すうたまちゃん

ラーメン?油そば?元い!オリジナルメニュー『すうたま麺』を提供したスタッフの徒然な思のは

百人斬り訴訟の確定とナショナリズム

2006年12月23日 03時29分49秒 | 代表“グダグダ”雑感
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20061223k0000m040021000c.html

1、2審は「具体的内容には虚偽、誇張が含まれている可能性がないとは言えないが、競争自体を記者の創作と認めることは困難」と判断。毎日新聞社については、
提訴が記事掲載から20年を超えていることから、損害賠償請求権が消滅する除斥期間を経過したと認定した。

除斥期間なんだねぇ。
この事実が、真実であるのか否かは、僕には判りません。
裁判所は、この事実を否定することも、肯定することもしませんでした。

保守派が、このような訴訟提起をするは、これまで見られませんでしたが、自己主張の手段として司法を利用することは、これからもメゲズにされていったほうが良いと思います。
この事件の原告を保守派と評価するつもりはありませんがね。
日本における保守は、どうも司法の利用を拒否されているのか、あまり裁判所を利用されないようです。
何故なんだろう。

ある意味、お上品な方々なんでしょうかね。
上品を決め込んでいると、痛い目にあうのが厳しくもそれが現実であることは、否定しようがないんだけどねぇ。

訴訟提起する左翼を、「オカシイ奴ら」とネットで騒いでいる暇があるなら、自分たちがすべき行動を考えるべき。

昔の保守・右翼と違って、最近の彼らは、とにかく甘っちょろい。
表面的な保守・右翼であると評価してもいいかもしれない。
それは、高原基彰氏が言う、彼らの思想や言動が「不安型ナショナリズム」なのかもしれないし、ただ単に自己意義を認識・確認する為だけの手段に過ぎない所為なのかもしれない。

ある集団を対象にしなければ、自己肯定できないこの時代に、マトモな行動を期待することが間違いだろうとは思うんだけど、これは何も日本だけの現象ではないみたいだし。
だからこそ、単純に教育勅語的な感覚を復古させようとする意識は、現状の打開を真剣に思っているとは思えない。
単に、自分が理想する社会を実現しようとしているだけ。



サイレントマジョリティ

2006年12月22日 02時51分20秒 | 代表“グダグダ”雑感
「サイレントマジョリティ」が、どういう思考・意見を抱いているのかを知るすべとは?
世論調査?
どういう手段での調査?

ラウドマイノリティとサイレントマジョリティを区別する手段とは?

教基法を改定することに賛成する国民の割合は?
教基法を改定すべき理由は?
その理由が、正しい結論を導く合理的な理由と評価できるのか?

教基法の改定を支持するのは、「サイレントマジョリティ」なのか?「ラウドマイノリティ」なのか?
それを断定するデータは?

教えてください。
そのデータを。

因みに、僕の大嫌いな方は、
教基法改正反対運動で職場放棄した<教育を放棄した教師>に鉄槌を!
「教育基本法改正に賛成されたサイレントマジョリティーたる良識ある市民と国民の皆さんに」
と表現されています。

良識と評価する客観的根拠を明示して頂きたいものですね。
これから、いきましょうか。
大変解りやすいないようですし、イニシャルとしては、軽い題材だと思います。


きもちわるいよ~

2006年12月21日 03時06分27秒 | 代表“グダグダ”雑感
『松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG』というブログにTBを送ってお返しを頂きました。
それが怒涛のお返し。ちょっと、引いちゃいましたし、ちょっと気持ち悪い。(・・;)

引かれることを予想されて、敢えてそうされたのなら、まあそれはそれで仕方がないでしょうけど…。
これほどまでのTBを送られた理由が、どういうものなんだろうか?
「俺のこのエントリを読んで勉強せいよ!」という感覚なのかなぁ?

