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カレーなる日々 / शानदार दिन

インドの日常を中心に日々を綴っています。

【インドの城】 ~ カングラ・フォート ~ (インパール) その②。

2019年02月27日 21時21分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
西門を入り真っすぐ進んだ正面には、
狛犬のような動物に守られた宮殿のような物がある。



周りは塀に囲まれている。右側が古い壁で左側が修復された壁。

 

中に入ると土の中に壕のような物があった。
ここに潜んで戦ったのだろうか。

 

この建物の左側(北側)に進んで行く。



まずは1955年までマニプル王国の王だった、
マハラジャ・ボダチャンドラの墓。



その先の左側にはブリンダーバン・チャンドラ寺院がある。



ふと足元を見ると、なにやらたくさんの実が落ちている。
よくみると、イチジクである。頭上には驚くほどに、
たわわに実をつけた枝が見えた。

 

日本のイチジクとは形が違うけど、
種の多さといい正しくイチジクであった。

その奥には使用されていない噴水ショーの噴水と客席。
作ったはいいけど使わない所はインドである。



その奥に進みの右手には考古学博物館があった。
日本軍を迎え撃ったイギリス軍のスリム中将の住まいだった所。

電灯も付ついておらず誰もいなかったが、
ガイドさんがいたので勝手に入って電灯をつけて見学したが、
これといって特に・・・・。

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【インドの城】 ~ カングラ・フォート ~ (インパール) その①。

2019年02月26日 22時36分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
インパールの中心にあるマニプル王国の王宮跡。
インパール川の土手の東西に塀に囲まれた城があった。
カングラとはマニプリ語(メイテイ語)で「乾いた地」と言う意味。

1891年3月にイギリス軍に攻められ4月に陥落し、
第二次世界大戦ではビルマを追われた連合軍の反攻拠点であった。



東門の左側でチケットを買う。外国人は50Rs(約80円)。

 

敷地は二重の堀に囲まれている。



入ると右側に全く購買意欲が起こらない残念な土産物屋があり、
奥に有料トイレ(10Rs)もある。



左側にはドラゴンボートのような船がある。



その奥はイブドウ・パカングバ寺院。
正装していないと入れないらしい。
メイテイ族の人々にとっては聖地と言う事で、
結婚式の儀式(報告?)などに訪れるらしい。

そのまま通路を進んで行くと立派な建物がある。
王宮かしら?



右側にはヘリポートがあった。



シュリ・シュリ・ゴビンダ・ジー寺院。
マハラジャ・ナラ・シンが1842年に建設したが、
地震で崩壊し1869年にマハラジャ・チャンドラ・キルティが
修復したと言う記載があった。確かに柱だけで屋根がない。



ここまでが城の南側(右側)半分。北側へ続く。

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【インドの宿泊施設】 ~ホテル・クラシック~(インパール)

2019年02月24日 21時10分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
今回の旅行はグループ旅行だったので、
ホテルは予約されていた。

四つ星でインパールで一番良いホテルだそうだ。
クラシックグループのホテルで他に安いホテルはあったのだが、
日本人と言う事で(安全のためであろう)ここを指定された。

朝食付きで税込み3720Rs(約5760円)。
私一人であればこの3分の1程度のホテルにしたと思う。

 
外見も立派。中央が吹き抜けになっていて、
夜は生演奏をしていた。



ツインルームだった。

 

コーヒーセットも完備。
小型の冷蔵庫はあったがスイッチが入らなかった。
インドではよくある事なので気にしない。

  

バスルームも広々としていて、シャワーのみだったが、
アメニティも完備。



通りに面した部屋の窓からの風景・・・。
このホテルがとびぬけて高層で豪華なのがわかる。



朝食はブッフェで洋食、インド料理と揃っていた。
パンが美味しかった。ドーナツも甘さ控えめで柔らかかった。
インドのパンは玉子を使っていない事もあって、
パサパサで不味い物が多いのだけど。

ジャガイモのパコーラとパイナップル、パパイヤ、メロン、
ライチジュース、ストロベリーのヨーグルトはイマイチだった。

 

英字新聞が揃っていた。
マニプル語とかヒンディー語の物もあって良かったのだが、
英語の解る外国人しか泊まらないのかもしれない。



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インパール平和博物館。

2019年02月23日 21時19分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
アランバン氏が自宅裏の納屋の二階で私設博物館を開いているが、
日本大使館が資金を募りレッドヒルの近隣に新しい博物館を建設した。



