ひぐらしのなく頃に:人為100%で推理して失望した人へ

2006-05-30 02:09:05 | ひぐらし
(はじめに)
ひぐらしの皆殺し編をプレイして、程度の差はあれど、失望したという人は少なくない。その理由は色々あると思うが、公式HPでよく見られた「オカルト否定」「人為100%」を枠組みに推理していたことが、失望の原因になっている人は結構いると思われる。今回は、それについて書いてみたい。なお、いい加減うんざりすることが多いので強調しておくが、私は「肯定派」でも「否定派」でもない。そのことは、過去ログを見てもらえば明らかになるだろう。これから書くことはあたかもひぐらしを擁護するような内容になるだろうけど、その点は誤解のないようにしてもらいたい。


(本文)
私が最初に人為100%という見方そのものを疑った理由に、古手梨花の「予言」があった。これを人為という解釈に基づいて分析する人も大勢いたけれども、それにしてはあまりに奇妙な点が多すぎたのだ(過去ログ「古手梨花の『予言』について」参照)。

そうやって「予言」の分析をしながら「人為派」の反応を見るうち、今度は「お疲れ様会」の内容がおかしいことに気づいた。理由はごく単純。「人為派」と「祟り派」に分ける根拠が微塵も提示されていなかったからである。なぜ二者択一なのか…?私にはその分け方があまりに恣意的に見えた。そこから、「そもそもお疲れ様会が大いなるミスリードのもとではないか?」という仮説に行き着いた。すると、今まで自分の考え方が二者択一に縛られていたことに気づいた。そして、ここが非常に重要なのだが、そうやって二者択一にしている以上、(割合はおいとくとして)真実は両方の混在だと考えるようになった。それが真実であるからこそ、隠される必要があるのだから。

そういう前提で見直すと、論理的に明らかにおかしいところが発見された。それが、鬼隠し編のTIPS「セブンスマートにて」だった。この内容について、私の記憶が正しければ、多くの人が「混乱した圭一の精神状態の反映」と解釈していたように思える。だがよく考えれば、それは論理的にあまりにおかしいではないか。「圭一が論理的な思考をできていない」という見方は根拠のある有効なものであったと思うし、結果を知った立場からほれ見たことかと(傲慢にも)それを非難するつもりなど毛頭ない。ただ、虚心に圭一の姿を見たとき、彼の思考に全く論理性が欠けていると分析するのは無理があったのは確かなことなのだ。

なるほど彼はパラノイア的な思考に取り憑かれていた。しかしそれだからこそ、「セブンスマートにて」の内容はありえないのだ。圭一がレナ(と魅音)を疑うなら、なぜ圭一の後ろの存在がレナ(や魅音)ではないのだろうか?なぜ「りんごを咀嚼するように理解」すべき存在だったのだろうか?彼がレナを疑えば疑うほど、あそこにはレナがいなければならない。そうでなければ、圭一の中で辻褄が合わないからだ。ある人間を疑うために、普通に考えればありえないことまでその人のせいにする、ということはしばしば起こりうるだろう。しかしその逆、すなわちある人間を疑っているのに、(即座には理解できないような)別の存在のせいにしてしまうなどということは論理的に不自然ではないだろうか。

ということはつまり、彼が見た「何か」は、紛れもなく「そこにいるはずのないもの」だったのだ。これが、何らかのオカルト的存在が本編に登場しているということを(論理的に)確信した経緯だった。

ここで、しっかりと推理をしていた人はこう反論するかもしれない。すなわち、「死んだはずの人間」という可能性もあったのではないか、と。確かに、私もそれをまず考えた。だがそれだと、二つおかしな点がある。まず、名前などの特徴が出てこないこと。「死んだはずの人間」と認識できるならそれは少なくとも知己である。ならば、その名前といった特徴に言及がないのはおかしい。また、こちらがより重要なのだが、圭一のもとにわざわざ現れるという危険を冒す意味がわからない。もし後ろの存在が「死んだはずの人間」であれば、レナとその人物は当然繋がっていなければならない。そしておそらく、魅音も繋がっているだろう。ならばなぜ、圭一の後を付ける程度のことを「死んだはずの人間」が行うなどというリスキーなことをするのか。わざわざ死んだことにしているぐらいだから、周りにも生きていることがバレたらまずいはずだ。とするなら、例えば「圭一に精神的プレッシャーを与えるため」という目的もまず却下されるところだろう。それは、圭一の側にいても不自然ではない人間が行えばよいことなのであり、レナや魅音はその適任なのであった。以上の理由から、後ろの存在は単なる空想でも「死んだはずの人間」でもなく、オカルト的な存在に違いないと結論したのである。

これは一例にすぎない。分析を進めれば、答えを基準に見なくとも明らかに人為ではおかしいところが出てくる(祭具殿の「足踏み」など)。だから、人為100%で推理してた人には厳しいけれどこう言いたい。「作品の出来以前に、あなたの読み込みが足りなかったのだ」と。

※なお、鬼編の足音に関しては「背後の女の声」も参考にした。

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4 コメント

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論理的と仰いますが (Unknown)
2011-12-05 14:03:35
「圭一が~~と感じた、~~と考えた」という所から、「だから~~は論理的に事実なのだ」という主張へ至るのは飛躍が過ぎるのではないでしょうか。
極論ですが、殆ど圭一の一人称小説の体裁で展開するこの作品において、圭一自身の感覚の妥当性は全く保証されていません。
「それを疑い出したらきりが無いだろう」と仰るかも知れませんが、それこそ彼は人外の存在を仄めかすような言動という、疑われるに足る行為をしているわけです。
論理を言うならば、まずは圭一の(当時の精神状態を加味した)言動の妥当性の検証から始めなければならないのではないでしょうか。
ちなみに現在では全くの笑い話ですが、当方は圭一の五感を通して語られる「明らかに人為ではおかしいところ」の存在によって、
圭一の精神状態およびプレイヤーへの情報伝達に不備が有る事を「論理的に確信」しておりました。
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Unknown (エディンソン)
2011-12-08 01:59:44
まあ「論理的」でなくても別の言葉でも構いませんがw