教基法の改定についてエントリを書いているページを検索してTBを送ったんですけど、僕の大嫌いな彼のブログの送ったことを理解していなかったんですよね。
これが、僕の大失敗。

でも一度、時間を掛けて意見交換したほうが良いのかなぁ。僕の精神衛生上。
どういう人なんかよく分からないけど、「先生」とか「教授」とか言われているんだけど、といって大学の教員にも思えない。初等・中等教育の教職員?
民間の教育機関に在籍された経歴のある方であるようだけど、防衛大学と縁が深いとお聞きしています。

この方は、ミクシィで一度コミュニケーションをとった方で、私が大変苦手なタイプの人物です。
苦手の理由は、、この方の主張に私が現実感を抱かないことです。
つまり、とても他人事的な雰囲気を机上の空論的な雰囲気をこの方から感じるのです。何事にも。

人って、ヘラヘラしている人に限って、内に大きなものを抱えていることってありますよね。明るさの中に、どこか影があるような感じが伝わってくる。
反対に、厳しい雰囲気の中に、暖かさを感じるってのもある。

つまり、深い感情や想いを持っている人って、単色な感じでは、ないんですよね。
でも、人の心に興味のない人、またはそれを重要視しない人、理屈に終始する人って、どうしても単色的な感じがその人から、その人の言動から漂ってくるんです。
人の心(自己の心)を殺すことに長けている役人なんかは、それが端的に現れます。
これまた軽薄かもしれませんが、人間の深さに物足りなさを感じる人の主張は、とても痛々しく思われます。

実生活を考えながら過ごし、様々な経験をしている人は、片面的な主張や或る事象に対する決め付け(レッテル張り)をしないものです。
価値観の違いや、人生観の違いは当然、人それぞれあるものです。
立憲主義の比較不能の事象という問題というレヴェルから遠く離れた場面で、比較すべき対象となりえない事象と比較しながら、自説の論拠の合理性を主張する所為は、見ていてこれまた痛々しく思うのです。
ことあるごとに比喩的表現をされる方なんですが、その比喩は、寒くなるほど、その呈をなしていないし、笑いにもならない痛々しさ。

そういうタイプの人って、私は大嫌いだし、そういう人間には容赦なく牙を向いてきました。
関西人じゃないのに、関西弁口調の表現をするから、よりイライラするんだよなぁ。

私は基本的に他人に厳しいことを言わないし、厳しい態度をとりませんが、そういう人間に対しては、ある要件を満たせば、牙を向きます。
ネットではそれができないため、ある意味大変ストレスになる。
だから、そういうストレスが溜まるような人物とコミュニケーションをとることは極力回避しています。
しかし、一度知ってしまった人物の許せないコメントを見ると、どうしても気になるんです。
そうして、私の中で飽和状態になった時に、爆発する。
でも、爆発しているような呈を表現しないで、まずはコンタクトを取る。
相手のリアクションで、私の再リアクションが決まるんです。

TB返しを頂いたエントリを確認し、さらに関連のエントリを拝見しました。
ご自身は、「中庸」なる言動を敢行されていると思っておられるのでしょうが…、私にはそうは感じませんでした。

また、一部の事実を全体の事実として評価する詐欺的な批評方法は、許せるものではありません。

具体的に摘示して反論することは必要ですが、それをする気にもなれないんですよ。
何処から反論していいのか、あまりにも私とは違いすぎて…。
タダ言える事は、公教育の理解があまりにも、学力に力点が置かれ過ぎて、人を教育することの観点が大変希薄であることです。
その目的については言及されていますが、その方法論が全く提示されていません。
それは、学力向上についても、大変中途半端で、具体論が展開されず、ただ単に反対説に対する批判が展開されているだけ。

又、法律論については、憲法学から法学方法論に至る説明の呈をなしているように見えますが、その根拠は満足いくものもあれば、全く説明されないで「自明だ」としか表現していないものもあって、全体的に説得力は乏しい。
ただ、論理的ではあります。合理性がないけど。

自明であると表現するには、当然一般的にそれが自明であることが認識されていることが必要で、専門家の中だけで自明であることは、自明と表現する合理性は是認されないことは言うまでもないことです。
それを説明する義務などはありませんけどね。ただ、説得力のレヴェルでは、その力は皆無であると評価せざるをえません。

とにかく、ある場面だけを抽出して、その部分だけを論じることは誰でもができることです。
総論・各論のバランスが取れた主張がなされて初めて、他人に説得力を与えるものです。
それができないのなら、それは自説でしか通用しない主張であるということです。
其れで良いと思う場合もあるでしょうし、それに関しては否定するつもりはありません。

