
哲学に「自由論」と「決定論」の議論がある.現状の機械は「決定論」に基づくことに異論はないだろう.このとき,人間とロボットの「心の交流」を解釈するためには2通りのアプローチがある.すなわち,(1)進化したロボットは自由意思を持ち「自由論」的に行動できるようになる,あるいは(2)人間はそもそも「決定論」的に行動しておりロボットと同じレベルである.一般的には,前者のアプローチが主流だと思われるが,現状で自由意志を持たない「アイボ」や「アストロノート」では「心の交流」は人間側の「錯覚」として解釈するしかない.それでは少し寂しい.そこで,私はあえて後者を主張してみたい.
慶應大学機械工学科のロボット研究者前野隆司氏の著書「脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説 」では,「「意識」は能動的にその他の脳・体に指示を出すのではなく,脳・体の構成要素が勝手に連動して動いた結果を,受動的に観測し,なおかつ能動的に指示したかのように錯覚させるもの」と主張し,これを「受動意識仮説」と呼んでいる.氏はその根拠の1つとして,カリフォルニア大学のリベット博士の実験結果を参照している.
氏の提唱する「受動意識仮説」を正しいとすると,人間も牛も昆虫もアメーバーもロボットも基本的には皆同じであり,外界の刺激に対して機械的に反応している(「決定論」的に行動している)ことになる.これは進化論的にはすっきりした解釈となっている.人間が自由意志で行動していると感じているのは「錯覚機構」が発達しているからで,ロボットや下等動物が持っていない「心」が進化の過程で非連続的に生まれた(二元論)わけではない.下等動物の生殖行動に「愛」があるか否かという議論があるが,「愛」と認識するのも事後的な錯覚である.であれば,錯覚の程度の差があるとしても,動物でも人間での行動に「愛=心の交流」があると考えても良いのではないか.さらに,牛と「アストロノート」の間にあっても良い.
どのみち,「心」に関する真実は永遠にわからないかもしれない.その上で,将来登場する心を持っているように見えるロボットとの幸せな共生を形而上学的に矛盾無く理解できるフレームワークの提供が哲学の本来の意義だとすれば,上記の解釈は積極的に評価されるべきだし,社会にとっても有益だと思う.