看板にもある通り建設資金は日本財団の協力による。
一説によると5000万円との事。



上記はアランバン氏の私設博物館に飾られていた、
博物館の建設予定図である。



これが完成した建物。窓が大きくなっている。

まだ中はガラーンとしていた。こんな風に・・・
展示物が入る前の博物館の中を見学する事もなかろうと、
けっこう楽しんだのだった。

 

インパールもさすがはインドで・・・
窓枠とガラスのサイズがピッタリしていなかったのはご愛敬。



入口には花が咲き、近隣の平和記念碑の裏側にある池には、
ボートも浮かべる・・・との事。

 

2019年6月にオープンするとの事で、
恐らく日本大使館や関係機関の方が詰めかけて、
盛大に行われると思われる。

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インパール戦争博物館。

2019年02月22日 21時27分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
今回、私達を案内してくれたのはインパールで生まれ育った、
アランバン氏である。父親がインド軍の将校であった事もあり、
この地で起きた戦争に興味をもっていたらしい。
そして友人たちと少しずつ記録を集め、
戦場に行って兵器や遺品や白骨となった遺体などの調査を行っている。

「戦争を自分達の手できちんと記録し、
遺品などを集めて記念式典を開くべきだ」と考え、
仲間たちと「第2次大戦インパール作戦財団」を設立。
作戦から70周年となる2014年に、
自宅の納屋を整備して私設の資料館を開いた。

 

庭や納屋に無造作に置かれた戦場から収集された物。

 飛行機の残骸

  オートバイ

 

 

 

銃弾や手榴弾はちゃんと処理されているとは思うけど、
生々しい。写真が撮れるのも個人の所有物だから。



レッドヒルの近所に新しく博物館が完成し、
2019年6月頃にはオープンする予定である。
この納屋にある物もそちらへ展示されるかもしれない。

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INA博物館(インパール)。

2019年02月21日 21時26分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
インパールにはINA(インディアン・ナショナル・アーミー
:インド国民軍)の博物館がある。

INAは大東亜戦争の時に日本軍の支援によって設けられた、
英印軍の捕虜のインド人転向者を中心とした軍隊であった。
モットーは和合、信仰、犠牲。

スバス・チャンドラ・ボースの元、総兵力は4万5千人。
1944年にビルマに移動し「自由インド」「インド解放」をスローガンに、
日本軍とともにインパール作戦に参加した。

門を入った左側にボースの銅像がある。
この地は初めてインド国旗が建てられた場所でもある。

 

警備の兵士のライフル銃を持たせてもらったが、
旧式の木製で無茶苦茶重い・・・・。
これじゃ銃口が上を向かないわ。



その奥に博物館がある。内部は撮影禁止。

 

インド国民軍の博物館なので日本関係の物は少なかった。

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インパール作戦戦没勇士之碑。

2019年02月20日 21時17分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
レッドヒルの「インド平和記念碑」の隣にあるのが、
「インパール作戦戦没勇士之碑」である。

レッドヒルのある場所はロトパチンと言う村であり、
そこの村長さんが自分で慰霊碑を作って慰霊していたそうだ。

 

後から日本人が慰霊碑の側面にいろいろな言葉を付け加えたとの事だ。

 正面

 

敷地内にの左奥にはこの慰霊碑があった。



そして砲身を切り詰めた一式機動47ミリ砲には、
大阪陸軍の文字が刻まれていた。



正面に手向けられた日の丸に新潟県の文字が印刷されていたので、
後から調べた所、高田歩兵第58連隊がコヒマへ進んだ、
佐藤中将の一団に含まれていた事がわかった。



高田は現在の新潟県上越市の事であり、
私の故郷の近くには昔から陸上自衛隊の駐屯地もある。
市内には高田歩兵第58連隊の碑があるとの事で、
帰郷した際に訪れてみるつもりだ。

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レッド・ヒル(インパール)。

2019年02月19日 21時44分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
インパールの南西17Kmの所にレッド・ヒルと呼ばれる小山がある。
インパール作戦の時に日本軍は2926高地と呼んだ場所は、
ロトパチン村にあり、玉砕した日本兵の血で赤く染まった丘・・・
レッド・ヒルと呼ばれている。