私は、人を説得するつもりは毛頭ありません。ただ、こういう意見もありますよ、という事を表現しているだけですし、それが今のところ私の興味でもあります。

とりあえず、またTBを送っておこうっと。
    ココ
    ↓
改正教育基本法成立☆追撃戦参加の招請&改正反対論資料(下)
TB先のエントリとは、あまり関係性はないけどね。
一応、新しい目のエントリに。

政治活動にプライオリティをおいている教職員を擁護するつもりはないけれど、この御仁の主張は、私は単に、反対説には「鉄槌を!」、という情緒的な精神状態を感じます。
改定教育基本法が成立したんだから、免責してやろうという、敢えて切腹させない方法論を展開できないものかいなぁ。
こういう主張をする御仁は、ホント小さい奴らばかりなんだよなぁ。
ちょっと、実際会ってみたいものだなぁ。


京都市教委の国家主義的・新自由主義的教育行政に抗して

2006年12月20日 01時56分03秒 | 代表“グダグダ”雑感
ある講義を受けた感想文をある市民グループの機関紙に寄稿したものをココで表現します(一部削除・変更)。実は推敲が中途半端なまんまの寄稿なので、かなり怪しい内容です。

『京都市教委の国家主義的・新自由主義的教育行政に抗して』 講師 北上田 毅 氏

 河合隼雄氏が座長を務めた『京都市道徳教育振興市民会議』という機関があったそうだ。「心の教育」の充実のため、「市民への提言案」を出した教育長の諮問機関。2004年に出された提言案では、「“愛国心”は問題がある」ということで、触れなかったという。その提言を行うにあたり、市民へのアンケートを行った。その際に「アンケート結果について、何らかの価値の付与はしない」ことを確認し、アンケートを求めたようだ。しかし、先日の国会の衆議院教育基本法特別委員会で、このアンケートを利用した発言を門川教育長が行った。その発言の内容が、これまた問題。「市民の7割が“愛国心”に賛成」と強調し、『ジュニア日本文化検定』は、「郷土を愛し、日本を愛する子供たちの育成につながっている」と発言。この【“愛国心”に賛成した7割の市民】とは、前述のアンケートにあった「自分の国を愛することがありますか?」という設問に【はい】と回答した市民である。門川教育長は、“愛国心”についての設問とは違う設問を根拠に発言したことになる。情報操作といった評価以前の問題である。この事実に、京都市教委事務局や門川教育長が、教育行政に携わる資格について疑わざるをえない。

 門川教育長は、昨年東京に50回もの出張をし、一生懸命京都市教委の「公教育行政」の営業活動を行っていたようである。営業活動は奏功し、政府自民党の方針を先取りした京都市教委の試みは、現職地方公務員の一般職員である教育長が、安倍内閣の『教育再生会議』の委員に抜擢されることとなったことで、前途洋々である。
 上記のような、市教委に対する政府の具体的な好評価の理由は、恐らく、①飴と鞭による教員の分断の成功と教員・学校評価システムの構築、②“愛国心”の強調、③公立学校の中でのエリートの育成への試み、④財界との強い関係性の構築、⑤統一の学力テストの継続、等といったものであろう、との北上田さんは指摘。
 なるほど、安倍再生会議に求められている内容であり、首相の主張に合致する。

 ①については、市教委はこの5年間5000名以上の教員に、2億円以上のばらまきを行ってきた。そのばらまきの対象は、学校長のお気に入りの教員であり、これによって教員間の分断が図られた。さらに、教員の評価を厳格に行う評価システムを作り出したことによって、子供と密なる関係性を作り、工夫を凝らして授業をしていた教員への仕打ちだ。教員は自己評価をするための膨大な報告書作成等の事務作業によって、本来の職務である教員のすべきことが困難になった。事実上、教員には教育力よりも、高い事務処理能力が求められることが実態であるといっても過言ではない。この事実は、報告書の作成が優れた教員が、優秀な教員として評価されかねない危険性を意味する。真面目でやる気のある教員ほど、心身ともに厳しい状況におかれているようだ。息子さんが京都市の教員をされている会員さんに話によると、その激務振りは、オープン前のお店と言ってもいいほど。泊り込みもザラである。
 この事実は、児童・生徒との関係性を優先させると報告書等の事務作業が疎かになり、その結果教員の評価は下がり、挙句の果てには「不適格教員」というレッテルを張られる蓋然性も高くなることも意味する。この6年間で80名もの教員を退職に追いやった事実が、野党の国会議員にも好評価されるありさまだ。この評価システムは、教育再生会議によって、国による評価システムに移行していくことになるだろうと、北上田さんは危惧する。

