ちょびっとね、ちょびっとだけね。まあそれもひっくるめて、オレサマはそういうヤツなんだしゃあねえな、ぶふっ、と最終的には思うところがB型気質まっしぐらって感じなんだけどもね。
生きてる間に何かを洗濯しなければ、違う、選択しなければいけない局面は必ずやってくる。そこで何をどう選択しようと、後のおいらがその時のおいらを否定することは、今までもしたことないしこれからもきっとしない。と思う。多分。知らんけど←www
といって、その選択が全て正しい選択だったとも思わない。むしろ相当間違ってると思う。今から思えばね。なんでそっちいったかなあー、とかさ。そのせいでお前今おいらがどんだけ苦労してると、このアホタレが!とかも思うけどもさ。それは否定じゃないからね(←言い切ったーwww)。
正しいとか間違ってるとかっていうのは、これなかなかに曖昧な基準でさ。立場が違えばどっちにも転ぶ。時間が経てばどうにでも変わる。「その時」正しいと思ってても、「今」になってみればそれは正しくないよ間違ってるよもー!てなることなんてざらにある。
だからさ、正しい選択をしようと思わない方がいいんじゃん?と思うわけだ。判断基準を正しい/間違ってる、にするとどうしても正しい答えを出さないといけないんじゃないかって気分になるじゃん?バツもらうよりはマルもらいたいじゃん?そこはもう理屈抜きに。
なので、おいらは「今(その時)自分が気分がいいのは何か/どっちか」みたいなことを基準にする。してきたつもり。気分がいいってのもアレだけど。気分がいいって独りよがりみたいに見えるけど、たとえば自分の所為で誰かがしんどいことになってても気分いいかな、って事も考えるんだよ。ちょろっと。
で、後々、その選択がどうやらよろしくなかったらしい、その所為で今のおいらがどんだけ苦労して以下略、みたいなことになっても、まあ、それがおいらだからしょうがないか、ふへっ、て思うだけの話。うわもうB型だなー間違いなくwww
てなふうに思えたら、何かを選択する、という局面にブチ当たっても、そうそうガチガチになることもないっしょ。そんなもんなんだよ、て思えれば、人生てものがそうそう重いもんでもないって思えるっしょ。ダメかな?
なので、正しい/間違ってる、の判断基準を磨くよりも、おいらは何が好きなんだろう、とか、どうなってるとゴキゲンなんだろう、とか、審美眼みたいなもの?違うか、そんなような感覚を
なので、正しい/間違ってる、の判断基準を磨くよりも、おいらは何が好きなんだろう、とか、どうなってるとゴキゲンなんだろう、とか、審美眼みたいなもの?違うか、そんなような感覚を研ぎ澄ましていたいなあ、と思う。(再送)
いや、なんつうか今のヨノナカ的に、ちょっとこう、病的なほど潔癖っつうか、正しい/間違ってる、で語られる話が多いなあって思ってて。変に生真面目(すぎる)になってるっつうかね。それはそれで大切な事なんだろうし、悪くはないんだろうけど、でも、正しいって何?とおいらはすぐ思うわけで。