《金賢姫元死刑囚と『朝鮮日報』紙が1987年11月29日をインタビューで振り返る》
1987年11月に起きた大韓航空機(KAL機)爆破事件の実行犯・金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚は8月15日、「廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代、大韓航空機爆破事件を“国家安全企画部(安企部。現在の国家情報院)による謀略事件”に仕立て上げようとするテレビ番組に出演しないという理由から、私の居住治の情報が漏らされた。私を殺害するために北朝鮮の暗殺団を呼ぶようなものだった」と語った。
金賢姫氏は『朝鮮日報』紙のインタビューに応じ、
「一般市民や労働者の政府と言いながら、(大韓航空機爆破事件での)中東出稼ぎ労働者の犠牲を政治的に利用した。私が頑張ると、国家機関から“外国に移住しろ”“他の地域に移れ”と脅迫された」
と語った。さらに金賢姫氏は2003年11月の深夜にMBCのテレビ番組『PD手帳』のチームが自宅を訪れたあと、子供をおぶって家を抜け出し、現在も身を隠していると付け加えた。
金賢姫は
「大きな罪を犯した私を生かしておいたのは、大韓航空機爆破事件の唯一の“証人”だったから。私は一人であっても、真実のために戦うしかなかった」
と語った。
また、金賢姫氏はその当時世論づくりの先頭に立っていたカトリック正義具現司祭団に言及し
「北朝鮮の政権は神も否定する。そんな政権が起こした事件を“韓国がやった”と擦り付けているのだから、司祭の服を着ていても本当に神を信じているのかどうかわからない」
と批判した。
その一方で、金賢姫氏は
「大韓航空機爆破事件直後にバーレーンの空港で正体がばれ、たばこに隠していた毒薬のアンプルを噛んで自殺しようとしたが死にきれず苦しんだ。韓国に送還されたら秘密を洗いざらい喋らされて、八つ裂きにされて死ぬのだろうと思った」
と語った。
【大韓航空機爆破事件】
1987年11月29日、バグダッドを離陸しソウルに向かっていた大韓航空858便がミャンマー近海の上空で爆破された事件。乗客・乗員115人全員が死亡したが、そのほとんどは中東で働く韓国の出稼ぎ労働者だった。
1988年のソウル五輪開催を妨害しようとした北朝鮮のテロと判明したが、当時の大統領選挙日と重なっていたために様々な疑惑が持ち上がっていた。
大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫元死刑囚(49歳)の顔は、私たちの記憶の中にあるものではなかった。街中で会ってもわからないだろう。24年の歳月が流れていた。
1987年11月29日、バグダッドを離陸しソウルへ向かっていた大韓航空858便が空中で爆発した。場所はミャンマー近海上空。乗客・乗員115人全員が命を落とした。乗客の多くは熱砂の中東で働いて3年ぶりに韓国へ帰国する出稼ぎ労働者だった。機体は木っ端微塵、犠牲者の遺体も見つからなかった。
美貌の爆破犯は今や中年となり、廬武鉉政権下で直面したことを語った。
声を上擦らせ、時には泣き出しそうになった。興奮すればするほど北朝鮮訛りが出た。
「金大中(キム・デジュン)政権時代にも同じようなことはあったが、廬武鉉政権になるや、私を“偽者”にしようとあらゆる疑惑を膨れ上がらせた。大韓航空機爆破事件を覆すため、政府レベルで私を圧迫してきた。当時、私は外部での活動を一切しておらず、娘がよちよち歩きを始めたばかりだった」
『朝鮮日報』紙(以下、Q):世間の人々は、あなたが国家機関の保護を受けて余裕のある生活をしていると思っていたが?
金賢姫氏(以下、A):「左派政権が作った国家情報院(国情院。金大中政権以降)の保護を受けたことはない。むしろ、寒さと恐怖に震えながら逃げて来た私に“テレビ番組に出演するよう”指示した。“指揮部ですでに決定した事項だ”と」
Q:人々はあなたのことが気になっていた。テレビ番組に出演することは出来ないのか?
A:「私が北朝鮮の工作員ではなく、国家安全企画部の工作員だと“告白しろ”というものだった。“私は偽者だ”と言えというのだ。北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)政権が起こした大韓航空機爆破事件を韓国のせいにしようとするものだった。標的を逆にしようとしたのだ。この卑劣な工作の旗手のようなテレビ番組にどうして出ることが出来るのか。国情院がMBCの『PD手帳』に出るよう強要した」
Q:当時の世論の雰囲気から、国情院の側に苦悩があったようだが?
