学校空間でのガバナンス欠如は必然的に起こる:透明性確保の重要性

2019-11-13 13:35:35 | 感想など

 

閉鎖空間において、人はしばしば判断を誤る。その時、「頑張っているかどうか」というのは本質的に重要ではない(もちろん、そういう初歩的なレベルでお粗末なケースも少なくはないのだが)。状況によりしばしば「頑張り方を間違える」ことこそが極めて重大な問題なのである(動画のケースで言えば、リスクとイベント実施の効果のバランスが取れていたようにはとても思えない。つまり間違えた方向に努力をしたわけである)。

 

学校という一種の「閉鎖空間」で起こる様々な出来事が日々取り沙汰されている。すなわち「いじめ」という名の集団暴行やモラハラ、ブラック校則、危険なイベントの残存やその判断・・・挙げていけばキリがない。その具体的な表出が、先の小学校における教員内での集団暴行(正直「いじめ」という言葉は、いい加減犯罪と直結する別の言葉に変えるべきだと思う)であったり、安全性の吟味を軽視した組体操の実施だったりするわけだ。

 

私が不思議に思うのは、大人の社会では当然のように問題視されていることが、学校という空間ではなぜか適用されないことである。すなわち、パワハラ、モラハラ、労働基準法etc...だが、これは何も教師→生徒に限った話ではない。生徒→教師でもそうだし、保護者→教師でも同じである。というのも、教師とは聖職者でもなければ、サービス機関の店員でもなく、まず「人間」だからである(無論、生徒・保護者がそうであるのは言うまでもない)。

 

そもそも、精神的に成熟しているとされる大人の世界でさえ様々な軋轢や犯罪行為が日々起こっているのに、どうして子どもの世界はそうでないなどと思うのだろうか?またそれゆえに大人の世界では昔に比べれば法整備や現実の対応も改善されてきたのに、子どもの世界では同じようにしないのはなぜだろうか。たとえば、会社での問題で「いじめ」という言葉を使う例はほとんど聞かなくなっており、パワハラやセクハラ、すなわち犯罪に繋がる行為として表現されるようになっている(もちろん、何でもそういったものにカテゴライズしてしまうことで、コミュニケーションがとりにくくなっているケースもあるようだが。これはこれでAI台頭の一要因となるかもしれない)。しかし、学校という空間では未だに「いじめ」という言葉が飛び交っている。こういう言葉遣いの非対称性にしてからが問題を軽視する傾向の暗示であり、またそうする傾向を生み出す理由にもなっているのではないだろうか。

 

さて、そのような意識変化が重要として、実際の行動を学校に任せるのは愚の骨頂だろう。その理由は、そこがしばしばステークホルダーになるからであり、また少なくとも現状では教師の仕事量が多く、諸々の対応に避けるリソースが少ないからだ。ゆえに、第三者機関のチェックが入る体制を始めから構築すべきであり、それをしない学校にあなたが属しているのであれば、たとえば集団暴行やパワハラ、モラハラ的行動は録音でもして警察に直接訴えた方が早い(所詮学校には司法権なぞないので)。少なくともそうすることで、物理的に加害者に「攻撃」ができないようにしてしまうのが得策だろう・・・とまあこうなるわけである(その行動に出た場合、周囲との関係性が同じようにはいかないだろうが、少なくとも自死・自傷を選ばされるよりはマシである。学校側はどうせまともに調査する時間も意識もないのなら、始めから子どもにそう行動するよう教育したらどうか?実はこういう所も、泣き寝入り体質が作られる要因となっているのかもしれない)。

 

なお、前述のような教師の多忙さの緩和も、対応の質を高めるには極めて重要である(何でもかんでも警察に訴えてりゃいいのかと言えばもちろんそうではなく、当事者間の問題解決能力向上のためにも、話し合いの場を設けた方がいいケースだってあるだろうし)。その一要素として、部活のアウトソーシングがよく取り沙汰されるが、私は授業もある程度アウトソーシングしてしまえばいいと考えている。そもそも、先の英語試験で地域間格差が言われるたが、その割に授業の質のばらつきに言及がないのは不思議でしょうがない(ちなみに離島とかが英語認定試験を受ける場合は、CBTにすりゃいいんじゃないんですかねえ・・・まあそうすると膨大な数の人間が同日にネット上で試験受けるわけで処理できなくなる→態勢が整ってないんで延期しますぅテヘペロ、てことなんだろうが)。前にも紹介したが、今では無料で見れるコンテンツがネットには溢れているわけで、このレベルを超えられる授業を一体どれだけの学校教師がやれていると言うのか。それに、『貧困を救えない国 日本』にも鈴木大介の発言で出てくるが、進路指導とかどれだけの正確な知識(cf.Fラン大学就職チャンネル)でやれているんだろうか?

 

以上を踏まえると、もう教師の仕事は、映像授業を踏まえたアクティブラーニング(という名の話し合いっぽいもの)+レポート提出、そして生活管理に特化した方がいいんじゃないだろうか。そうしたら、時間の空きも増えて様々な生徒対応やトラブル対応の時間捻出も可能になるし、時間外労働の問題も大分緩和されるんじゃないのか。貧困問題の時に取り沙汰される人員不足問題と同じで、今の学校のシステムは時代に対応できないシステムと化しているように思える。

 

というわけで、今後の学校はアウトソーシングを進めつつ第三者のチェックを取り込んでいく形にしないと、遅々として問題の解決はしないだろうと思う次第である。


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