フラグメント47:背中は怖い、ブログの表すもの、違和感の追求

2008-09-09 03:00:18 | フラグメント
最近なぜが娘属性が出なくなったことを不思議に思いつつ、YU-NOの記事の前にフラグメント。なお、題名と中身はほとんど無関係。


<浜松町>
坊主=手入れ不要→心の平静(アパシー)→送り犬=背後(見えないもの)は恐い→俺の後ろに立つな。ツンデレ…ギャップと心が開かれていく過程…裏も表も見えている、という[過視性による]安心感?「選び取ることが大事だ」という見解に対しては次のように批判が可能である。すなわち、選択肢の段階で誘導されていれば…というものだ。主体的にも完全に自由な選択肢などありえないし、ましてやそれは数多くの介入を受ける。選ぶことそのものの重要性を強調しすぎるのは、その事実を隠蔽する。


<ブログの表すもの>
一般性なのか個人の嗜考なのか。公開している以上完全に後者ということはありえない。[それが嫌なら]ブログにしないかコメント拒否とかにすべき。公開日記を付けることに自分はあまり意味があるとは思えない。過去の私と今の私が全く違うとは言えない。しかしまた同じとも言えない。その不気味な関係性(可変的な好み眠りによせて人は経験に学ばない)。ハッピーエンドしかない、可能性の去勢された物語にいったい何の意味があるのか?確認作業、お約束の需要⇔流動性。失敗するか成功するかわからないから努力するし、その努力は尊い(サドマゾ)。必ず成功するならそもそも努力しない。


後半の部分は、もちろんこれはこれで持っていきかたがあるのだけど、様々な具体例からいくらでも反論が可能。


まともは余計だ>
感覚と疑問(思考)は乖離しない。むしろ強い感覚だからこそ疑問が生まれる。この間帰省した時に聞いた話。ある奴が大学入試の英作文で「セーラームーンを見て感動した」という話を書いたそうな(しかも文法にまるでミスなし)。塾の講師は添削しながら首を傾げた。笑いが起こる。純粋におかしいと感じた。ではなぜ純粋におかしいのか?たとえば漱石の「こころ」なら?ドストエフスキーなら?ガルガンチュア物語なら?筒井康隆なら?ドラえもんなら?「苺ましまろ」なら?どうか。サブカルとハイカルの境界線が曖昧になってるなんてほとんど誰もが知っている話だが、この反応はつまりそれを理解してはいないことを物語っている。


感覚を不思議に思うためには、「まとも」の枷から自由になること、そして違和感を見逃さないことが大事ですよ、と。ちなみに、笑いの話を単純に考えると、要するに「一般的でないことがおもしろい」だけじゃねーかと。ん、でも一般的じゃねーけど笑えないパターンてのも腐るほど存在するな(上記の例の中にも)。なお、意図的ではあるが後半はパラノイア的様相を呈している。
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