 ②については、上記の通り出改めて私がここで指摘させて頂く必要もないだろう。ただ、最近よく使われる言葉「プライバシーポリシー」(個人情報の取り扱いに対する基準や指針といわれている)の意識が京都市教委には皆無であることは判る。

 ③については、定時制高校の廃止と縮小が行われている事実。そして、堀川高校や御所南小、御池小中学校など一部の学校に、巨額の予算を集中させ、教育費の極端な格差を作り出している事実(一般の学校は備品すら購入することが大変なほど厳しい予算状況)。モデル校として予算付けされているという抗弁は可能であるが、このモデル事業が成功した暁には、その他の学校に同様なレヴェル内容の教育環境を整備することが現実的であるのかを考えると、財政の面においても大変疑問である。つまり、当該学校はモデル校という性格ではなく、単なるエリートをつくりだす学校であり、それはこれからのエリート校への厚遇を意味する(私は、エリート教育を否定するつもりは毛頭ない)。

 ④については、スチューデントシティ・ファイナンスパーク事業が挙げられる。「生きた経済の仕組み」を理解するために、元滋野中学の学校内に、企業がそのまま営業するブースを設置。一見、素晴らしい発想に基づいた事業に思える。しかし、実態を知ると、その思いは完全に瓦解する。この事業で堀場雅夫氏は、個人的に?3000万円をこの事業に寄付したそうだ。京都市は企業に広告効果を謳い協賛を募っている。「御社の商品・サービスをアピールできます」という宣伝文句は、教育関連の事業とは思えない。この事業の本質を疑わざるをえない。

 この事業は、京都市から支出されている金額はわずかで、大方が企業からの寄付で賄われるそうだ。企業からの慈善的な寄付によって、子供たちは社会勉強ができる素晴らしく“美しい”事業であると評価したくもなるが、そう簡単にこの事業を評価する訳にはいかない。京都市の協賛文句からしても、企業の利潤追求の構図がこの事業から匂ってくる。公教育の充実や産学公の連携による最先端の教育・人づくりを深めるという言葉遊びがさらに、財界による公教育の誘導・支配を想像させられる。財界の公教育への介入と言っても良い情況だと私は思う。そう!財界による「不当な支配」である。“美しい”言葉を使用して。このたび提訴したジュニア日本文化検定訴訟についても、当該事業のイニシアティブは京都商工会議所だ。市教委と財界は、強い関係性を構築しているようだ。少なくとも、そう思われても仕方のない状況である。

 ⑤について。全国学力テストが昭和40年に終了した後も、京都市では小学校中学校で共通テストを実施し続けている事を強調し、全国学テの必要性を認める発言を教育長は行っている。
 とにかく、安倍内閣が行おうとする教育改革を全面的に賛成し、「京都市の取り組みと軌を一にするもの」であると持ち上げる。

 これらの事実に鑑みると、どうも市教委が向いている方向に疑問が出てくる。市教委は子供たちではなく、資金を提供してくれるスポンサーなる財界を重要視しているようだ。個人的な感想と想像に過ぎないが、重要視の理由が、どうしても選挙対策にしか思えない。事実、京都市長選において現市長のサポーターは京都の財界である。私は個人的に、誇らしく思っている京都の企業は少なくない。しかし、企業は企業のフィールドがあり、違うフィールドへの介入は慎重な態度が求められる。特に公教育に関しては、企業が我が厳格な基準を持って関わるべきである。「札束で頬を叩いている」と揶揄されるようなことは想像に難くないはずだ。公教育との距離の感覚がずれれば、「不当な支配」になる危険性を十分認識・自覚すべきである。それは企業だけに求められるものではない。