A:「私が拒否すると、国情院に夫を呼んだ。“あくまでそうするのなら、テレビ出演はやめて国情院で神父様と同席する中で説明会を開くことにしよう”と提案した。夫は仕方なく受け入れた。ちょうどそのとき、MBCの『PD手帳』チームが私のもとへ押しかけた。私は赤ちゃんを背負って夜逃げしなければならなかった」
【神父様】
「大韓航空機爆破事件は安企部の謀略事件なので再捜査せよ」という署名運動をしていた正義具現司祭団を指す。
Q:韓国社会でメディアの取材は自由だ。あなたはニュースメーカーだったので、積極的な取材と無関係ではいられないのではないか?
A:「私の最高の保安事項は居住地の情報漏洩だ。故ファン・ジャンヨプ先生に対しても北朝鮮はテロを実行しようと暗殺団を送り、李韓永(イ・ハニョン)氏も居住地の情報が漏れて殺害された。そのため、かなり前から警察が私を保護していた。ところが自分たちの思い通りに動かないと私の居住地情報を漏らしてしまった」
Q:メディアが独自にあなたを探し出して取材した可能性もあるのではないか?
A:「国情院が情報を流した事実を、私は知っている。これは保護すべき事件の“証人”を抹殺しようとするものだ。寒い冬の日、赤ちゃんを背負って行く場所など無い。安い一間の部屋で、これまで9年間暮らしている」
Q:大韓航空機爆破事件の遺族の一部も、あなたを「偽者」だと主張しているが?
A:「庶民と労働者の政府だと言いながら、中東に出稼ぎに行った労働者の犠牲やその遺族の悲しみを政治的目的で悪用した。正義具現司祭団が先頭に立ってそんな世論づくりをした。私は理解出来ない。北朝鮮では聖書が見つかっただけでも反逆罪に問われ、家族が抹殺される。神を否定する、そんな政権を擁護して金正日(キム・ジョンイル)政権が起こした事件を“韓国がやった”と擦り付けるのだから、司祭の服を着たあの人々は本当に神を信じているのかどうかわからない」
Q:当時、国情院から外国に移住することを勧められたそうだが?
A:「国情院の職員がやって来て直接そう言った。“2年くらい行って来い”と。私を保護していた管轄の警察署からは“よその地区に移るように”と脅迫された。“牛乳を飲むな、(私たちは)毒を入れることが出来る”“新聞を見るな、炭疽菌を塗ることが出来る”というように。私たちが借りていた店には営業が出来ないよう裁判所の赤いラベルが貼られた。(涙を流し)とても全部は話せない」
Q:「国情院過去史委員会」が大韓航空機爆破事件を巡る再調査に入ったが、あなたは一度も調査に応じていない。並の度胸ではない。
A:「有り体の脅迫や懐柔はあったが、根本を壊し、別の目的を持った調査には応じられなかった。大韓航空機爆破事件の全ての資料は国情院に保管されている。私がこれ以上補うことはない。初動捜査のときに急いで行ったので少し間違いがあったが、あとで訂正・確認された。彼等は細かいいくつかの間違いを取り上げて言いがかりをつけて政治的に利用した。それでも事実は変えられなかった。過去史委でも“北朝鮮の政権の仕業”という結論を下した。そんな結論を下しても、北朝鮮の政権に対する批判や“謝罪せよ”という勧告は一言もなかった」
Q:廬武鉉政権は何故そうしたと思うか?
A:「この事件をひっくり返せば以前の軍部や右派勢力が道徳的に打撃を受ける。政治構造を自分たちに有利にするためにそうしたのだと思う。大韓航空機爆破事件の直後、アメリカは北朝鮮を“テロ国家”に指定した。廬武鉉前大統領は“北朝鮮をそのリストから外して欲しい”と言ったと聞いた」
Q:廬武鉉政権で直面した苦難は、あなたが犯した罪に対する報いだという思いはないか?
