旧陸軍成増飛行場と光が丘公園(旧グラントハイツ)を調べていたら当家から数百mのところに飛行場があった事が判明しました。当然今は跡形もありません。。
飛行場の名前に陸軍または海軍と冠されていません。という事は官または民間飛行場と言う事になります。前野飛行場という他に常盤台飛行場や板橋飛行場と記載された記事もありました。
場所は東京都板橋区常盤台1丁目、2丁目、前野町1丁目付近一帯
常盤台駅北側周辺は駅を基点に北側にループ状の道路が広がり直角に道路が交差せず方向感覚が不確かになります。丁度パリ市内の道路を真似たようなロータリー広場から放射状に広がる道路です。
パリに似た様な道路はあながち的を外してないかもしれません。1928年東武鉄道は一帯を(当時は畑だったと思われる)鉄道用地として取得し1936年分譲を開始しました。現在でもちょっと街並が普通と違うと感じるところ。。当時としてはモダンな高級住宅街であったでしょう。
飛行場はこの分譲が始まる前の1929年から1933年のわずか4年間存在したようです。陸軍所沢飛行場で飛行訓練を受けた退役軍人 遠藤辰五郎が遊覧飛行用飛行場と飛行機整備教育の為に設立。1929年当時の遊覧飛行とは一体。。。。
”第9期基本操縦術修業員として、大正8年12月1日から同9年8月18日まで操縦訓練を修行した。その時の身分は、航空4大隊付陸軍工兵軍曹でした。その2期上に、後の陸軍大将・山下奉文歩兵大尉がいます。(日本航空史より)”
”飛行場の滑走路は、現在の常盤台小学校あたりから、北西方向へ向かい、富士見通り、常盤台2丁目と3丁目の境の飯沼病院あたりまで延びていた。格納庫は前野町1丁目52番地付辺にあった。飛行機は、少なくとも複葉機が3機所有されており、そのうちの1機は白い胴体に「青葉号」と記されていた。飛行場の営業内容は、遊覧飛行(板橋周辺5円・東京周遊10円くらい)と飛行学校の経営だった。(板橋区史等より)”
当然現代のような飛行機ではなく木材と帆布にエンジンの付いた複葉機です。遊覧料金の5円や10円はさておいて自家用車も個人で持つには一般的でなかった時代に遊覧飛行とは驚きです。
滑走路があった辺りは記載のある飯沼病院から常盤台小学校付近。。。歩いてみました。
青丸現在地から16/32方向に一本だけ斜め直線道路があります。ちょうど滑走路跡と思われる線と一致します。周囲の道路構成からは違和感があるこの道路。。。滑走路跡を残したものでしょうか。。それとも偶然の一致かは知る由もなし。
地図上の測定では滑走路長は約450m 複葉機の離発着には十分だったのでしょう。
ジェット戦闘機では射出カタパルトとアレスティングワイヤーが必要な距離です。。。
青丸現在地から円状周遊道路の様子。。
16方向へ伸びる直線道路 滑走路跡と思われる線と一致します
16エンドにあたる常盤台小学校
16エンドから32方向 左方向は東武東上線常盤台駅
官有地や旧軍飛行場と違い民間用地では痕跡を示す遺構等は殆ど見つかりません。しょうもない歴史散策でした。
ジオキャッシングねたには良いかも知れません。。
幻の滑走路 Phantom Runway。。。その内キャッシュとして登場するかも