H氏の遺稿集につられて,自分の信仰心について考えた。
何年か前,アメリカ人の30歳くらいの女性と話していた時に,あなたの信じている宗教は?と訊かれ,無宗教と答ええたところ,まるで悪魔でも見るような目つきで何故かと追及された。日本語ならいろいろと理屈を並べられたろうが,英語では全くしどろもどろで,閉口した。以来,外国の方と宗教の話になった時は,仏教徒であると答えることにしている。
これはあながち嘘ではない。生まれた家は代々浄土宗のお寺の門徒で,菩提寺には毎年会費を納め,お盆には坊さんに先祖の供養をしてもらい,すっきりした気分になっている。子供の時,仏壇にあったお経の書いてある小冊子を開いて,ふざけ半分で読んだお経が法然上人の一枚起請文だった。仮名がふってあって短かったからだったろう。ところがそれを聞いた父が大喜びで,良いことをした気分になり,折に触れて唱えるようになった,内容は簡明で,常に南無阿弥陀仏と唱えていれば往生間違いなし,ということである。今でも,テレビなどで人や動物の死を知ると合唱して,南無阿弥陀仏と口に出し,仏様よろしくと願っている。
アメリカの実験心理学者のジェシー・ベリングが書いた『ヒトはなぜ神を信じるのか』(The Belief Instinct)によれば神を求める,あるいは信じる要因となる性質は進化の結果としてヒトに備わっているという。同書の中にゴリゴリの無神論者であったサルトルが,死に際のベッドでふと目覚めた時,そばにいた看護婦に「ここはあの世か」と問うたというエピドートが紹介されていた。わたしもあの世や神の存在を信じるかと問われれば,信じないと答えるが,サルトルと同じ状況に置かれれば同じ反応を示すかもしれない。
結局のところ,人は生まれ育った社会や家庭の中で,馴染んだ宗教に依拠するようになるのではないだろうか。わたしもその例外ではない。無理に宗教を否定する気はない。