A:「これは私個人の苦痛の問題ではない。115人が亡くなったテロ事件を政治的に利用する国がどこにあるのか。亡くなられた方々の霊魂を抹殺し遺族をだます犯罪行為だ」
Q:廬武鉉政権の国情院がそうだったのであって、今の国情院がそうしたのではないが…
A:「当時の工作に加担した人々は処罰されずに昇進した。国家観も安全保障観もない。これがきちんとした社会なのか。大韓航空機爆破事件は李明博(イ・ミョンバク)大統領とも関係がある。当時、犠牲になった労働者の中には現代建設の社員が60人以上いた。李大統領は現代建設の会長だったにも関わらず、事件の真実をひっくり返そうとする犯罪に対して手をこまねいて見ているのでは情けないのではないか」
Q:あなたは自分を殺人犯だと見ているのか、それとも体制のスケープゴートと見ているのか?
A:「私は北朝鮮の政権のロボット、道具になっていた。自動的に命令を遂行したのだ。そんな存在だったが、遺族の悲嘆と苦痛を見た。以前は想像もしなかった状況だった。私は何故こんなことをしたのか。本当に間違っていたと感じた。私をこんな道具にした金日成(キム・イルソン)・金正日が無性に憎かった。労働者たちが犠牲になり、私もそうだし、私の家族も犠牲になった」
Q:やるせない話だが、当時も事件の本質よりはあなたの美貌のほうが話題になった。
A:「そんな話が出たというのが驚きだ。北朝鮮なら、みんなが私に石を投げただろうに…」
金賢姫氏は大法院(日本の最高裁に相当)で死刑判決を受け、15日後の1990年4月12日に特別赦免された。金賢姫氏の助命は、大韓航空機爆破事件が金正日総書記の指示によるテロだということを証明するためだった。金賢姫氏が歴史的事件の「唯一の証人」だったからだ。
金賢姫氏の証言でアメリカは北朝鮮を「テロ国家」に指定し、ベールに包まれていた日本人行方不明事件が北朝鮮による拉致だったことも判明。日本列島を揺るがした。
Q:あなたはこの場でインタビューを受けている。生きているのはあなたにとって幸福なのか、地獄なのか?
A:「当時、バーレーンの空港で自分の正体がばれたとき、準備していた毒薬のアンプルを噛んだ。あのとき死ぬべきだった。死にきれずに生き残ったとき、本当につらかった。廬武鉉政権のときも死にたかった。私は大きな罪を犯したが、私を生かしたのは“証人”だからだ。真実を守らなければならない…」
(2)に続く。
1987年11月に起きた大韓航空機(KAL機)爆破事件の実行犯・金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚は8月15日、「廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代、大韓航空機爆破事件を“国家安全企画部(安企部。現在の国家情報院)による謀略事件”に仕立て上げようとするテレビ番組に出演しないという理由から、私の居住治の情報が漏らされた。私を殺害するために北朝鮮の暗殺団を呼ぶようなものだった」と語った。
金賢姫氏は『朝鮮日報』紙のインタビューに応じ、
「一般市民や労働者の政府と言いながら、(大韓航空機爆破事件での)中東出稼ぎ労働者の犠牲を政治的に利用した。私が頑張ると、国家機関から“外国に移住しろ”“他の地域に移れ”と脅迫された」
と語った。さらに金賢姫氏は2003年11月の深夜にMBCのテレビ番組『PD手帳』のチームが自宅を訪れたあと、子供をおぶって家を抜け出し、現在も身を隠していると付け加えた。
金賢姫は
「大きな罪を犯した私を生かしておいたのは、大韓航空機爆破事件の唯一の“証人”だったから。私は一人であっても、真実のために戦うしかなかった」
と語った。
また、金賢姫氏はその当時世論づくりの先頭に立っていたカトリック正義具現司祭団に言及し
「北朝鮮の政権は神も否定する。そんな政権が起こした事件を“韓国がやった”と擦り付けているのだから、司祭の服を着ていても本当に神を信じているのかどうかわからない」
と批判した。
その一方で、金賢姫氏は
「大韓航空機爆破事件直後にバーレーンの空港で正体がばれ、たばこに隠していた毒薬のアンプルを噛んで自殺しようとしたが死にきれず苦しんだ。韓国に送還されたら秘密を洗いざらい喋らされて、八つ裂きにされて死ぬのだろうと思った」
と語った。
【大韓航空機爆破事件】
1987年11月29日、バグダッドを離陸しソウルに向かっていた大韓航空858便がミャンマー近海の上空で爆破された事件。乗客・乗員115人全員が死亡したが、そのほとんどは中東で働く韓国の出稼ぎ労働者だった。
