社会人大学院で学ぶ技術経営

社会人大学院で技術経営を学びながら日々の気づきを書きとめてみます.

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フロネシスとマネジメントとコーラス

2006年01月31日 | 知識移転・知識継承
ケイ・ポラック監督の映画「歓びを歌にのせて」はスウェーデンの田舎町の聖歌隊の物語である.映画では,自分の主観/価値観をお互いにぶつけ合う中で,ハーモニーが生まれてくる.主人公であるコーラスの指揮者ダニエルは,ファシリテーターであるとともに主観/価値観をぶつけあうメンバーの1人でもある.最後の場面では,コンサートに指揮者が病気で倒れて参加できない中で,皆が「心の声」を聞いてコーラスが始まる.

この「心の声」は,アリストテレスの3つの「知識」の1つである「フロネシス(実践的知識=高質の暗黙知)」に通じる.「フロネシスとしての戦略」は,一橋ビジネスレビューの論文.各自が全体の状況を見通し,何か最善かを判断し実行する.さらに各自の判断が全体として調和している.それをファシリテートするのが指揮者である.

この「フロネシス」は,MITトマス・マローン教授の提唱するIT社会のワークスタイル「〈命令と管理〉から〈調整と育成へ〉」でも不可欠な「知識」であろう.

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サービスと情緒と形

2006年01月22日 | サービスサイエンス
サービスの課題(=サービスサイエンスの目的)は以下の3点である.
(1)サービスの定式化・計量化
(2)サービスの生産性・効率の向上
(3)サービスによる新しい価値の創造

グローバリゼーションは,全世界で共通する(と米国が主張している)価値尺度の導入である.それは,「お金」であり「論理」である.しかしながら,サービスによる価値は,国,地域,家族,個人によって異なる.特に,新しい価値の創造に関しては,世界中誰でも共通して欲しいものなど少なくなってきているのではないだろうか.数学者であり作家新田次郎の次男である藤原正彦の最新著作「国家の品格」では,「論理」や「お金」の限界と日本人が昔持っていた「情緒」と「形」の重要性を述べている.

「情緒」とは数学における「公理」のようなもので,論理的に価値が証明できるものではない.情緒は論理の出発点であり,国,地域,家族,個人によって異なるかもしれない.「情緒」のように,論理の出発点となる個別の公理系を「価値観」と総称するとすれば,「サービスによる新しい価値の創造」とは,今まで気がつかなかった個人ごとの「価値観の発見」が必要である.

しかしながら,「情緒」のようなフワフワしたものを取り扱うのは非常に難しい.そこで,「形」が必要となる.茶道,華道,拳法などでは,まずは形から入って,徐々に個人が価値観を発見していく.

サービスによる定式化・計量化においては,「論理」や「お金」の前に,「形」の考察が必要であり,長い歴史の中で洗練化されてきた茶道,華道,拳法の方法論が役に立つだろう.
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サービスと特許力/技術力

2006年01月20日 | サービスサイエンス
2005年の米国特許取得数のランキングの発表があった.IBMは,ガースナー以降サービスに軸足を移しつつあることは周知のことだが,米国特許取得数の1位は,13年連続IBMとのこと.なぜ,IBMは特許を取得しつづけるのであろうか?サービスのような良し悪しのメトリクスが明確でない領域では,目に見えないところで技術力の差がジワジワと効いてくるということであろうか.
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計算機科学から社会科学への批判

2006年01月04日 | 技術経営
先日,ある大学のシンポジウムを聴講した.

ある社会科学者の講演は社会科学の勉強を始めている私にとっては興味深いものであったが,計算機科学者A氏にとっての印象はたいへんネガティブなものであった.計算機科学者でもある私はA氏の印象も理解できた.

計算機科学から社会科学への批判(要望?)を要約すると以下の2点だろう.
(1)定義をキッチリして論理的に議論できるようにして欲しい.
   (できれば,数理論理や数式を使って欲しい)
(2)評論家的ではなく目の前の問題解決に使える形にして欲しい.
   (できれば,計算機で処理可能な形にして欲しい)

しかしながら,計算機科学者の要望に答えてマネジメントを数理モデルで記述することが正解なのだろうか?マネジメントの数理モデル化に関しては過去に様々な試みがあったが,その有効性は限定的であり,ともすれば本質的な「力」が失われてしまうケースが多いように思える.

我々が直面しているマネジメントの諸問題は,数理モデルだけでも解決できない.ゆえに,あえて社会科学の勉強をしているわけである.

では,具体的に社会科学の「力」の源泉は何であるか?例えば,統計的には1つのサンプルでしかない「ケース」がなぜ「力」を持つのか?それは,情報を自分なりに理解して自分自身の「力」に変える「内面化」にポイントがあるような気がする.

問題解決を100%計算機でできれば知識の内面化の必要はないが,多くの場合に問題解決を行うのは人間である.社会科学から生み出される知識とその内面化について,踏み込んで考えてみたい.それが,計算機科学から社会科学への批判に対する計算機科学者への答えになるような気がする.
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