古文はさあ、古典文法さえ知っていれば読めるように思うじゃん?でも古文常識もわかってないと、その時の行動をトンデモなく頓珍漢な仕方で解釈してしまうってこと、あるよね。逆に言うと、現代文ならさあ、文法はもちろんそんなに常識も違わないから、当然のように解釈も間違わない・・・
と思っていたのか(・∀・)!!
というわけで、小学生による『ごんぎつね』解釈がトンデモないことになっているらしい、てな動画である。
正直この手の話題は、身近な人間ではそういう典型例を見たことがない(言うてまあ親戚の子どもくらいなんで二桁いってないけど)のでホンマかいなと思う心情もあるが、これについてちょっと書いてみたい。
おそらくこれは「文脈を踏まえて考えず、行動の表面的な印象をこれまでの経験に結びつけるから飛躍した解釈になる」ってことなのだろうと自分はみているが、これがどういう背景から来ているかを判断するためにも、「動画でも同じように解釈するのか?」という対照実験をしてみるのがよいのではないかと思う。
つまり、6グループほど設定して、2グループは本のみ(A)、2グループは動画のみ(B)、2グループは本+動画(C)という違いを設けて、解釈がどのように変わるのか、もしくは変わらないのかを、その解釈の根拠の確認も含めて調査してみた方がよい、ということだ。
その理由は、以前より子供たちが動画を見る時間は圧倒的に増えているはずで、逆に文章を読んだり書いたりする時間は減っている(と思われる)からだ。
以上のような比較対照を通じて、慣れの少ない「文章からの情報収集力」が低下しているのか、それとも慣れ親しみがあるはずの「動画からの情報収集力」すらも低いのかで、「以前と習慣が異なるがゆえの現象」なのか、あるいは「心情把握とそれを踏まえた行動理解という点に重大な問題を抱えているのか」がより明確になるだろう。
なお、後者であるとしたら、今後彼らのような人間たちが社会に出た場合、極めて重大なエラーが発生(多発)しうると考える。例えば仮に、「道でうずくまっている人がいる状況」を想定してみよう。そして「その人がいるのは有名な超高級店の前」である。この場合、まずは「うずくまっている」という視覚的情報から「体調が悪いのかな?」とか「何か辛いことがあったのだろうか?」といった相手の内面を慮る予測を立て、何か相手に対して行動を取るとすれば、それを踏まえた声掛けがなされるだろう(ただしこれは100%普遍的な話と言うつもりはなく、こうやって同情を引く行為を戦略的に行い、グループの別の人間がそれに手を差し伸べようとした人に対して盗難を働くといった手口がよく見られる国もある。ただ、日本の小学生を対象とした場合、こういう想定で相手の行動パターンを予測する根拠・材料は少なく、この解釈がまず最初に小学生から出てくると考えるのは、それこそ文脈を無視した無理筋な思考と言えるだろう)。
しかし、観察力や判断力が大きく低下し、文脈を踏まえない表層的解釈を加える傾向が強まっているなら、この状況を「なぜ道にうずくまっているのかがわからない」→「そうするのには理由があるはずだ」→「超高級店にいた自分に注目を集めてもらうため、わざとそんな行動を取っている」といった解釈をしても全くおかしくない(その人が店に入ったかどうかすら不明であるのに、だ。念のため言っておくと、それと類似の行動をとる人間が存在しうるという話と、まず先にそういう解釈が出てくることのヤバさはまた別の話である)。
さらに、こういった解釈を踏まえ、辛そうな様子の人に対して勝手な心情の憶測の元、むしろ冷厳な当りをするのならば、もはやそれはサイコパスやソシオパスなどと区別をつけることすら難しいレベルと言える(なお、ネットの世界では子供どころかいい大人でもこういう物事の解釈をする人間は少なくないことが可視化されているので、子ども云々というより、コミュニケーションのあり方の変化という一般的な視点でも考えた方がよいのではないかと思う)。
まあ今回はあくまで雑感程度なので、これ以上踏み込んだ何かがある訳ではないが、付随して一つ言えることがあるとすれば、「価値観が多様化・複雑化して共通前提が急速に失われている成熟社会において、『空気』や『察して』というタイプのコミュニケーションは急速に通用しなくなってくるだろう」ということじゃないかと思う(ちなみに日本人の自己肯定感は低いままなので、「あえて空気を読まずに自分の価値観を大事にする」のとは違い、「単に空気が読めない」という方が正しい。つまり、前に書いた共同幻想のモデルケースでは④のグループに近似する。さらに言えば、出る杭には何としてもなりたくない傾向が観察される話は、『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』に関する記事で触れた通りだ→こちらはモデルケースの③とほぼ重なる)。
