三つ子の魂なんとやら
高校のときです。
あんまりクラスにも馴染めず、特定の仲の良い友人とだけ付き合っておりました。
特に三年になると、クラスにはMしか友人がおりませんで、振り返ってみると「ホモか?」というくらい、一緒に居たように思います。
そんなわけで、ある同級生が、
「おれ、未だにすんけいとMの区別がつかないぜ」
と大声で言われる始末。
そんで、社会人になった今も友人は少ないです。
環境がちょっと変わったくらいでは、そうそう生き方は変わりませんな。
で、村上春樹の「海辺のカフカ」です。
文庫になったので、手にしてみました。
現在、上巻だけ読了。今回の感想は、途中経過になります。
話は、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と同じで、別系統の物語が交互に進みます。
一つは、ある事件をきっかけに記憶や複雑な思考能力を失いつつ、猫探しを仕事にしている老人の話。
もう一つは、こんな感じ。
どちらかと言いますと、こちらの物語の方がメインになります。主人公の名前も、題名にも使われているカフカですし。
で、このカフカ少年。学校では、孤立しています。友人はおりません。
まっ、つまり、村上春樹の小説に出てくる、典型的な「孤独でありながら、孤独を享受している」というキャラクターです。
にもかかわらず、「家を出て遠くの知らない街に行」くと、なんだか色んな人間が、多くを語ることなく彼の窮状を理解してくれて、さらに手助けしてくれます。しかも、ある一線を踏み越えるような田舎のおばちゃん的な不躾な援助は、絶対にしません。押し付けることはなく、ただカフカ少年が踏み外さないような環境を、優しく構築してくれます。
学校で好かれないような人間が、いわんや他の環境において、こんなに好かれるであろうか? いや、ない。
まぁ、このおとぎ話のような展開をムカつく人間には、村上春樹の作品は読めないでしょうけどね。
個人的には、ムカつかないこともないのですが、やはり、日本屈指の小説家の筆さばきを、感心しつつ、面白く読ませてもらっています。
こんなシーンも、普通に読んじゃいそうですけど、実際には、非常にシンボリックです。
「ノルウェイの森」の最後に、交差点という岐路に立っている主人公が「僕はどこにいるんだ?」と自問するシーン(うろ覚え)がありますが、それとモロにかぶってますね。
「ノルウェイの森」では、「直子」と「緑」という二人の女性がそれぞれ「死に引きずられていく人間」と「死に立ち向かっていく人間」として描かれ、主人公はどちらも選べないというシーンで落ちます。
で、「海辺のカフカ 上巻」の、この引用したシーンでは、「森」と「血」が描かれています。つまり、「緑」と「赤」です。
覚えてます? 「ノルウェイの森」の表紙ですね。
対応表にしますと、こうなります。
つまり、「私は森の奥で、ひとりぼっちで、混乱し、子宮から多くの血を流し続け」るというシーンは死(血)が生(森)に内包されているわけでして、「ノルウェイの森」での有名な言葉、
のまんまなんですな。
故に、この「私」の「ひとりぼっちで、混乱し」ている様は、単に生理が始まってパニくってるわけではなく、「生」と「死」の世界にはさまれた人間の「怒り、怯え、恥」を表現しているわけです。
相変わらず、村上春樹です。一筋縄ではいきません。
他にも、いろんなギミックを入れこんでいるんだろうなぁ。どこまで理解できるのやら。(カラスと呼ばれる少年も、他の作品で出ているのかな?)
