眠りによせて~明日にかける橋~

2007-11-14 14:33:19 | 感想など
仕事や飲み会で終電がなくなったら漫画喫茶や仕事場に泊まる人がいる。その時間から帰るのはお金がかかること、そして次の日に電車で出直す手間を考えれば、これは合理的な選択だと言えるだろう。しかし私の場合は、たとえ何千円かかってもタクシーなどで自宅に帰ろうとする。


なぜそこまでして帰ろうとするのだろうか?
原因は大学時代に遡る。当時は学校の近くに住んでいた先輩の家によく寄っていたのだが、そこには炬燵という名の麻薬があって、一度足を踏み入れたが最後、出るに出られなくなってそのまま寝てしまう。そして次の日目覚めると、ハウスダストによってアレルギーが発動し、目と鼻、ことによっては喉までひどい状態になる。それなりに寝たはずなのに頭は全くすっきりせず、疲れも取れた感じがしない。結局は家に帰ってシャワーを浴びて寝なおし、ようやく昼過ぎから行動開始という非常に無駄な行動をするハメになる…そうしたことが何度もあってからは、たとえ夜中の三時になり頭は完全に睡眠モードであっても家に帰る習慣がついた。要するに、何としても家に帰ろうとする習慣が身に付いたのは、「疲れが取れないから」だと言えるだろう。つまりは疲れが取れるような眠り=快眠・安眠への執着が強いのだろうが、そこには単に疲れを取るという合理的な理由だけでなく、眠りそのものへの強い執着があるように思える。


例えば徹夜して次の日に動いていると、重要なことをやり忘れているように感じられ、
眠くないにもかかわらず、
寝なければならないという気持ちになる。ここまでくると睡眠は一種の義務にさえなっているが、それは眠りを(現在の自分の)死であるとともに、新たな自分への橋渡しだと見なしているからだろう。眠りにそのような特別な意味を見出しているのは、寝る前にあった様々な感情が、目覚めた後では不思議に思えるくらいに無くなっていることがほとんどだからだ(その意味では「リセット」とも言える)。このため眠りという行為は、単に疲れを取る、あるいは本能に基づいた行動以上の意味を私の中では持っており、もしそれを実行しなければ、今の自分が本来いるべきでない領域を侵食しているような感覚を覚えるのである。


しかもこのような効果は、三時間くらいの短い眠りや(トータルでは長くても)浅い眠りでは得ることができない。この場合は単に疲れを取るための眠りとなり、起きた後も昨日との連続性が強く感じられる。ゆえにそれが重なれば、徹夜の時ほどではないにしても、侵食の違和感・不快感が生じるのである。連続性に対して不快だと思うわけだから、私が求めているのは
単なる眠りではなく「死」を伴う眠り
に他ならない。要するに私の眠りへの執着は、「死と新生」への執着だと言えるだろう。


以上述べてきたように、私は死にも似た深い眠りに強く執着しており、ゆえに私は安眠ができない環境を望まず、たとえ無理をしてでも「死と新生」を味わえる自宅へと帰るのである。


最後に。
そのような不連続性は、昨日の自分や明日の自分にさえ共感しえないことを意味している。ゆえに自己とは「よく見知った他人」に過ぎないし、また今自分がどう思っていようが先の自分がどうなるかなどわからないのである。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« フラグメント10:「アニミズ... | トップ | ひぐらし鬼隠し編再考5:「... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

感想など」カテゴリの最新記事