 ところで、2006年12月15日、戦後初の「改定」教育基本法が成立した。当該法第16条第1項の「教育は、不当な支配に服することなく、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきものであり……」という部分の修正が参院でなされる一縷の望みを抱いていたが、残念ながら全くの修正もなく可決された。確かに、旧法の第10条に規定していた「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」との文言は、ほぼ空文化していた。
 1953年教科書検定件の文部大臣への専属・恒久化から始まり、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」「教育公務員特例法」一部改正、学習指導要領による拘束力の強化、「地方教育行政法」による教育委員会法の失効(教育委員の公選制から任命制へ)、勤務評定の導入、2001年の教育改革関連法の制定による国家からの教育介入(教員評価制度の導入など)によって、公権力による不当な支配は現実化されており、この条文の存在意義は皆無といってもいい状況であった。
 しかし、旧法は権力を拘束する規範として、大変機能していたことも事実である。当該条文の存在が、国や教育行政機関との争いができる根拠であったのだ。東京都の通達や職務命令による、教員に対する国歌の斉唱と国旗の掲揚並びに、当該通達・職務命令に基づく当該懲戒処分は、違憲であり違法であるとした10月にあった判決の根拠の一つが、旧教育基本法第10条である。それは権力からの不当な介入・支配から子供たちを守る防波堤であった。基本法が教育の憲法と言われる所以であり、旧法10条は、憲法9条と一緒の力があったと言ってもいいと思う。改定推進派の重要な射程照準は、10条であったことが、10条の存在意義を肯定したものである。

 さて、新教育基本法が成立したことで、現状の問題(イジメや学級崩壊、教職員等)を解消するものでないことは、安倍総理も認めているもので、それは当然のことだ。これから教育振興基本計画が策定され、関連法が改定され、さらに強い法的拘束力を獲得した学習指導要領が改訂され、安倍政権が目指す教育改革は敢行されていくのだろう。旧法最後の砦の破壊に成功した改定教育基本法は、安部政権が目論む教育行政の具現化の起爆剤に過ぎないという理解をすべきだし、だからこそ、これからを注視していかなくてはいけないのである。
 この事実を受け入れて、子供たちのために最善の手段を模索しなければいけない。これからが本当の勝負だ。私たちの子供のためにも、あるべき公教育を考え、何らかの行動ができればと思う。それが私たちに求められる所為である……、と大きく脱線してしまった。

宇治川ライン

2006年12月18日 02時40分09秒 | 代表“グダグダ”雑感
昨日忘年会の終了後、車で3人を送る途中に、「まだ、遊び足りない」ということを言い晒す若者が一人。
一人は、睡眠時間3時間でグロッキー状態の男の子。
一人は、うら若き乙女。

でも、その若者の主張が認められ、宇治川ラインをドライブすることに。

時刻は、土曜日の25時を過ぎ。
走り屋さんたちが、平等院近くの駐車場にたむろ。
恐らく、警察がいるんだろう。

天瀬ダムに向かう道を少しスピードアップして走り出す。
天瀬ダム近くのエリアに警察車両を発見。

やっぱり。

警察が去るまで、走り屋さんたちは、待機中の時間。
その間に、僕たちは、軽くドライブ。

我が愛車の足回りは、純正使用。
ブレーキも、純正使用で、さらにそろそろパッドを交換すべき時期。
タイヤは、扁平率55の一般的なもの。

まあ、腕も鈍っているし、子供たちを3人も乗せて必死に走ることなどできませんし、この歳になって道交法に大きく違反するようなドライブをすることはできない。
なので、軽く流して、裏まで走る。

昔は、目を瞑りながらでも走れたほどのラインだけど、細かい記憶が飛んでいる。恐ろしいほどに。

サーキットを思いっきり走りたくなった。

でも、自分の腕が大変低下していることに、改めて実感。
カートに戻って走らないといけないようなレヴェル。(;_;)

でもでも、気分転換になった時間を過ごせたなぁ。

すうたま忘年会

2006年12月17日 05時40分52秒 | すうたま麺
本日は、すうたまスタッフのみんなと忘年会。
一人だけ参加できなくって…。彼女には、もう長いこと会ってないなぁ。

で、で、で、我が家で水炊をしました。
僕の特製ゴマダレ(たいしたものではないけれど)とポン酢で頂きます。
鍋と言えば水炊で、水炊と言えばゴマダレポン酢。これは譲れない。(^▽^)

