今年2007年5月4日に、IPCC第26回総会にて、『第4次評価報告書第1~第3作業部会報告書』の最終承認がなされ、11月の第27回総会で統合報告書の承認が予定されています。
その内容は、気候システムに温暖化が起こっていることが断定され、「大気や海洋の世界平均温度の上昇、雪氷の広範囲な融解、世界平均海面水位上昇が観測されていることから今や明白である」と断言している。
それは、“Confidence is high”という言葉で示しています。
IPCCでは、“Confidence is high”を「95%の信頼限界で信頼できる」と定義しています。
ちなみに、「95%信頼限界」とは、100回中95回の確率だとか、信頼区間中に、真の値があることが95%の確率であるという意味です。統計学では、「信頼区間」と表現されることが多いようです。
IPCCの中立・公正性の問題は、色々指摘されていることは事実です。
しかし、今回のIPCCの報告で、ある一定の評価ができると私は思い、温暖化による様々な観測を否定する主張は間違いであると解釈・判断しました。
この解釈・判断が間違っていないと断言はできませんが、そのように解釈・判断すること、IPCCが指摘する事実を推認する高度の合理性があると思っています。
さて、先日ある方から、私のエントリの内容に対する反論コメントを頂きました。
□地球の温暖化とミスリード 温暖化で海水面は…
そのコメントは、私には、大変攻撃的かつ敵対的で、傲慢なコメント姿勢に映りましたので、意見交換をするつもりはありませんでしたが、ついつい挑発的なコメントに反応してしまいました。
その意見交換で強く感じたのは、自説と違う主張に対する反論姿勢は、より慎重にならないといけないということです。
私は、先の述べましたように、今回のIPCCの報告で、ほぼ決着がついた問題であるという認識をもっていました。
私は、この数年、人間活動による温暖化に対する主張に懐疑的な部分を持っておりましたし、二酸化炭素の断罪にはさらに懐疑的で、クリーンエネルギーとして原発を推進する政府の施策には、大変不信感を抱いていました。
しかし、地球環境を保全する必要性は、誰もが否定するものではありませんし、温暖化が人間の活動によって引き起こされている可能性を否定することの利益よりも、喪失する利益が多いのではないかと考え出しました。
基本的に節電の努力はこどもの頃から行っていましたし、水を汚さないために、極力汚れた水を排水しない努力もしてきました。
それは、寺院や教会で修行するような厳しい努力ではなく、「無駄なエネルギーを使わない」といった、簡単な意識を常に持つというものであり、その意識が常に行為に結び付けられる義務感を持つものではありません。
つまりは、「できる範囲でエコロジー」という感じです。
そういった生活を営んでいる私としましては、地球の温暖化による将来の不安を感じ、それを阻止・回避する努力は、自分ができる範囲で頑張りたいと思っています。
また、その不安する事実が現実のものにならないためにも、私ができる行動・活動をしたいと思っています。
その一つが、このブログで環境問題についての情報を提供することです。
私が提供する情報には、間違いがあるかもしれません。それを指摘していただけることは、大変ありがたいものですし、それを回避する必要な努力を図りたいと常に思っています。
また、反論も当然に受付けます。私は、反論を拒否することはしません。
地球環境の問題は、環境保護を叫ぶ側と経済成長を叫ぶ側の政治的闘争の舞台でもあります。
だからこそ、この問題における論争は、かなり激しいものにもなります。
私へのエントリに対する反論も、かなり敵対的な内容でしたし、世界的に感情的な反応が少なくありません。双方が。
双方が双方の原理主義的なイデオロギーの対決となるという、なんとも悲しい事実です。
原理主義的な考えに引き寄せられることは、様々な事象や場面で考えられますし、私はできる限り回避すべきであると思います。
原理主義的な思想は、概して排他的になり、反対説に対して過激に攻撃的になります。
それは環境保護派によく見られる、これまた私には大変残念な事実です。
ある危険の蓋然性が予想される事象にあたっては、その蓋然性を低めるためにも、危険を回避するためにも、その努力をすべきであるという考えを私は持っています。
それは、不確定な場合、つまりは科学的な証明がなされていない段階でも、その危険性に対して、何らかの対応が必要であるという態度です。
常に、科学的な因果関係が判るまで、適切かつ妥当な対応がなされないために、多くの被害が発生してきたこれまでの経験則に基づく私の思想です。
日本国内においても、医療問題から、公害問題、薬害問題などなど、原因と結果の因果関係が否定されたことによる悲しい被害が繰り返されています。
科学的な証明がなされない時期に、コストを掛けた対処・対応を講じることは、為政者としては大変勇気のいることでしょうが、因果関係が証明された時の損失も当然ながら、それまでその蓋然性が否定された事による損失や証明されない途中の時期における被害の発生の事実は、回復できないことも少なくありません。
事後に回復できる問題と、回復できない問題があることを私たちは、もっとしっかりと理解・認識すべきであると思います。
地球温暖化による様々な問題が真実であることと明白に証明された時、地球上に存在する動植物にとって手遅れという最悪の事実を経験しないためにも、私は政治的論争は否定しませんが、私たちができることをすべきであると思います。
手遅れならないためにも、エコロジーは、進めていきたいと思っています。
コストの対象の優先順位と地球環境を保全する努力は別問題です。
環境問題に費やされるコストが巨額過ぎることや、使用方法が問題であることは、地球環境を保全するためのあらゆる手段をそれぞれ否定する論拠になりえません。
どうも、本末転倒の議論が多いような気がします。
私は、これからも温暖化による地球環境の危険を指摘していきます。
「あおり過ぎない」という甘っちょろい言葉に騙されてはいけないと私は思います。
年金問題も日本政府は「不安をあおるな」という主張を恥ずかしげもなく展開しています。
問題の所在を明確にするには、まずは問題を指摘しなければいけないという当り前の所為を否定する言説には、大変注意すべきであると私は思っております。
「あおりすぎ」とは、些か都合の良い表現だと思いませんか?
ましてや、不安を作った張本人が言うべき言葉ではないですよね。
おっと!論点ズレしそうなので、ここでお仕舞いにさせて頂きます。