すうたまちゃん

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京都市教委の国家主義的・新自由主義的教育行政に抗して

2006年12月20日 01時56分03秒 | 代表“グダグダ”雑感
ある講義を受けた感想文をある市民グループの機関紙に寄稿したものをココで表現します(一部削除・変更)。実は推敲が中途半端なまんまの寄稿なので、かなり怪しい内容です。

『京都市教委の国家主義的・新自由主義的教育行政に抗して』 講師 北上田 毅 氏

 河合隼雄氏が座長を務めた『京都市道徳教育振興市民会議』という機関があったそうだ。「心の教育」の充実のため、「市民への提言案」を出した教育長の諮問機関。2004年に出された提言案では、「“愛国心”は問題がある」ということで、触れなかったという。その提言を行うにあたり、市民へのアンケートを行った。その際に「アンケート結果について、何らかの価値の付与はしない」ことを確認し、アンケートを求めたようだ。しかし、先日の国会の衆議院教育基本法特別委員会で、このアンケートを利用した発言を門川教育長が行った。その発言の内容が、これまた問題。「市民の7割が“愛国心”に賛成」と強調し、『ジュニア日本文化検定』は、「郷土を愛し、日本を愛する子供たちの育成につながっている」と発言。この【“愛国心”に賛成した7割の市民】とは、前述のアンケートにあった「自分の国を愛することがありますか?」という設問に【はい】と回答した市民である。門川教育長は、“愛国心”についての設問とは違う設問を根拠に発言したことになる。情報操作といった評価以前の問題である。この事実に、京都市教委事務局や門川教育長が、教育行政に携わる資格について疑わざるをえない。

 門川教育長は、昨年東京に50回もの出張をし、一生懸命京都市教委の「公教育行政」の営業活動を行っていたようである。営業活動は奏功し、政府自民党の方針を先取りした京都市教委の試みは、現職地方公務員の一般職員である教育長が、安倍内閣の『教育再生会議』の委員に抜擢されることとなったことで、前途洋々である。
 上記のような、市教委に対する政府の具体的な好評価の理由は、恐らく、①飴と鞭による教員の分断の成功と教員・学校評価システムの構築、②“愛国心”の強調、③公立学校の中でのエリートの育成への試み、④財界との強い関係性の構築、⑤統一の学力テストの継続、等といったものであろう、との北上田さんは指摘。
 なるほど、安倍再生会議に求められている内容であり、首相の主張に合致する。

 ①については、市教委はこの5年間5000名以上の教員に、2億円以上のばらまきを行ってきた。そのばらまきの対象は、学校長のお気に入りの教員であり、これによって教員間の分断が図られた。さらに、教員の評価を厳格に行う評価システムを作り出したことによって、子供と密なる関係性を作り、工夫を凝らして授業をしていた教員への仕打ちだ。教員は自己評価をするための膨大な報告書作成等の事務作業によって、本来の職務である教員のすべきことが困難になった。事実上、教員には教育力よりも、高い事務処理能力が求められることが実態であるといっても過言ではない。この事実は、報告書の作成が優れた教員が、優秀な教員として評価されかねない危険性を意味する。真面目でやる気のある教員ほど、心身ともに厳しい状況におかれているようだ。息子さんが京都市の教員をされている会員さんに話によると、その激務振りは、オープン前のお店と言ってもいいほど。泊り込みもザラである。
 この事実は、児童・生徒との関係性を優先させると報告書等の事務作業が疎かになり、その結果教員の評価は下がり、挙句の果てには「不適格教員」というレッテルを張られる蓋然性も高くなることも意味する。この6年間で80名もの教員を退職に追いやった事実が、野党の国会議員にも好評価されるありさまだ。この評価システムは、教育再生会議によって、国による評価システムに移行していくことになるだろうと、北上田さんは危惧する。

 ②については、上記の通り出改めて私がここで指摘させて頂く必要もないだろう。ただ、最近よく使われる言葉「プライバシーポリシー」(個人情報の取り扱いに対する基準や指針といわれている)の意識が京都市教委には皆無であることは判る。

 ③については、定時制高校の廃止と縮小が行われている事実。そして、堀川高校や御所南小、御池小中学校など一部の学校に、巨額の予算を集中させ、教育費の極端な格差を作り出している事実(一般の学校は備品すら購入することが大変なほど厳しい予算状況)。モデル校として予算付けされているという抗弁は可能であるが、このモデル事業が成功した暁には、その他の学校に同様なレヴェル内容の教育環境を整備することが現実的であるのかを考えると、財政の面においても大変疑問である。つまり、当該学校はモデル校という性格ではなく、単なるエリートをつくりだす学校であり、それはこれからのエリート校への厚遇を意味する(私は、エリート教育を否定するつもりは毛頭ない)。