18時からのオープンで、来れる人から参加する。
MGRにはお子さんが3人いるんだけど、真中の息子が風邪で、お父さんとお留守番。
小学生のお姉ちゃんと7ヶ月の娘さんも来てくれました。
7ヶ月でもう掴まり立ちをする姿を見てビックリ。やっぱり、上の兄弟がいると何でもが早いものだなぁ。
ウチの息子は、先日11ヶ月を迎えたけど、ようやく掴り立ちを少しだけするようになりました。でも、ほとんどしない。
甘えたちゃんだからねぇ。困ったもんだ。

学生さんたちは、みんなわが家よりも北の場所で生活を営んでいるんです。近鉄沿線なんですけど、北向きの終電がめちゃくちゃ早いんですよねぇ。
だから、帰宅するためには、早めに切り上げないといけない。
でも、滅多に会えないから、ゆっくりとお話をしたいので、車で送ろうと思う訳です。(タクシー代を渡せるご身分でもないし)
となると、お酒は呑んじゃいけない。
だから、お酒を呑まない忘年会。
僕は無類のお酒好きなんだけど、みんなとゆっくりとお話をするためなら、意外と呑まなくても良いのよねぇ。
自分でもビックリ。こんなこと、昔なら考えられなかったんだけど、これって歳をとったんだろうなぁ。
でも、このような歳のとり方なら、嬉しい。

自分の好きなお酒を呑まないようにする努力をしたいと思える機会と、そのような時間を過ごせる僕は、とても幸せだなぁと思う。
それも、苦しい努力をすることもなく、不思議なくらい呑まないでいることが辛くもなければ、しんどくもない。

素晴らしい仲間との語らいだからこそ、なんだろうなぁ。
彼らにとって、僕の存在がどんなんだかは分からないけれど、僕にとって彼らの存在は、愛すべき存在であり、とても掛け替えのない存在であることは事実であり、そのような彼らがいること、そしてその彼らが僕と関係性を継続してくれることを大変嬉しく思うとともに感謝する。
一回り以上の歳の差があるのにね。良く付き合ってくれるよなぁ。

で、今は呑んでいます。(V)o\o(V)ふぉふぉふぉ(V)o\o(V)

良識なる民意

2006年12月09日 03時05分11秒 | 代表“グダグダ”雑感
http://www.mainichi-msn.co.jp/science/kagaku/news/20061207k0000m040105000c.html

http://www.mbs.jp/news/kansai_NS167200612061841050.shtml

余呉町への「核処理施設」の誘致を断念、という報道を確認して、ホッとしている藹です。
琵琶湖の近くの余呉町に、核処理施設が建設された場合、核物質が琵琶湖に流れ込む蓋然性・危険性を完全に否定できないことを指摘して、反対の署名活動をされている方々を良く知っています。
僕も署名をさせてもらいました。

町長の後継者が、どのような判断をするのかが、またフォーカスされるでしょう。
よって、この町長の判断が、最終判断になることは無いでしょうから、これからの余呉町を注視していきたいと思っています。

京都の一部、大阪の大部分は、琵琶湖の水を利用しています。
この問題は、何も余呉町や滋賀県のみの問題ではありません。

財政が逼迫している余呉町だけで、当該施設建設の可否判断をすることの妥当性や正当性は、完全に否定する考えを僕は持っています。

ところで、町長が、当該施設の誘致を断念した事実について、反対派の人が「町民の良識が働いたと思っております」とマスコミの取材にコメントしています。
でも、僕は、この類のコメントが、とても嫌い。
だって、自分とは違う意見は、常に良識に基づいた判断ではないのか?
自分が採用する意見が、常に良識であるのか?
良識の判断とは、どういうものなのか?

このようなコメントは、とても傲慢な意識に基づいた内容だと思うんです。
僕は、このような発言をする人は、基本的に信じることはできません。

良識な民意が、客観的に正しい結論を導かせると思うこと自体、僕は大変懐疑的ですし、そのような思想は、ただただ甘っちょろい理想的思想に基づく主張であると思っています。
所謂懐疑主義者と僕は違うとは思いますが、この件に関しては、同じような結論を導くことになるのかもしれません。

最近、「甘い」「ぬるい」「ゆるい」などなどの言葉を多投しているよなぁ、ぼくは。

地域のコミュニティを確保せよ!

