ジスイズシンクレティズム!:あるいは稲荷神社と地蔵について

2024-08-12 22:55:31 | 山陰・山陽旅行


清水寺、とは言っても京都ではなく島根のものだが、境内の中腹には地蔵と稲荷社がほぼ同じ場所に祀ってあって、これぞシンクレティズム(神仏習合)よな、と思った。


もっとも、清水稲荷社の方は鳥居を見ると(記憶が正しければ)平成31年~令和5年の年号が記されていてだいぶ新しいので後から付け足されたものらしいことと、また祈願内容は商売繁盛や家内安全などの現世利益をわかりやすく引き受けているのに対し、地蔵は基本的に「救済」を役割としているので、上手く棲み分けしてんのかなと思った。知らんけど(・∀・)


まあ家内安全や救済て似てるんやないかとも思えるが、前者は健康増進的な感じで、後者は破邪というか防ぐ系って感じなんだろうか(まあ言うて破魔矢なんかは神社・寺院のどちらでももらえたりするけど)。


つまり攻めも守りも両方バッチリ、てことさね( 。∀ ゜)!


・・・とまあ単に効能や位置付けに関しても素人からこうやって突っ込みが入るような状況だから、近世(江戸)はもっとカオスやったんやろな。


だからこそ、吉田神道やら国学の台頭とともに分離すべしとの議論が支配者層の中では徐々に盛んになり、それが明治の神仏分離令に影響を受けた廃仏毀釈を生み出した背景となったのだろう。


ただ、一般の民衆にその観念が共有されてるわけではなかったからこそ、かなり地域性が生じたものと思われる。


すなわち、津和野藩や薩摩藩、そしてこれから行く隠岐のように廃仏が大々的に行われ、歴代藩主の墓さえ半ば破棄されたり、あるいは全ての寺院が廃されるようは地域も存在した。


他方で、かなり影響が一時的・限定的だった場所もあるという具合に、政府の発表に対する反応にかなりのグラデーションが生じたのてある(ちなみに興味深いこととして、尊皇攘夷の盛んだった長州では廃仏の動きが極めて限定的だった)。


民衆の側でも、思想的なことはともかく、江戸時代に国教的なポジションで甘い汁を吸っていた仏教教団へ敵愾心を抱いているケースも散見されたので、それと支配者層の方針が一致すれば大々的な破壊行為に帰結したが、そうでないケースもしばしば見られた、というわけだ(寺院と民衆が結束して廃仏の動きに抵抗したケースも少なくない)。


ちなみに、一般大衆の意識としては、近代化以降も相変わらず習合的世界観が広く見られたことは、戦中の歌謡「九段の母」から窺える。


というのもそこでは、靖国神社に来て仏教式に手を合わせる母の姿が(多少のエクスキューズはあれ)肯定的に謡われ、実際にヒットしたのだから。


・・・とまあ取り留めなく神仏習合の有り様について書いてみたが、この手の話はまた隠岐の旅が終わった機会に触れたいと思う。

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