そしてそのような変化の中において、ハイコンテクストな言語と言われる日本語は、窮地に立たされるかもしれない。例えば冒頭の動画では、ゲームセンターにおける中学生たちのコミュニケーションを添削するという流れがあるが、正直私は冷笑すら浮かんでしまった。というのも、こういう主語や目的語を明確にするタイプのコミュニケーションを、我々が若年層の頃に果たして「仲間」に対して行ってきただろうか、と思うからである(熊本弁で「まじおもしんにゃーねー」とか普通に会話で言ってたなとw誰が何に対してなんて今の状況見ればわかるやんけ、とすら思わんかったわw)。
つまり、極めて曖昧で語彙に乏しい表現というのは、むしろ数十年前の小学生・中学生もそうだったのであり、それをあれこれ「添削」して「正確なコミュニケーション」にしようなどというのは、いかにもそういう表現方法が(報連相などで)求められるようになった社会人が、後知恵でやりそうな片腹痛い行為だと思ったからである。
仮に中学生たちのコミュニケーションを稚拙だと評価するならば、それは彼らの年代固有の問題ではなく、もはや日本語(より正確に言えば日本的コミュニケーションスタイル)というものが、この共通前提の消滅した社会において適応障害の様相を呈しつつある、という理解のもとになされるべきである。
すなわちこんな感じだ。
ああ、自分たちの時もせいぜいこんな感じのやり取りしてたよね。でもさあ、相手の家庭環境や思想信条、趣味嗜好も昔と違って人それぞれで全然異なるから(「ほぼ誰でも見るテレビ番組」みたいなのは今や存在しない)、主語とか目的語を省略して相手の察してくれることを期待するコミュニケーションを取っていると、社会に出たらもちろん、「身内」とのやり取りでも齟齬が出て苦労することになるよ。たとえばさあ、古文とか読んでると、「これ一体誰の動作なんだよ!」って訳わかんなくなることあるじゃん?あれって狭い世界の人だけ読めればいいと思ってたから別に通じるやろと思って書いてたわけだけど、今同じことをやると、「こいつ何が言いいたいの?」って余計な誤解を招くことになっちゃうわけよ。だから、なるだけ主語なんかも省略しないように習慣づけしようね・・・と。
ああ、自分たちの時もせいぜいこんな感じのやり取りしてたよね。でもさあ、相手の家庭環境や思想信条、趣味嗜好も昔と違って人それぞれで全然異なるから(「ほぼ誰でも見るテレビ番組」みたいなのは今や存在しない)、主語とか目的語を省略して相手の察してくれることを期待するコミュニケーションを取っていると、社会に出たらもちろん、「身内」とのやり取りでも齟齬が出て苦労することになるよ。たとえばさあ、古文とか読んでると、「これ一体誰の動作なんだよ!」って訳わかんなくなることあるじゃん?あれって狭い世界の人だけ読めればいいと思ってたから別に通じるやろと思って書いてたわけだけど、今同じことをやると、「こいつ何が言いいたいの?」って余計な誤解を招くことになっちゃうわけよ。だから、なるだけ主語なんかも省略しないように習慣づけしようね・・・と。
まあそうは言っても、学校の教材自体が旧来の日本的コミュニケーション(表現方法)のオンパレードなわけだから、そのアドバイスって矛盾しまくってるんですけどね(・∀・)
ともあれ、こういう状況の変化とそれへの対応の遅れが、不登校の数が増えている=学校が忌避されている大きな理由の一つではないのかね?ブラック校則やその閉鎖性も含め、いまだに近代の兵隊を作るシステム(パノプティコン)を引きずっていて、同調圧力の牢獄状態になっている空間に足を運ぶのが苦痛でしょうがない、てわけだ(より広く言えば、今の社会は共通前提がすごい勢いで消失していっているけど、一方でムラ社会的メンタリティは変わっていないので、同調圧力だけは相変わらず強く、それが生きづらさにも繋がっているのではないかと)。
で、ここで述べた話は、AIの「進化」と人間の「劣化」、つまり生身の人間とのコミュニケーションに実りを感じなくなり(いちいち「察する」の面倒だし、「察して」ももらえない)、ならば「進化」するbotでええやんとなる人が増えていくだろう(コスパ・タイパ重視だしね)・・・って話につながるよと述べつつ、この稿を終えたい。
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