2006年12月06日 02時23分50秒 | 代表“グダグダ”雑感
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20061206k0000m040058000c.html

こういう事件が、当り前のように報道される昨今。
前にも少しこのような問題に触れた記憶はあるけれど、やはり虐待をしてしまう親を不憫に思えて仕方が無い。
このような親を持つ子供たちは、当然に不幸であり、ただただ生きてくれることを祈るのみ。
あまり深くこのような情況を想像すると、気が狂いそうになるので、やめます。

ある時期の私の日記をば。

息子の大泣きを見ると、「何で、そんなに泣くの~(j o j) ウルルル」と、私のガラスのような心が壊れそうになっちゃいます。
完全に私が息子に否定されているような感覚に陥ってしまいそうな自分に気がつき、様々な複雑な感情が交錯するんですよね。

これまで、親による子供に対する虐待について、自分なりに想像したりしていたのですが、やはり多くの親がその危険性があることを実感させられています。
「子供が泣く」という事実において、子供が自分(親)を「否定」「拒否」しているかのような錯覚に陥ることが、ある悲しい衝動や情動を引き起こす起因となるのではないかと感じています。
「愛情」があるから、全く相反する行動に出てしまう、という危険性の認識は、必要かなぁと思っています。


親の精神状態によっては、誰にでも我が子への虐待の危険性は否定できないということです。
核家族化する現代日本においては、その危険性は、私たちが想像する以上に高いレヴェルにあるんじゃなかろうかと思っています。
実家の近くで生活を営んでいるのなら、まだその危険性からの回避行動が可能だけど、実家が遠い場合は、回避がとても困難。

最近では、保育園が園庭の解放をしているところが少なくないので、それを利用しながら、園の先生らとコミュニケーションを取る事は大事でしょうね。
とにかく、地域社会の再構築が必要であるという共通認識はあるんだけど、なかなか実現できないようです。

最近では、教育改革の目玉的な政策として、バウチャー制度を提唱する安倍政権ですけど、これって地域的コミュニティをさらに崩壊させるんじゃないの?
学区を無きものにする施策なんだからね。学区という概念によって、辛うじて地域コミュニティが確保されているのが現状。
バウチャーが本格的に浸透すれば、必ず地域の関係性はさらに希薄となることは確実なことではないだろうかと。

事実、学区概念や越境概念を崩した地域においては、学校の廃校が報告されているようです。

さあて、コミュニティは守られるんだろうか。

子供たちは、親は当然ですが、社会が地域が守らなければいけない。
子供を守るためにも、社会は、若い親たちを守らなければいけない。

昔の日本は、子供たちを親や社会が守り、親たちを社会(地域、ご近所;遠くの親戚よりも、近くの他人)が守ったのです。

朝生 イジメ問題

2006年12月03日 11時07分01秒 | 代表“グダグダ”雑感
先週放送の朝生をようやく全部観ました。

日教組をイジメの本質的原因という指摘は、時代錯誤も甚だしく、見ていて恥ずかしくなった以外は、取り立てて感想文を表現するものもありませんでした。
ただ、日教組のおっちゃんは、化石的発言をしていたって事は、やはり日教組の悲しい実態を示すものでしたね。
つまりは、こんな日教組を攻撃する輩は、己の主張のナンセンスを理解すべきです。

日教組を攻撃するだけで、自己の主張の正当性を示すような、ヌルイヌルイ意識は、それこそ批判されるべき対象という以前に、己で猛省すべきものであると思います。

僕自身が直接関わっている京都市について言えば、日教組や全教なんて、死に体です。

京都では、日教組よりも全教のほうが強いという珍しい状況でけども、だからこそより、政治的な事項にしかこれらの労組は反応しない。

京都だけではないと思いますけど、教職員の労組の連中は、正直に申し上げると、ほぼ子供たちへの影響力がありません。
つまり、子供と付き合っていないと言っても良い。

だから、日教組や全教は、政治に口出しはしているけれども、子供たちへの影響力はほぼ無いって事。

なのに、日教組や全教の影響を指摘する人たちの意識は、前時代的な感覚でしかないんですよね。
情けないほど、現状認識ができない人たちと言っても良いかもしれませんね。