丘の前は普通の道路が通っている。

インパールは平らな盆地で、上の道路を進んだ古戦場跡から、
レッド・ヒルはこのように映る。

 

近づいてみるとこのような感じ。
ここで800名もの日本兵が戦死した。



道路の左側に「インド平和記念碑」が建てられている。

 

この門を入って行くと日本の厚生労働省によって、
平成6年3月25日に建設された記念碑がある。



 

正面にある献花台に持参した果物、水、日本酒、花を供えて、
この地での過酷な戦いで尊い命を失った人々へ祈りを捧げた。



碑の裏手には植樹された桜の木があった。
インパールに散った日本兵に、
せめて満開の桜の花を見せてあげたい。



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インパール作戦。

2019年02月18日 21時47分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
インパール作戦は1944年(昭和19年)3月~7月まで行われた、
日本陸軍の軍事作戦である。
ミャンマー(当時ビルマ)・インド間の要衝にあり、
イギリス軍の主要拠点であるインパールを攻撃し、
中国への補給路を断つ目的で行われた。



コヒマ、ディマプル、インパールは赤丸印、
チンドウィン川は青の線、アラカン山脈は緑色の線。

ミャンマーとインドとの国境にあるチンドウィン川は幅600mの大河で、
牛に物資を積んで渡ろうとしたが大半は流されてしまった。
この牛は最終的には食料となるはずだった。

そして川を超えると今度は2000m超のアラカン山脈が立ちはだかる。
平地の牛は山を歩くには適しておらず、
ここでも役に立たなかったのである。

インパール作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、
現在では史上最悪の作戦と呼ばれている。

簡単に言えばそうなるのだが、この作戦を調べていて、
この作戦単独で考えれば確かに大敗を喫したのであるが、
その背景にあるインド独立やイギリスに与えた、
日本と言う国や日本人のイメージまでを考えれば、
単なる敗北ではなく大きな価値(勝ち)があったのではないか?
と思えてくるのだ。

小さな山もろとも吹き飛ばせる弾薬や兵力を持つイギリス軍は、
空から弾薬も食料や物資の補給は可能だった。
日本軍は弾も食料も限りがあり、物資の補給もできず、
どう考えても玉砕するのは解り切っていた事である。

 牟田口中将

この作戦を決行し愚将と言われている牟田口中将だが、
玉砕が解っていながら無謀な作戦を決行したのは何故だろうか?

牟田口中将の命令に背きディマプルに行かず、
コヒマから独断で撤退した佐藤中将はどうだったのか?
(弾薬も食料も補給されず引くしかなかったと言われている。)

 佐藤中将

イギリス軍側の証言からも解るように、
4月6日にナガランド州のコヒマを占領した日本軍が、
その先のディマプルまで迅速(2日で)に進軍していれば、
勝利に終わった可能性が高い。目前で撤退してしまったため、
インパールでの敗戦が決定的になってしまった。

結果的に出撃した日本兵9万人のうち3万9千人が戦死、
4万人が飢えとマラリアや赤痢などの病気の為に、
命を落としてしまった。

調べれば調べるほどいろんな背景や状況、
当事者の声が聞こえてくる。

詳しく書いている方がいらっしゃるので、
関連記事としてリンクを貼っておきますので、
ご覧いただければと思います。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1479.html

この作戦は最初から失敗する要因がたくさんあった、
にも関わらず決行されてしまったのだ。

 ボース

インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースが
インド国民軍(INA)を率いて解放を目指し、
1944年ミャンマーに本拠地を移動し、
ミャンマー方面軍司令官の河辺正三中将と出会った。

河辺中将はボースのインド独立にかける意志に感銘を受け、
インパール作戦を強固に推し進めたとも言われている。
インパール作戦ではボースの要求でINA兵士9千人も参加し、
日本軍と一緒に戦っている。

当時INA兵士は4万人いたが、
わずか9千人のみを参加させた理由として、
戦争が終わりインドが独立した時の為に必要だからと、
参加させなかったと言われている。

ボースは1945年8月18日、
台湾から大連に向かう飛行機の離陸時の事故で死亡した。
東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺にボースの碑がある。

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【インドの空港】 ~ インパール空港 ~(マニプル)

2019年02月17日 21時15分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
昨年シッキムへ行った時に思ったのは、
ノースイーストは恐らく山岳部で、
似たような地形と文化であろうと。