ともかく、下巻にいきます。
高校のときです。
あんまりクラスにも馴染めず、特定の仲の良い友人とだけ付き合っておりました。
特に三年になると、クラスにはMしか友人がおりませんで、振り返ってみると「ホモか?」というくらい、一緒に居たように思います。
そんなわけで、ある同級生が、
「おれ、未だにすんけいとMの区別がつかないぜ」
と大声で言われる始末。
そんで、社会人になった今も友人は少ないです。
環境がちょっと変わったくらいでは、そうそう生き方は変わりませんな。
で、村上春樹の「海辺のカフカ」です。
文庫になったので、手にしてみました。
現在、上巻だけ読了。今回の感想は、途中経過になります。
話は、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と同じで、別系統の物語が交互に進みます。
一つは、ある事件をきっかけに記憶や複雑な思考能力を失いつつ、猫探しを仕事にしている老人の話。
もう一つは、こんな感じ。
15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった。 なんだかおとぎ話みたいに聞こえるかもしれない。でもそれはおとぎ話じゃない。どんな意味あいにおいても。 (村上春樹「海辺のカフカ 上巻」12頁~13頁 新潮文庫) |
で、このカフカ少年。学校では、孤立しています。友人はおりません。
まっ、つまり、村上春樹の小説に出てくる、典型的な「孤独でありながら、孤独を享受している」というキャラクターです。
にもかかわらず、「家を出て遠くの知らない街に行」くと、なんだか色んな人間が、多くを語ることなく彼の窮状を理解してくれて、さらに手助けしてくれます。しかも、ある一線を踏み越えるような田舎のおばちゃん的な不躾な援助は、絶対にしません。押し付けることはなく、ただカフカ少年が踏み外さないような環境を、優しく構築してくれます。
学校で好かれないような人間が、いわんや他の環境において、こんなに好かれるであろうか? いや、ない。
まぁ、このおとぎ話のような展開をムカつく人間には、村上春樹の作品は読めないでしょうけどね。
個人的には、ムカつかないこともないのですが、やはり、日本屈指の小説家の筆さばきを、感心しつつ、面白く読ませてもらっています。
何が正しいのか正しくないのか、私にはもうわからなくなっていました。私の見ている風景がほんとうに正しいものなのか、私の目にしている色彩が本当に正しいものなのか、私の耳にしている鳥たちの声がほんとうに正しいものなのかどうか……。そして私は森の奥で、ひとりぼっちで、混乱し、子宮から多くの血を流し続けていました。私は怒り、怯え、恥の中に沈んでいました。私は泣きました。声を上げずに静かに静かに泣いていました。(村上春樹「海辺のカフカ 上巻」210頁~211頁 新潮文庫) |
「ノルウェイの森」の最後に、交差点という岐路に立っている主人公が「僕はどこにいるんだ?」と自問するシーン(うろ覚え)がありますが、それとモロにかぶってますね。
「ノルウェイの森」では、「直子」と「緑」という二人の女性がそれぞれ「死に引きずられていく人間」と「死に立ち向かっていく人間」として描かれ、主人公はどちらも選べないというシーンで落ちます。
で、「海辺のカフカ 上巻」の、この引用したシーンでは、「森」と「血」が描かれています。つまり、「緑」と「赤」です。
覚えてます? 「ノルウェイの森」の表紙ですね。
対応表にしますと、こうなります。
「海辺のカフカ」での文中 | 色 | 「ノルウェイの森」での登場人物 | 象徴するもの |
---|---|---|---|
森 | 緑 | 緑 | 生 |
血 | 赤 | 直子 | 死 |
つまり、「私は森の奥で、ひとりぼっちで、混乱し、子宮から多くの血を流し続け」るというシーンは死(血)が生(森)に内包されているわけでして、「ノルウェイの森」での有名な言葉、
死は生の対極としてではなく、その一部として存在する。 |
故に、この「私」の「ひとりぼっちで、混乱し」ている様は、単に生理が始まってパニくってるわけではなく、「生」と「死」の世界にはさまれた人間の「怒り、怯え、恥」を表現しているわけです。
相変わらず、村上春樹です。一筋縄ではいきません。
他にも、いろんなギミックを入れこんでいるんだろうなぁ。どこまで理解できるのやら。(カラスと呼ばれる少年も、他の作品で出ているのかな?)
ともかく、下巻にいきます。
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