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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

遠山の金さん

2018-01-09 22:56:43 | ポルトガルよもやま話
2018年1月9日

今日は創立時から22年間、ポルトに在住していた子供たちと学んだ補習校時代の思い出話です。

週に一度の我が職場、中1の子供達と一緒に児童文学作家吉橋道夫氏の「ぬすびと面」という話を読んだときのことです。

狂言の面打ち師が、これまで誰も打ったことが無いという「ぬすびと」の面をどうしても打てないでいる。このぬすびと面は、狂言の内容からして、「どこか滑稽で間が抜けており、それでも一目見ただけで人を震え上がらせるような顔」でなければならない。

そんなある夜、面打ち師の家に恐ろしい顔をした盗人が押し込む。しかし、どういうわけか、物は盗らず、代わりに赤ん坊を押し付けて行ってしまう。うむと気張った恐ろしい顔の裏に、もうひとつの別の顔があるような気がして、「これや、この顔や!」とその時の盗人の顔をしっかり記憶に刻みこんだ面打ち師は、ようやくノミを振り上げ面を仕上げる。

壬生大念仏狂言の始まるその日に、竹矢来を組んだ特別の場所に、牢屋敷の囚人達も集められると聞き、面打ち師とその女房は、もしかしたら件の盗人もその中にいるかもしれぬ。それなら一目、無事に自分達に育てられている子を見せてあげようと連れて行く。

ところが、肝心のその盗人は、チラとこちらをみただけど、何のかかわりもないという顔をして、うむと気張って座っている。

拍子抜けした面打ち師が役人にその盗人のことを訊ねると、「ちょいと、変わったことをやりよって。」盗んだのではなくて、間引きされそうになった子供を助けて、育ててくれそうな家へ無理矢理押し付けて配って回った、とのこと。

面打ち師は改めて、この世の、どうしても許しておけないことに対する、盗人の、怒りを込めて人々を睨みつけている顔を見、もう一度「ぬすびと面」を打ち直そうと思う
。(要約spacesis)

ざっとこういう話なのですが、さて、時代物の物語の中に、海外で生まれ育つとどうしても耳慣れない言葉が出てくるわけでして、「狂言、竹矢来、奉行所、間引き」などがそれです。

説明が「奉行所」に及んだとき、「今で言えば警察ですね。」と一言で終われるものを、亡くなった母の影響で子どもの頃は時代劇や講談が好きだったわたし、話の成り行きで、ついついお奉行様までいってしまいました^^;

お奉行様といえば言わずと知れた遠山の金さんこと刺青判官!海外に在住する子どもたちのほとんどは、現代物の日本マンガやビデオアニメは見るものの、時代物はまずなく、当然知るわけがございません。そこでわたしはインスタント講談師に(笑)

着流しで市井にその身をしのばせ、悪漢どもを退治。最後はお見事、片肌脱いで

「えぇぇい、往生際の悪いヤツめ。この桜吹雪がお見通しでぇい!」とご存知18番。


2009年子供たちと一緒に行った日光江戸村でのシーン

大丈夫、大丈夫ですってば。なんぼなんでもこのわたし、片肌脱いだわけではありません。

で、最後が「これにて一軒落着~。」と終わるのです、と講談が終わったところで、ジリジリーと授業終了の鐘も鳴りました。

すると、ポルトガル生まれでポルトガル育ちのY君、「学校に遠山の金さんのビデオないの?」と来たもんだ。うん、分かる分かる、その気持ち。見て見たいもんだよね。残念ながらまだ日本でその番組が放映されてるかどうかも、分からなかった。

○HKの大河ドラマは古いものではあるけれど、結構そろっているたものの、あれを見こなすのは、彼らには少し難しい。しかし、毎回のストーリーもほぼ同じで筋を追いやすく、勧善懲悪の時代物というのは、この「遠山の金さん」を始め「銭形平次」なども、痛快でここにいる子供にも受けるのではないかと思うのは、わたしだけだろうか。

かつて、我が娘に、「任侠清水の次郎長、森の石松、金毘羅代参」三十石船のくだりを話し聞かせたことがある。

♪ 旅ゆけば、駿河の国に茶の香り~と始まる広沢とら造の浪曲、

相手を石松とは知らぬ客、清水一家で一番強いのを忘れてたと石松の名をやっと最後にあげる。内心大喜びの石松。

石松「呑みねえ、え、オイ。鮨を食いねえ。江戸ッ子だってねえ」
客「神田の生まれよ」
石松「そうだってねえ、いいねえ。……ところで石松ッてのはそんなに強えか」
客「強いのなんのって、あんな強いのは二人とはいめえ」
石松「おい、いくらか小遣をやろうか。……なに、あるのかい。
   そうかい。そうかい。 ふーん、石松ってのは、そんなに強いかえ」
客「ああ、強え。強えは強えが、しかし、あいつは、少々頭のほうが
  薄いときてる」
石松「なに……頭のほうが薄いだと」
客「馬鹿だよな。みんないってるぜ。あのへんの子守りでさえもが唄って
  るぜ。聞いてみな。東海道じゃ一等バカだ」
石松「馬鹿だとねエ。べらぼうめ。へッ。どんな唄か聞かねえが、お前さん、
   その文句知ってるのかい」
客「知ってるともよ。聞かしてやるか」

♪ お茶の香りに東海道、清水一家の石松はしらふのときはよいけれど、お酒
呑んだら乱れ者、喧嘩早いが玉に庇。馬鹿は死ななきあ、なおらない~


やはり彼女も面白がって、その映画を観てみたいと言ったものである。その語呂合わせ、リズムの痛快さに、カッコいいと心弾ました子供の頃の自分をY君や我が娘にチラと重ねて見たような気がしたのでした。