1988年のソウル五輪開催を妨害しようとした北朝鮮のテロと判明したが、当時の大統領選挙日と重なっていたために様々な疑惑が持ち上がっていた。
大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫元死刑囚(49歳)の顔は、私たちの記憶の中にあるものではなかった。街中で会ってもわからないだろう。24年の歳月が流れていた。
1987年11月29日、バグダッドを離陸しソウルへ向かっていた大韓航空858便が空中で爆発した。場所はミャンマー近海上空。乗客・乗員115人全員が命を落とした。乗客の多くは熱砂の中東で働いて3年ぶりに韓国へ帰国する出稼ぎ労働者だった。機体は木っ端微塵、犠牲者の遺体も見つからなかった。
美貌の爆破犯は今や中年となり、廬武鉉政権下で直面したことを語った。
声を上擦らせ、時には泣き出しそうになった。興奮すればするほど北朝鮮訛りが出た。
「金大中(キム・デジュン)政権時代にも同じようなことはあったが、廬武鉉政権になるや、私を“偽者”にしようとあらゆる疑惑を膨れ上がらせた。大韓航空機爆破事件を覆すため、政府レベルで私を圧迫してきた。当時、私は外部での活動を一切しておらず、娘がよちよち歩きを始めたばかりだった」
『朝鮮日報』紙(以下、Q):世間の人々は、あなたが国家機関の保護を受けて余裕のある生活をしていると思っていたが?
金賢姫氏(以下、A):「左派政権が作った国家情報院(国情院。金大中政権以降)の保護を受けたことはない。むしろ、寒さと恐怖に震えながら逃げて来た私に“テレビ番組に出演するよう”指示した。“指揮部ですでに決定した事項だ”と」
Q:人々はあなたのことが気になっていた。テレビ番組に出演することは出来ないのか?
A:「私が北朝鮮の工作員ではなく、国家安全企画部の工作員だと“告白しろ”というものだった。“私は偽者だ”と言えというのだ。北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)政権が起こした大韓航空機爆破事件を韓国のせいにしようとするものだった。標的を逆にしようとしたのだ。この卑劣な工作の旗手のようなテレビ番組にどうして出ることが出来るのか。国情院がMBCの『PD手帳』に出るよう強要した」
Q:当時の世論の雰囲気から、国情院の側に苦悩があったようだが?
A:「私が拒否すると、国情院に夫を呼んだ。“あくまでそうするのなら、テレビ出演はやめて国情院で神父様と同席する中で説明会を開くことにしよう”と提案した。夫は仕方なく受け入れた。ちょうどそのとき、MBCの『PD手帳』チームが私のもとへ押しかけた。私は赤ちゃんを背負って夜逃げしなければならなかった」
【神父様】
「大韓航空機爆破事件は安企部の謀略事件なので再捜査せよ」という署名運動をしていた正義具現司祭団を指す。
Q:韓国社会でメディアの取材は自由だ。あなたはニュースメーカーだったので、積極的な取材と無関係ではいられないのではないか?
A:「私の最高の保安事項は居住地の情報漏洩だ。故ファン・ジャンヨプ先生に対しても北朝鮮はテロを実行しようと暗殺団を送り、李韓永(イ・ハニョン)氏も居住地の情報が漏れて殺害された。そのため、かなり前から警察が私を保護していた。ところが自分たちの思い通りに動かないと私の居住地情報を漏らしてしまった」
Q:メディアが独自にあなたを探し出して取材した可能性もあるのではないか?
A:「国情院が情報を流した事実を、私は知っている。これは保護すべき事件の“証人”を抹殺しようとするものだ。寒い冬の日、赤ちゃんを背負って行く場所など無い。安い一間の部屋で、これまで9年間暮らしている」
Q:大韓航空機爆破事件の遺族の一部も、あなたを「偽者」だと主張しているが?
A:「庶民と労働者の政府だと言いながら、中東に出稼ぎに行った労働者の犠牲やその遺族の悲しみを政治的目的で悪用した。正義具現司祭団が先頭に立ってそんな世論づくりをした。私は理解出来ない。北朝鮮では聖書が見つかっただけでも反逆罪に問われ、家族が抹殺される。神を否定する、そんな政権を擁護して金正日(キム・ジョンイル)政権が起こした事件を“韓国がやった”と擦り付けるのだから、司祭の服を着たあの人々は本当に神を信じているのかどうかわからない」
Q:当時、国情院から外国に移住することを勧められたそうだが?
