FBでメモったものをエントリ。
『7つの習慣』(キングベアー出版)でスティーブン・コヴィは、僕たちが直面する問題を3つに分類しています。
「直接的にコントロールできる問題」
「間接的にコントロールできる、あるいは影響できる問題」
「全くコントロールできない問題」
「直接的にコントロールできる問題」というのは、自己に直接的に関係するもので、自分次第の言動で変えていける事象のこと。
「間接的にコントロールできる問題」というのは、他者の言動に関係し、自己とその他者との関係性の調整(影響を与える手法)で変えていける事象。
「コントロールできない事象」というのは、直接的・間接的にも自己の言動によって変えられない事象。解りやすい例としては、過去の事とか。
これに対しては、その事象・事実を受け入れることしかできない。
受け入れる方法が重要になってくる事象です。
ただ、これらの3つの事象に対して、私たちは自ら主体性をもって対応するしかないということにおいては、共通する対処法です。
これらに問題の改善や解消ができないでいるのなら、今後必要なことは、自己の思い・考えを変えるしかない。
そして、自分の行動を変えるしかない。
「直接的にコントロールできる問題」である自分に関することは、己が変わらなければいけないことは、おおよそ多くの人が認識・理解していることでしょう。
しかし、「間接的にコントロールできる、あるいは影響できる問題」である、他人との関係性においては、どうしても相手を変えたくなる。
「彼の考えがオカシイ。だから、彼の考えを変えさせる」
「彼女のやり方は問題だ。だから、彼女のやり方を変えさせる」
「この問題を作り出した人間を正さなければいけない。」
個人(私)の問題から国家(公)の問題まで、種々あります。
相手を変えようとするならまだマシ。
問題を改善・解消・解決するために相手と、全面的に戦うことを選んでしまう。
戦い、相手を駆逐したくなる。
相手の存在を公の領域から、引きずり下ろしたくなる。
そして、抹殺したくなる。
国家レベルとなると、戦争ですね。
そうなると、どうしても個人であろうが国家であろうが、報復の連鎖のリスクが高まる。
事実、世界はその連鎖の中にあるんだから。
これって、双方にとって、全く幸せなことではないですよね。
双方に影響される周りも、しんどくなるし、やはり幸せなことじゃない。
では、どうすれば良いのか?
昔の哲学者や賢者の智慧や言葉を借りると、「許す」こと、になるんだと僕は考えます。
自己を許し、他者を許す。
特に、「全くコントロールできない問題」について。
戦争、虐殺、殺人など、人の生死に関わる問題の多くがこの「全くコントロールできない問題」に当たると思います。
自分がいくら頑張っても、亡くなった人は帰ってこない。
誰もが、現状回復することができない問題です。
だから、殺された側の人は、怒り、悲しみます。
その感情・情動でもって、相手を殺したくなる。
関わった人間を抹殺したくなる。
その感情は自然なことで、実際にそうすることを選択する人もいます。
世界では、あらゆる報復が繰り返されています。
ブッダの考えが記されている『真理の言葉』には、下記のような言葉があります。
「世の中では、恨みが恨みによって静まるということは、絶対にあり得ない」
「恨みは、恨みを捨てることによって静まる。これは、永遠の真理である」
だから、恨みを捨て、相手を受け入れ、許すしか、人は幸せになれないんじゃないかと思うんです。
どのように受け入れ、許すかは、これまた大変難しい作業です。
しかし、これを目指すしか、安らかで幸せな生活を過ごすことは困難だと思います。
「生き方」の問題なので、ずっと恨みや怒りを心に抱きながら生き続けることを選択することは、当然自由ですが…、それは大変精神的に苦痛を伴います。
とてつもないエネルギーが必要になります。
ところで、相手を受け入れ、「許す」ことを【決心】しても、直ちに、相手を受け入れることなどできません。
受け入れることができなければ、許すこともできません。
まずは、受け入れることを意識することから始めるしかない。
「許す」ことを実現するために必要な工程を、自分で作るしかないんです。
相手を「許すこと」とは、相手を【無条件に許す】こともあるし、【条件を付けて許す】こともあるでしょう。
