筒井作品的心性

2007-05-23 23:28:27 | レビュー系
以前「筒井康隆の作品と批評の姿勢」でも述べたように、筒井作品は大学時代にほとんど網羅した。筒井作品を読んだ友人が「ようやくお前の思考回路がわかった」と言ったこともあるくらいだから、かなりの影響を受けていたのは間違いないだろう。


ただ、その友人が言ったのはおそらく、というよりほぼ間違いなく筒井作品のドタバタやブラックジョークの側面のみについてであり、それゆえ一面的であると自分では思っている。前述のように筒井作品の影響は全く疑う余地はないが、それは筒井作品の一面ではなく、全面からなのである。詳しく言えば、「間接話法」や「ジーザス・クライスト・トリックスター」といったドタバタ、パロディからだけでなく、「旅のラゴス」や「脱走と追跡のサンバ」、「くさり」、「家族八景」、「佇む人」、「敵」などあらゆる作品群から影響を受けている。影響というと誤解を招くかもしれない。より正確には、自分がそういった様々な作品を全ておもしろいと感じたという事実が大きな転機となり、自らの中にドタバタ、ブラックジョーク、グロ、シュール、ホラー、歴史家、深層心理の追求など相反する要素が存在することを再確認し、さらにそれぞれを追求するおもしろさに気付いたということである(これが作品との向き合い方にも繋がっていることは前掲の過去ログを参照)。つまりは、


私は「火星のツァラトゥストラ」であり、
私は「愛のひだりがわ」であり、
私は「霊長類南へ」であり、
私は「お紺昇天」であり、
私は「陰脳録」であり、
私は「偏在」であり、
私は「鍵」であり、
私は……


というように、筒井作品を読むたび私は新しい自己、あるいは自己の可能性を発見したのであった。そのおもしろさ、深みの前には「自己の統一性」とそれによって得られる安寧など何と薄っぺらで馬鹿げたものであることか!


こうして、私の自己の統一性に対する疑いは多様な筒井作品との出会いを通してその虚構性の確信にまで到った。その意味でも、筒井作品の影響は多大なものであったと言えるだろう。
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