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社会人大学院で学ぶ技術経営

社会人大学院で技術経営を学びながら日々の気づきを書きとめてみます.

ロボットと幸せに共生するための科学哲学

2005年06月10日 | 技術経営
近年,ロボットが身近になってきた.開催中の愛知万博でも様々なロボットが展示され話題になっている.近い将来,これらのロボットが我々の生活に入り込み,それなりの感情移入ができるようになるだろう.ソニーのペットロボット「アイボ」は1つの典型例だが,介護ロボットの分野でも介護される人とロボットの「心の交流」が生まれるかもしれない.実際,オランダのレリー社の搾乳ロボット「アストロノート」は,搾乳の完全自動化を実現しているが,牛たちは搾乳の順番待ちのために自ら列をなすそうである.実際に見学した人によるとその光景は衝撃的とのこと.牛にとって「アストロノート」は機械以上の存在なのだろう.このような状況で,我々はロボットとどのように向き合うべきであろうか.人とロボットの「心の交流」は人間側の勝手な「錯覚」であり,ロボットにとっては「心の交流」などは存在しないと言い切ることもできるだろう.しかし,私は「少子高齢化社会でロボットと幸せに共生するため」に,積極的な解釈が与えられるべきだと思う.これは,人工知能の分野で昔から議論されてきた「機械は心を持てるか」という命題にも通じる.

哲学に「自由論」と「決定論」の議論がある.現状の機械は「決定論」に基づくことに異論はないだろう.このとき,人間とロボットの「心の交流」を解釈するためには2通りのアプローチがある.すなわち,(1)進化したロボットは自由意思を持ち「自由論」的に行動できるようになる,あるいは(2)人間はそもそも「決定論」的に行動しておりロボットと同じレベルである.一般的には,前者のアプローチが主流だと思われるが,現状で自由意志を持たない「アイボ」や「アストロノート」では「心の交流」は人間側の「錯覚」として解釈するしかない.それでは少し寂しい.そこで,私はあえて後者を主張してみたい.

慶應大学機械工学科のロボット研究者前野隆司氏の著書「脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説 」では,「「意識」は能動的にその他の脳・体に指示を出すのではなく,脳・体の構成要素が勝手に連動して動いた結果を,受動的に観測し,なおかつ能動的に指示したかのように錯覚させるもの」と主張し,これを「受動意識仮説」と呼んでいる.氏はその根拠の1つとして,カリフォルニア大学のリベット博士の実験結果を参照している.

氏の提唱する「受動意識仮説」を正しいとすると,人間も牛も昆虫もアメーバーもロボットも基本的には皆同じであり,外界の刺激に対して機械的に反応している(「決定論」的に行動している)ことになる.これは進化論的にはすっきりした解釈となっている.人間が自由意志で行動していると感じているのは「錯覚機構」が発達しているからで,ロボットや下等動物が持っていない「心」が進化の過程で非連続的に生まれた(二元論)わけではない.下等動物の生殖行動に「愛」があるか否かという議論があるが,「愛」と認識するのも事後的な錯覚である.であれば,錯覚の程度の差があるとしても,動物でも人間での行動に「愛=心の交流」があると考えても良いのではないか.さらに,牛と「アストロノート」の間にあっても良い.

どのみち,「心」に関する真実は永遠にわからないかもしれない.その上で,将来登場する心を持っているように見えるロボットとの幸せな共生を形而上学的に矛盾無く理解できるフレームワークの提供が哲学の本来の意義だとすれば,上記の解釈は積極的に評価されるべきだし,社会にとっても有益だと思う.