問題の当事者であるか、第三者であるかの立場の違いによっても、【無条件】か【条件付き】かが違ってくるかもしれない。
そこで、僕は【無条件】に許すしかないと思う事象は、「全くコントロールできない問題」、例えば、過去の国家間の戦争や紛争なとがそれに当たるんだと思います。
具体的に言えば、アメリカによる民間人への空爆やナチスドイツによる大虐殺等々といったもの。
これらの問題に対しては、これから(まだ許せていないけど)「許そう」と思う気持ち、「許」したと思う気持ちで、これからの世界の平和を一緒に考えていくことしかないと思うんです。
当然それは、空爆や原爆投下、大虐殺という【行為】に同意するものではありません。
「許す」ことは、その行動に同意したり、行為を肯定するものではない、というところは、とても大切です。
「罪を憎んで人を憎まず」みたいなもの。
それは、怒りや憎悪、恨みを持ち続けていても、何をしても、問題が解決しない場合、「許す」ことを選択した方が楽になれるという、ある意味【幸せになるため】の合理的な方法論だと思っています。
「許す」という心の持ちようで、今の怒りや苦しみが解消されるなら。
対して、無条件に相手を「許」しても、現状の問題を改善・解消できない場合、相手を「許す」ためにも、相手に対して「働きかけ」をしていくことが重要だと思います。
これが、【条件付き】で「許す」こと。
「許」しても、今ある(現在進行形の)問題が何ら改善・解消しない場合(今の政治状況など)です。
つまりは、何らかの行動をすれば、事態が変わる可能性のあること。
そう、「間接的にコントロールできる問題」です。
【相手の行為・行動を批判・非難する事】
【相手の行為・行動に対する責任を果たす要求をする事】
を“実行しない”ことが「許す」こと、だとは言えません。
今ある問題から逃避・回避して見ないふりをして、漫然と生きる事が、相手を「許す」ことではありません。
それは、単に原状を「追認」していることに過ぎません。
繰り返しますが、「許す」こととは、【責任の追求の手続き】をした上で、【恨みを捨てる】ことで、成し遂げられます。
ただ、その責任追及の方法は、己の情念や情動に基づかない、健全な怒りと冷静さ、そして相手への礼節でもって行なわれる方が良いと思います。
絶対に敵対視しない。
今ある問題を如何に改善・解消するかを、双方が一緒になって話し合うしかない。
「相手を変え」ようとするのではなく。
厳しく相手の責任を追及したとしても、相手との協調を意識し、それを実行しないと、責任追及の場が諍いになるだけで、話し合いは成立しないし、そうなると問題は解決しません。
相手を「許す」ためにも、相手と一定の信頼関係を築く努力を続けないと、問題など解決しないでしょう。
その努力をしても問題が解決しなければ、他の採りうる手段を探すしかない。
その手段を出し尽くしても、いくら頑張っても、解決が無理な場合もたくさんあるでしょう。
その時は、頑張ったこと、やり尽くしたと自分自身で納得して、その問題から逃げることができるなら、逃げることも選択しなければいけない時が来るかもしれません。
納得して、諦める。
諦めて、違う生き方を探すことで、幸せになれるよう努力するしかないと。
時として、「諦める」という選択をしなければいけない。
こだわることから自分を解放しなければ、幸せになれないことだって、いくらでもあるということが現実なんですからね。
話は戻って、究極的に言えば、「全くコントロールできない問題」は【無い】という考えもできます。
自分に関わる問題以外は、すべて「間接的にコントロールできる、あるいは影響できる問題」であると。
どちらにしても、「許す」事は必然で、そのためにも、自主性をもって自分の感情と行動をマネジメントするしかないでしょう。
それは、私の事でも、公の事でも一緒。
最後に、アランが『幸福論』で記していること。
「自分には、自分以外にはほとんど敵はいない。人間は、自分の間違った判断や、杞憂や、絶望や、自分に差し向ける悲観的言動などによって、自分自身に対していつも最大の敵なのである」
自分以外に敵を作ってしまうとダメなんですよね。
だから、「許す」んです。
すうたまちゃんの気になるなぁ
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