 ④については、スチューデントシティ・ファイナンスパーク事業が挙げられる。「生きた経済の仕組み」を理解するために、元滋野中学の学校内に、企業がそのまま営業するブースを設置。一見、素晴らしい発想に基づいた事業に思える。しかし、実態を知ると、その思いは完全に瓦解する。この事業で堀場雅夫氏は、個人的に?3000万円をこの事業に寄付したそうだ。京都市は企業に広告効果を謳い協賛を募っている。「御社の商品・サービスをアピールできます」という宣伝文句は、教育関連の事業とは思えない。この事業の本質を疑わざるをえない。

 この事業は、京都市から支出されている金額はわずかで、大方が企業からの寄付で賄われるそうだ。企業からの慈善的な寄付によって、子供たちは社会勉強ができる素晴らしく“美しい”事業であると評価したくもなるが、そう簡単にこの事業を評価する訳にはいかない。京都市の協賛文句からしても、企業の利潤追求の構図がこの事業から匂ってくる。公教育の充実や産学公の連携による最先端の教育・人づくりを深めるという言葉遊びがさらに、財界による公教育の誘導・支配を想像させられる。財界の公教育への介入と言っても良い情況だと私は思う。そう!財界による「不当な支配」である。“美しい”言葉を使用して。このたび提訴したジュニア日本文化検定訴訟についても、当該事業のイニシアティブは京都商工会議所だ。市教委と財界は、強い関係性を構築しているようだ。少なくとも、そう思われても仕方のない状況である。

 ⑤について。全国学力テストが昭和40年に終了した後も、京都市では小学校中学校で共通テストを実施し続けている事を強調し、全国学テの必要性を認める発言を教育長は行っている。
 とにかく、安倍内閣が行おうとする教育改革を全面的に賛成し、「京都市の取り組みと軌を一にするもの」であると持ち上げる。

 これらの事実に鑑みると、どうも市教委が向いている方向に疑問が出てくる。市教委は子供たちではなく、資金を提供してくれるスポンサーなる財界を重要視しているようだ。個人的な感想と想像に過ぎないが、重要視の理由が、どうしても選挙対策にしか思えない。事実、京都市長選において現市長のサポーターは京都の財界である。私は個人的に、誇らしく思っている京都の企業は少なくない。しかし、企業は企業のフィールドがあり、違うフィールドへの介入は慎重な態度が求められる。特に公教育に関しては、企業が我が厳格な基準を持って関わるべきである。「札束で頬を叩いている」と揶揄されるようなことは想像に難くないはずだ。公教育との距離の感覚がずれれば、「不当な支配」になる危険性を十分認識・自覚すべきである。それは企業だけに求められるものではない。

 ところで、2006年12月15日、戦後初の「改定」教育基本法が成立した。当該法第16条第1項の「教育は、不当な支配に服することなく、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきものであり……」という部分の修正が参院でなされる一縷の望みを抱いていたが、残念ながら全くの修正もなく可決された。確かに、旧法の第10条に規定していた「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」との文言は、ほぼ空文化していた。
 1953年教科書検定件の文部大臣への専属・恒久化から始まり、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」「教育公務員特例法」一部改正、学習指導要領による拘束力の強化、「地方教育行政法」による教育委員会法の失効(教育委員の公選制から任命制へ)、勤務評定の導入、2001年の教育改革関連法の制定による国家からの教育介入(教員評価制度の導入など)によって、公権力による不当な支配は現実化されており、この条文の存在意義は皆無といってもいい状況であった。
 しかし、旧法は権力を拘束する規範として、大変機能していたことも事実である。当該条文の存在が、国や教育行政機関との争いができる根拠であったのだ。東京都の通達や職務命令による、教員に対する国歌の斉唱と国旗の掲揚並びに、当該通達・職務命令に基づく当該懲戒処分は、違憲であり違法であるとした10月にあった判決の根拠の一つが、旧教育基本法第10条である。それは権力からの不当な介入・支配から子供たちを守る防波堤であった。基本法が教育の憲法と言われる所以であり、旧法10条は、憲法9条と一緒の力があったと言ってもいいと思う。改定推進派の重要な射程照準は、10条であったことが、10条の存在意義を肯定したものである。

 さて、新教育基本法が成立したことで、現状の問題(イジメや学級崩壊、教職員等)を解消するものでないことは、安倍総理も認めているもので、それは当然のことだ。これから教育振興基本計画が策定され、関連法が改定され、さらに強い法的拘束力を獲得した学習指導要領が改訂され、安倍政権が目指す教育改革は敢行されていくのだろう。旧法最後の砦の破壊に成功した改定教育基本法は、安部政権が目論む教育行政の具現化の起爆剤に過ぎないという理解をすべきだし、だからこそ、これからを注視していかなくてはいけないのである。
 この事実を受け入れて、子供たちのために最善の手段を模索しなければいけない。これからが本当の勝負だ。私たちの子供のためにも、あるべき公教育を考え、何らかの行動ができればと思う。それが私たちに求められる所為である……、と大きく脱線してしまった。

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