しかしインパールに着いた時点で、
それが大きな間違いであったと気付いた。
インパールは盆地でアップダウンがなかった。



市内から南8Kmの場所にある。
一応、国際空港であるが・・・定期便はないらしい。
ブータンのドゥルクエアの飛行機があったけど。

正式名はビル・ティケンドラジット国際空港と言い、
マニプル王国の王子で1891年の大英帝国との戦争で死去した、
人物の名前が付けられている。



当然の事ながらインドでは空港や駅、橋は撮影禁止である。
正確に言えば・・・
人物が映っていない建物などの写真は禁止なのかもしれないが。
なので周りのインド人が撮っていない時には止めた方が良い。

 

外国人はこの看板のカウンターでパスポートにスタンプを押され、
名前やら住所やら帰路の便名とかいろいろ記入しなければならない。



案内板は上からマニプリ語、ヒンディー語、
英語の表記になっている。



伝統的舞踊のマニプリはインド4大舞踊の一つである。
(カタカリ、バタラナティアム、カタック、マニプリ。)

 

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インド20州目(マニプル州)の訪問。

2019年02月16日 21時08分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
インドには29の州がある。
そのうち東北地方にある7つの州をセブン・シスターズと呼んでいる。
それがアッサム州、アルナーチャル・プラデシュ州、トリプラ州、
ナガランド州、マニプル州、ミゾラム州、メガラヤ州である。
そしてシッキム州を加えて8州をノースイーストと呼ぶ。

そこはネパール、中国(チベット)、ブータン、ミャンマー、
バングラデシュと国境を接していたり、
またインドからの分離独立を求める集団がいたりと、
気安く旅行者が立ち入る場所ではない。

長らく外国人の入境は制限制限されていたが、
現在入境許可証(パーニット)が必要なのは、
アルナーチャル・プラデシュ州とシッキム州のみ。
ただし残りの州も入境の際にはパスポートにスタンプが押される。



私は29州のうち19州に行っているが、
ノースイーストではシッキム州にしか行けていない。
情報も少なく英語に堪能でない私が一人で行くには、
不安があるからである。

今回、マニプル州へ行くグループに欠員が出たとお声がかかり、
ピンチヒッターとして行ける事になった。

マニプル州の州都はインパール。(現地の発音ではインファール。)
第二次世界大戦の際のインパール作戦で有名である。
今回は団体旅行と言う事で事前に下調べもせずに行ってしまったが、
ちゃんと調べるべきだったと、ちょっと反省した。

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シッキム州の印象。

2018年05月31日 21時49分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
ガントクはシッキム州の州都である。
シッキム州の面積は7000㎢強でインド29州中2番目に狭く、
人口は60万人強はインドの29州の中で最も少ない。

インドの東北に位置し北は中国(チベット)、
東はネパール、西はブータンとの国境である。
州の大半は山岳地帯でwifiの繋がりは非常に悪かった。

ウエスト・ベンガル州のダージリンでも見かけたが、
LPG(ガス)ボンベや重い荷を、
額に紐をかけて担ぐ人々を多く見かけた。



この日はガスの配給の日なのか、ボンベを持って並ぶ女性達。
このボンベは15Kg入りなので相当に重い。
空容器であっても女性の力で運ぶのは大変だ。
しかも坂道だし、若い女性達ではない。



道路は坂道で細いので要所要所に警官がおり、
交通整理のお蔭で交通ルールを守らない運転手もほとんどいないし、
ひどい渋滞もなくスムーズだった。
女性の警官も多かった。

 

UBERやOLAはなかったが、
タクシースタンドが多くそこから乗合タクシーに乗る事ができる。
マーケット間や幹線は10Rs程度の様だったが、
宿泊したホテルやルムテクなどへは交渉制となる。



公衆トイレの数も多かった。私の入った所だけかもしれないが、
トイレットペーパーも普通にあった。

 



道路にはゴミもなくインドらしからぬ所だった。
一番驚いたのは酒屋である。女性の店員がいた。
デリーを始め酒屋の店員は100%男性である。
また女性も普通に酒を買いに来ていた。

デリーではモールに入っている酒屋や空港の免税店、
外国人が多いマーケットの酒屋では見かけるが、
我が家の周りの普通の住宅地の酒屋では、
買いに行くと店員にも客にもジロジロ見られる。
私は外国人なので(そう見えるかどうか解らないが)、
とがめられないがインド人女性なら、
人目が気になって買いに行けないと思われる。

