帰納、演繹、バイアス ~続 可変的な好み~

2008-06-05 01:30:59 | 抽象的話題
<仮に実態が同じでも、見る目が変われば当然評価も変わる>


先日「可変的な好み:統合ではなく並列化」を書いたが、これは失敗だった。ネタとしての側面は読めばわかるとしても、この内容では下手をすると「単にバラバラであることを肯定しただけ」のように誤解されかねない。また仮に主題を理解してもらえたとしても、客体化の影響についてしか言及していないため、「統一性の幻想」の下りに上手く繋がらず、大して説得力がない(仮に人格の統一性などに昔から疑義を唱え続けてきたとしても、だ)。では、一体何が足りなかったのだろうか?そう考えていたら、原案の時にあった「冷めた」反応の正体についての詳しい考察を思い出したので、ここにそれを記そうと思う。


帰納と演繹(具体例の積み上げの重要性)
今でこそ褐色がどうとか髪型がどうとか書いているが、当然その前には反応を個々にストックしていく作業(帰納的思考)が必要である。この段階ではまだカテゴリーができ上がっていないのだから、褐色や金髪などへの無反応を不思議に思うこともない。


しかしいったんカテゴリーが成立すると、今度は演繹的な認識にシフトするため、カテゴリーに含まれるものに反応することが普通だと考えるようになる。要するに、帰納の段階では反応することに敏感になったのだが、演繹の段階では反応しないことに対して敏感になるという変化が生じているのだ。


しかし、よく考えてみれば、あらゆる褐色や金髪に反応するわけではないから(例えば帰省のときに見た若いインド人?には何も感じなかった)、反応しない場合があるのもむしろ当然と言える。ただそれでも、一度カテゴリーが出来上がるとやはりネガ(無反応)の方が強調されてしまうのである。


以上の変化を考慮するならば、「冷めた」というのは、前回述べた客体化による距離感の創出が多少関係している(=実態が変化した)としても、より本質的には、このような認識の変容とそれによる評価の変化にも気付かないために持ち出したこじ付け(=実態よりもものの見方が変化している)と考えるのが妥当だろう。要するに、「冷めた」という認識は演繹・一般化によるバイアスなのだと言える(もちろん、帰納的思考がバイアスから無縁だと言うならそれは明確な誤りだが)。


以上が忘れていた内容である。なお、ここから具体例の集積、演繹的思考、バイアスなどに繋がっていく…


[補遺1]
少し抽象的に過ぎるかもしれないので説明しよう。
人というのもは、認識の対象が変化していなくても、認識そのものが変化したために対象が変化したかのような錯覚をすることがある。同じ小説でも読む年齢が変わると印象が全く違ったり、歴史的事件が時代によって評価が変わったりするのはその最たる例だと言える。また、もし仮に人のある一面が(人一般にせよ個人にせよ)何十年を経ても変化しなかったとしても、(社会状況といった外的要因、年齢などの内的要因によってその性質に対する評価は変化するものだ。


[補遺2]
褐色や「ふたなり」などをネタにした本が増える(それは実態のように思えるが)のを見て自分の記事が影響を与えたように錯覚してしまうのも、演繹によって認識が引きずられた一例と思われる。
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