すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

高橋和巳「邪宗門 (下)」

2005-08-10 08:37:53 | 書評
死んじゃえ、死んじゃえ、みんな、死んじゃえ


中学生時代に見た、深夜にやっている、しょーもない映画が、いまだに忘れられません。

タイトルは「ヤング ウォー」。粗筋は、こんな感じ。

町のダンスパーティーに出席するため、ある少女が彼氏の車に乗ってお出かけ。しかし、途中で町の不良たちに見つかり、彼氏は殺され、少女は嬲り者にされてしまいます。
少女は重体で発見されるものの、結局、助からず。もちろん町の警察が動き出しますが、少女の兄貴(主人公)も復讐のため、仲間数人と独自に犯人探しに狂奔します。
その捜査の間に、仲間は一人死に、二人死に…………。
主人公のあまりの強引なやり口を心配して、幼馴染(だったかな?)が注意をするのですが、それも聞き入れられません。それどころか、本当は二人とも好き合っているのに、素直になれず、ただただ喧嘩を繰り返すだけ。
そんなふうに自分の気持ちを整理できないまま、主人公は売春婦と寝て、エッチをしながら幼馴染のことを思ったり………。
で、ついに犯人グループを見つけ出し、彼らを殺すことに成功します。が、仲間たちも倒れ、主人公の家に戻れたのは、主人公自身と復讐によって重症の傷を負った友人一人だけになってしまいます。
復讐は果たせたとは言え、何人もの人間を殺したのも事実。たった一人の仲間も、もう死のうとしている。主人公は、もはやここまでと仲間に手榴弾を渡し、自決しようと決意します。
そこで、主人公の父親が戻ってきて、家の外から息子の名前を呼びます。
「そうだ、オヤジ」
とハッとした瞬間に手榴弾が爆破して、家は木っ端微塵。

…………どうでしょう?
まったく救いのない映画でした。


そんな懐かしいB級映画を思い起こさせる結末となった「邪宗門 (下)」でした。(上巻の感想は、こちらをどうぞ)

戦前の第一部。戦中の第二部。そして第三部は、戦後。
かつて「ひのもと救霊会」を苦しめていた権力は、潰えました。
束縛するものがなくなり、これから勢力を伸張できるはずだったのですが、…………結局、戦後にも権力は存在し、「ひのもと救霊会」は彼らとも対峙することとなります。そして、神を信じない教団の子・千葉潔によって武装化した教団はアメリカ軍と戦い、全滅してしまいます。

まぁなんつーか。

「登場人物を全員殺したかったんだろ? 全員を不幸にして、自己満足に浸りたかったんだろ? 高橋和巳さんよ?」という気がしますが…………。


それは、さておき。
高橋和巳の現世のイメージとは、これ。
 狭い乗務員室でくどくどと尋問されている間、行徳阿礼は軌道のつぎ目ごとに鳴る単調な車輪の音をきいていた。日頃住んでいる場所から離れれば、それだけで重荷や不愉快から解放されるように思ったのは、愚かな夢にすぎなかった。人間の住むところ、すべてが地獄であり、どこまで行っても自分も人間の一員である以上、おそらく枚われることもない。
高橋和巳「邪宗門 (下)」38頁 朝日文芸文庫
「どこまで行っても自分も人間の一員である以上、おそらく枚われることもない。」……………。

こういう世界で生きていくための、教団の教義は、これ。
 たとえ蓮の花ひらき、無量光かがやく天国の眼前にあろうとも、此岸に一人の不幸に涙する者あり、万人の餓鬼畜生道の徒あるかぎり、我らは昇天せじ。
 たとえこの世の破滅し、この世の永遠に呪われてあるとも、己れ一人にて救わるる心あらんよりは、むしろ世とともに呪われてあらん。
高橋和巳「邪宗門 (下)」175~176頁 朝日文芸文庫

本来であるならば、この酷薄な世界を忍従し、あわよくば世界をより良きものにするための宗教だったのに、世界に無謀な戦いを挑むことでしか教義の全うができなくなってしまった。…………こういうところは、モロ「オウム真理教」とかぶります。

が、「ひのもと救霊会」の権力が常に彼らを圧殺しようと企んでいるのに対して、「オウム真理教」の権力は彼らを圧殺しようなどとは企んでおらず、「オウム真理教」側の一方的な妄想でしかなかったですけど。


そして「オウム真理教」が俗世間とはかけ離れた解放区を築こうとしておきながらミニ国家を構築し、その中で行われていたことは、学歴偏重だったり、教主の寵愛を奪い合う競争社会だったり…………。一面において、俗世間以上に俗っぽい世界だったのは、あのころ盛んに報道された通りです。


以下は登場人物の一人阿貴の言葉。彼女は、弾圧された「ひのもと救霊会」の中で、生き残れた数少ない人間の一人です。
彼女の言葉を引用して、この「邪宗門」の感想はしめたいと思います。
 悪は人の心の中にこそある。その悪を特定の者に代表させて肉体もろとも火焙りにして滅ぼす魔女裁判よりも、心中の悪がすべての者にそなわることを認め、それを牛馬のように飼い馴らそうとするのが東洋の智慧のはずだった。いや論理よりも、感覚的に阿貴はそういうことをしてはいけないと感じたのだ。彼女も今度の戦争、流血そして民衆の飢餓に、誰も責任はないとは思っていなかった。しかし同胞の誰かを血祭にあげて、教団の勢力を拡張するのは、また別な形で戦いを継続することのような気がする。痛めつけられたから相手を痛めつける。それではことは永遠の繰返しにすぎない。何か別の、よくは解らないけれども何か別の価値が今必要なのだ。そしてそれは宗教の根本、その存在理由にかかわることのような気がする。
高橋和巳「邪宗門 (下)」263~264頁 朝日文芸文庫



邪宗門〈下〉

朝日新聞

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