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ルムテク法輪センター その②。

2018年05月30日 21時23分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
坂を上り切った場所から右手を見上げれば、
シッキム最大の僧院が見える。



右手に進んで行くとゴールデン・ストゥーパがある。
カルマパ16世の遺骨と遺灰が収められている。
ストゥーパと言う名前だが見慣れたお椀型の建物はない。
お堂の中の聖骨箱に収められている。(撮影禁止)

 

ゴールデン・ストゥーパの向かい側には大きな僧院がある。

 

本堂は坂の左手にある。
堂々とした門の右側の傘の所でチケットを買う。
10Rs(約16円)。この旅で初めて入場料を払った。

 



門を入ると広場の先に本堂が見える。
広場にあるこの石柱の上にコインを投げて、
上手く乗ると願いが叶うと言われているそうで、
インド人たちが挑戦していたが柱の上に当たって、
跳ね返ってしまうので乗せるのは難しい。
柱に書いてある文字は・・・読めないけど。

 

本堂の中は撮影禁止らしかったのだが、
かなり撮影した後で言われたので・・・・。



 

 

中では僧侶達が砂曼荼羅を作成していた。

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ルムテク法輪センター その①。

2018年05月29日 21時47分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
ルムテクはガントクから25Kmほど下った所にある。
ガントクに向かう場合は手前で左手に折れる。

宿泊したホテルで手配した場合2000Rs(約3290円)だったので、
最寄りのタクシースタンドまで歩いてそこから乗った。
往復1200Rs(約1960円)、帰りはMGマルグで下車する事で、
1100Rs(約1760円)になった。

ルムテク法輪センター(ダルマ・チャクラ・センター)は、
シッキム州最大のゴンパ(チベット仏教の僧院)である。
この通称ルムテク・ゴンパはチベット仏教カギュ派の総本山。

1959年に第16代宗主カルマパがダライ・ラマ14世と共に、
インドへ亡命し、1960年に布教の本拠地として建設した。
カルマパ16世は1981年にアメリカで死去した。

<カルマパ17世問題>

現在カルマパ17世は2人いる。

1人はウゲン・ティンレー・ドルジェ。
ダライ・ラマ14世と中国政府によって認定されている。
中国政府は政治的な意味からウゲンをチベットに置いていたが、
2000年にインドのダラムサラのダライラマの元に身を寄せた。

インドと中国のシッキム州の領土権問題により、
カルマパ17世はルムテクに行く事が出来ずにいる。

もう一人はティンレー・タイェ・ドルジェ。
2017年に幼馴染の女性と結婚し僧位を放棄することを宣言したが、
その後も活動は続けている。



と言う訳でルムテク・ゴンパに入場するためには、
この門の左側にあるチェックポイントで、
パスポートと入境証(パーミット)の提示が必要だ。



ここから民家が立ち並ぶ坂道を登って行く。
鶏が道路を横切り猫たちがくつろぐ。

 

シッキム州で牛を見かけたのは唯一この1頭だけだった。



坂を上り切った所からの見晴らしは素晴らしかった。
ポストと花と遠くの山々・・・。



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ガントクのMGマルグ。

2018年05月28日 21時25分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
ラールー・マーケットが古いタイプならば、
MGマルグに軒を並べる店は新しいタイプである。

ブランドショップやカフェ、レストラン、
何処を見てもデリー等の大都市と遜色ないと言う印象だ。

ラールー・マーケットの向かい側に映画館がある。
その左手に見える階段を登り切った左右にある繁華街。
西側からはこのツーリスト・インフォメーションセンターが入口となる。



進んで行くとガンジー像がある。



道路は整備されており両脇にはオシャレなブティックや
カフェ、レストランが並んでいる。
ブラブラしているだけでも気持ちがいい。
もちろんデリーなど観光地で声をかけてくる
客引きや詐欺師は見当たらない。

見ての通りゴミも落ちていないし、
ノラ牛や野良犬もいないので綺麗だ。

もうひとつのガンジー像。



4月は毎日夕方から雨が降った。

 

傘を持っていない人は雨宿りをしていた。
雨が多いためなのか傘を売っていた。それも、
デリー辺りにはないようなチェック柄や水玉模様や
くどくない花柄などお洒落なデザインが多かった。
雨も楽しまなきゃね。

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