>極論ですが~行為をしているわけです。

その通りですね。しかしここで言いたいのは、「セブンスマートにて」が精神的に問題のある状態のものだからこそ、背後にいるのは(本当はそうでなくても)レナか魅音でなくてはならない、ということです。にもかかわらず、すぐに何者とわからない(かつ明らかに異形とはわかる)存在が背後にいたと認識するのなら、それは存在したのではないか、ということです。

もちろん、「精神状態が怪しい以上全てが疑わしいからそもそもこのTIPSは根拠になりえない」と言うこと自体可能です。しかしそれは、次の「うみねこ」のように世界の位相を分けるような演出がなされていたり、「赤字」といった演出がなければ推論を構築すること自体が不可能(別言すれば証明・合意不可能)なような気もしますし、それを求めるのは全くのところ不毛・無いものねだりだと思いますが。

ちなみに私は、ひぐらしの問題編が終了した段階でそれをきちんと「信用できる部分」「信用できない部分」に分けようとする努力を体系的にしている人を(うみねこと違って)見たことがありません。少なくとも目明し編段階までの公式掲示板では、ですが。
返信する
論理的と仰いますが(2) (チャック)
2011-12-08 12:43:48
先日「論理的と仰いますが」とコメントした者です。名前をチャックにしました。
御返答ありがとうございます。

>「精神状態が怪しい以上全てが疑わしいからそもそもこのTIPSは根拠になりえない」

誤解をさせてしまったのは私の書き方に問題が有ったためと思いますが、私は決してそう乱暴に全てを投げ出す立場ではないのです。

レナと魅音に疑念を抱く圭一が、それゆえ不審な現象が起こればそれを多少牽強付会だろうと彼女達と結び付ける、これは十分に有り得る話と思います。
だから逆に、レナ達だと思わなかった以上、圭一にはそれをレナ達だと思わない相応の理由が存在する、つまり「明らかにレナ達ではない者の存在を感じ取っている」とするのも非常に納得のいくものと考えます。

しかし、ここが私の主張の肝なのですが、
圭一がその存在を感じ取っている事と、実際に「それ」が存在しているかどうか、との間には乖離が有ります。

別の記事「ひぐらし:今頃賢しらに「物語」や「オカルト」を論じる者に死を」で引用させて頂きましたが、ある精神病院の患者第二十三号は、自分の病室に黒百合の花束やら詩集やらがあるとはっきり感じていますが、他の人間にそれは見えていません。
(この作品自体があくまで創作物に過ぎないという点は、ひぐらしも同様という事で御容赦ください)

同様に、圭一がそう感じていたからと言って、それが即ちオカルティックな対象の存在証明になると考えるのは早計では、と私は思うのです。それは

①圭一が感じ取った何者かが存在する

という事よりも、むしろ

②圭一が現実とは異なる物の感じ方をしており、それがたまたまレナや魅音とは異なるものであった

という事の証左であると捉える方が一般的であるのでは、そして少なくともこの件を以って①を論理的に証明したとするのは、②の可能性を意図的に除外している事になるのでは、と思うのです。
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長文です (エディンソン)
2011-12-15 02:31:23
返信が遅れて申し訳ありません。もう一つの記事へのコメントと合わせてお答えいたします。


う~ん・・・結論から言うと「論理的に証明」という表現の問題という気がします。とはいえ、ひぐらしというゲームの性質や本文で展開している論調(語調)からすれば、もう少し適切な題がありえたのではないか、といささか反省しています。


以下、発言の意図を簡単に説明します。
チャックさんのおっしゃることは非常によくわかります。理屈としては。他の可能性を完全に排除しているとも言えない以上、「論理的に証明」したとは言いがたい。枯れ尾花を幽霊と思い込む心性の中にいるとすれば問題のTIPSの反応は奇妙だとしても、それが実在の証明にまではなりえない、と。なるほど確かにその通りでしょう。


それを認めた上で私が思うのは、ひぐらしが(作中の表現を用いるなら)「ルールのないゲーム盤」であったということです。鬼隠し編において、圭一の知覚が異常になったのか?それとも実際に異常な現象が起こっているのか?一般的な感覚に照らし合わせて圭一の反応が極めてパラノイア的に見えるのは確かですが、それは異常な現象によって追いつめられての反応と解釈することも十分可能です(まあ冒頭の繰り返される謝罪などは矛盾する要素ですが)。ひぐらし自体がオカルト混入の可能性を認めている以上は。


その他、いわゆる「喉を掻き毟る薬」は実在するのか?という議論が目明し編時点までよくなされていました(注射を打たれた梨花の奇妙な症状も目明し編で出てきたので)。私は正直、「似た症状を起こすものが仮にあったとして、それが作中で使われているという根拠は一体どこにあるのか?大体調べて出てくるような代物なら警察が見つけ出しているんじゃないか?」と考えあえてスルーしていました(ただしそれは、これをオカルト的なものではなく「未知の薬」と解釈してブラックボックス化していた、ということですが)。これも「論理的証明」の困難さを示すエピソードの一つと言えるように思います。


今述べたような、推理を構築する上での困難さは「とあるプレイヤーの証言」「とあるプレイヤーの証言2」でも書きましたが、チャックさんのご指摘を通じて改めてそれを実感している次第です。
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