A:「国情院の職員がやって来て直接そう言った。“2年くらい行って来い”と。私を保護していた管轄の警察署からは“よその地区に移るように”と脅迫された。“牛乳を飲むな、(私たちは)毒を入れることが出来る”“新聞を見るな、炭疽菌を塗ることが出来る”というように。私たちが借りていた店には営業が出来ないよう裁判所の赤いラベルが貼られた。(涙を流し)とても全部は話せない」
Q:「国情院過去史委員会」が大韓航空機爆破事件を巡る再調査に入ったが、あなたは一度も調査に応じていない。並の度胸ではない。
A:「有り体の脅迫や懐柔はあったが、根本を壊し、別の目的を持った調査には応じられなかった。大韓航空機爆破事件の全ての資料は国情院に保管されている。私がこれ以上補うことはない。初動捜査のときに急いで行ったので少し間違いがあったが、あとで訂正・確認された。彼等は細かいいくつかの間違いを取り上げて言いがかりをつけて政治的に利用した。それでも事実は変えられなかった。過去史委でも“北朝鮮の政権の仕業”という結論を下した。そんな結論を下しても、北朝鮮の政権に対する批判や“謝罪せよ”という勧告は一言もなかった」
Q:廬武鉉政権は何故そうしたと思うか?
A:「この事件をひっくり返せば以前の軍部や右派勢力が道徳的に打撃を受ける。政治構造を自分たちに有利にするためにそうしたのだと思う。大韓航空機爆破事件の直後、アメリカは北朝鮮を“テロ国家”に指定した。廬武鉉前大統領は“北朝鮮をそのリストから外して欲しい”と言ったと聞いた」
Q:廬武鉉政権で直面した苦難は、あなたが犯した罪に対する報いだという思いはないか?
A:「これは私個人の苦痛の問題ではない。115人が亡くなったテロ事件を政治的に利用する国がどこにあるのか。亡くなられた方々の霊魂を抹殺し遺族をだます犯罪行為だ」
Q:廬武鉉政権の国情院がそうだったのであって、今の国情院がそうしたのではないが…
A:「当時の工作に加担した人々は処罰されずに昇進した。国家観も安全保障観もない。これがきちんとした社会なのか。大韓航空機爆破事件は李明博(イ・ミョンバク)大統領とも関係がある。当時、犠牲になった労働者の中には現代建設の社員が60人以上いた。李大統領は現代建設の会長だったにも関わらず、事件の真実をひっくり返そうとする犯罪に対して手をこまねいて見ているのでは情けないのではないか」
Q:あなたは自分を殺人犯だと見ているのか、それとも体制のスケープゴートと見ているのか?
A:「私は北朝鮮の政権のロボット、道具になっていた。自動的に命令を遂行したのだ。そんな存在だったが、遺族の悲嘆と苦痛を見た。以前は想像もしなかった状況だった。私は何故こんなことをしたのか。本当に間違っていたと感じた。私をこんな道具にした金日成(キム・イルソン)・金正日が無性に憎かった。労働者たちが犠牲になり、私もそうだし、私の家族も犠牲になった」
Q:やるせない話だが、当時も事件の本質よりはあなたの美貌のほうが話題になった。
A:「そんな話が出たというのが驚きだ。北朝鮮なら、みんなが私に石を投げただろうに…」
金賢姫氏は大法院(日本の最高裁に相当)で死刑判決を受け、15日後の1990年4月12日に特別赦免された。金賢姫氏の助命は、大韓航空機爆破事件が金正日総書記の指示によるテロだということを証明するためだった。金賢姫氏が歴史的事件の「唯一の証人」だったからだ。
金賢姫氏の証言でアメリカは北朝鮮を「テロ国家」に指定し、ベールに包まれていた日本人行方不明事件が北朝鮮による拉致だったことも判明。日本列島を揺るがした。
Q:あなたはこの場でインタビューを受けている。生きているのはあなたにとって幸福なのか、地獄なのか?
A:「当時、バーレーンの空港で自分の正体がばれたとき、準備していた毒薬のアンプルを噛んだ。あのとき死ぬべきだった。死にきれずに生き残ったとき、本当につらかった。廬武鉉政権のときも死にたかった。私は大きな罪を犯したが、私を生かしたのは“証人”だからだ。真実を守らなければならない…」
(2)に続く。