコールが散見され、国政もまた相似形のような様相ではないでしょうか。

 可能性を信じるとは、折り合いをつけることでもあるように思います。しかし許容範囲がありますし、個々のもつ徳に対する考え方もあります。

 首領様の意に沿う生き方が理想であるとする世の中での幸せ観と裸電球の下で家族の団らんの中で食事ができる幸せ観、何と隔たりがあるのでしょう。

 安全で安心と語る、みんなが語ります。自民党から共産党までみんなが語ります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イデアと分かったような言葉を使いました。ウィキペディアフリー百科事典では、

 プラトンは、ideaという言葉で、形は形でも、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。

と書かれています。私もその意味で使いました。純粋経験で展開されるものかもしれません。あくまでも可能性の展開、納得の展開、矛盾が矛盾でないと思うありのままの姿、形なのかも知れません。

 人事を越えた絶対性を信じたくなることも納得がいきます。神は嘘はつきません。キリストも仏陀も真実の人です。

 そう信じるから信仰が成立し争いのない世の中があるはずなのですが、現実はそうならないところに人々は気がつきません。

 武器三原則が真実であると誰もが共有できれば、問題はこじれないのですが、根本に争いがある以上その真実性の証明を誰ができるのでしょう。

 日本で生きる以上幸せ観を共有したいものです。アリストテレスは『エウデモス倫理学』で「最高の善」について語っています(同書p523~)。昨夜世界の名著『アリストテレス』(中央公論社)を再読しました。

<アリストテレスの言葉>

 したがって、「善そのもの」を研究するのは一つの学問の仕事である、というようなことはほとんどありえないわけである。

<同書p526から>

なるほどです。多様性のある思考を駆使しても納得の可能性があるとしかありません。

ここでこういう言葉を出すと、叱られそうですが、

 「非思量」は、思量(思い量る・考える)という意識のはたらきを除いた無意識状態ではなく、思量しながら思量にともなうとらわれを脱した思量であるとしたのは、唐代の禅僧薬山惟儼(やくざんいげん・745~828)です(『日本人のこころの言葉 道元』創元社 p73)。

と書かれていました。

 これだけの文章なのですが、妙に納得したというと更なる愚かさを露呈しそうですが、自己の中に、なる可能性を信じたいと思います。

 信じたいとは矛盾した表現ですが、同一性の存在です。(余計な付け足しとおもっていますが、「とめおかまし」です。)

 毎朝濃い霧の世界が広がっています。写真は松本市梓川地区のリンゴ園から見た朝陽です。

------引用終わり-------

ディープですね。私の好きな世界です。

http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ありがとうございます。 (信濃大門)
2010-12-12 07:46:41
>管理人様

 私のブログを引用していただきありがとうございます。毎朝4時起きの生活習慣でブログを書いています。
 何にでも興味をもつタイプで「なぜのソクラテス」なのかも知れません。役に立つとか無意味だとか言われそうですが、「人はなぜそう思うのか」が非常に気になって仕方がなく、---今現在、全てが不完全ですが---究明(自分で納得するまで)し続けています。

 掲出する際は読み直せばいいのですが、時間的余裕もなく字の誤り、文脈の不自然等散見されます。

 ですが、個人的に今現在そう思うのだから、で押し通しています。

 さらに過去と矛盾する点が出てくるかもしれませんが、人間はボケることもあれば、考え方も変わります。ということで許していただきたいと思います。

 退職まであと5年ほど、氏名も旧職業も公開したいと考えています。信州の山奥にて坐禅と読書、山間ランニング、そして半分ボランティアのような仕事をしています。

 今後もよろしくお願いします。
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