ここまで書いて思い出したことがあります。
昔、ポルトのテレビ局が取材に来たときのこと。

その日は日本の知人が送ってくれた「声に出して読みたい日本語」を子供たちに紹介しがてら、中の「白波5人男」の一人、弁天小僧菊之助が泥棒の正体を現し開き直って言うセリフ。子供らを前に、
   
   知らざぁ言って聞かせあしょう。
   浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の
   種は尽きねぇ七里ガ浜ぁ。
   ~~~(略w)
   名さえゆかりの 弁天小僧菊之助たぁ、おれがことだぁ~あぁ。

と、歌舞伎調で、首も振ってジェスチュアーよろしくやっていましたら、ギョ !廊下からカメラがジィ~ッと回っていたのに気づき、赤くなったり瞬時青くなったりして大いに困った経験があります。
幸いその場面は放映されず、数秒のインタビューが出たのでよかったものの、放映日が来るまで気が気でならず生きた心地もしませんでした

そうなんです、こういう七五調の、ビシッと決まったセリフがスカッとして
わたしは大好きなのですが、皆様はいかに。

ポルトのカフェ・マジェスティック

2018-01-08 15:38:10 | ポルト
2017年1月8日 

ベル・エポック(フランス語、belle epoque )と言う言葉をご存知だろうか。フランスでパリを中心に新しい文化や芸術が栄えた19世紀末から20世紀初めにかけての時代を言う。女優のサラ・ベルナール、ロートレック、詩人ランボー、ボードレールなどが活躍した時代だ。
 
パリの一番最初のカフェのお目見えは1667年と聞く。1715年には300ほどのカフェがパリにあった。これらの中でも最も有名なのは「カフェ・ド・プロコープ」。ボルテールやルソーが常連客だった。
 
フランス革命時期には、政治家やマラー、ロベスピエール、そして若き日のナポレオン・ボナパルトも集っていたと言われる。このカフェは現在では「ル・プロコープ」としてパリでも老舗のレストランとして営業おり、筆者は2007年秋にパリを訪れた際、そこで夕食を楽しんで来た。

さて、ポルトの最初のカフェは「Café Lusitano」と呼ばれ1853年に開店した。1921年、パリにはかなり遅れてではあるが、ポルトの目抜き通りSanta Catarinaに建築家ジュアン・ケイロス(João Queirós)によって開店された「カフェ・エリート」が、Majestic Caféの前身になる。(1922年改名)

20年代には文人や芸術家たちが集い、討論に花咲かせたマジェスティックは、ベル・エポック時代の歴史を語る「ポルトのエスプリ」とも言えよう。マジェスティック はその古きよき時代の名残を今に残している。


2016年1月現在 

しかし、60年代に入ると、時代の変化に抗えずに衰退。わたしがポルトに来たのは1979年だったから、この当時はカフェは閉店したままであった。80年代に入って詩の文化遺産としてポルトっ子たちの関心を集めるになった。10年の年月をかけてオリジナルの華麗なアール・ヌーボースタイルを見事に復元した。


美しいファシャーダ(正面入り口)をくぐると、店内には小さな白大理石のテーブルにアンティークの椅子、木彫り細工の大鏡が訪問者を別世界に誘う。


マジェスティックはシラク元大統領を始め国内外の著名人が多く訪れている。かのJ.K.ローリングは、ポルト在住中にここを気に入り、第一巻「ハリー・ポッターと賢者の石」の一部をここで書いたと言われる。

ローリングがどのテーブルに着いてどの章を綴ったのか、とエスプレッソをすすりながら想像してみるのも魅力的ではないか。

百人一首を通じて学ぶ日本の歴史

2018-01-07 15:31:17 | 
 2018年1月7日

子どもの頃、トランブ遊びに替わりに親がよく遊んでいたので、花札の花合わせ遊びは知っている。
小さな一枚一枚の黒い縁取りのカードに、鮮やかな色彩の花が描かれているのを見ては、美しいと子供心に思ったものだ。少し厚めで裏が黒色の花札は、一枚一枚置くときのピシッと音がするような感覚も好きだった。

日本から持ってきた花札は、ここで遊ぶことはないが、日本文化展示会に使うことがある。その鮮やかさな色彩はポルトガル人たちの目をひくようだ。

花札が一式を48枚だとするのは、ポルトガルから伝来した「カルタ(carta)」もしくは「バラーリュ(Bbaralho)」と呼ばれる遊びカードが、一組48枚だったことから来ると言われる。後に、このカルタ、バラーリュは日本語で「トランプ」と呼ばれるようになったが、その語源はさだかでない。

さて、カード遊びと言えば、日本の代表として上げられるのに小倉百人一首の歌がるたがある。小倉百人一首は13世紀始めに京都の小倉山の山荘で、歌人藤原定家が8世紀から13世紀の間に詠まれた和歌を編纂(へんさん)したものだ。、それが江戸時代に入ると歌がるたとして広く普及し、現代に至る。


展示会用に日本から持って来た百人一首


歌がるたの経験はないが、百人一首の歌の何首かは知っている。恋の歌が多いなというのが、これまでのわたしの感想であった。





ところが、しばらく前に、「今の百人一首の解釈の多くは間違っている」と書いてあるのをネットで目にしたもので、どこがどう間違っているのか知りたいものだと好奇心が頭をもたげ、日本に住む娘に依頼して送ってもらった本が「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」だ。



サブタイトルに「千年の時を超えてあ明かされる真実」とある、国史研究家、小名木善行氏の著書である。小名木氏は、日本の良い話をブログ「ねずさんのひとりごと」で発信するブロガーであり、わたしはよく訪問する。

一週間ほど前から、夜寝床に入って寝入る前に読み始めたこの百人一首だが、一挙にその解説に引き込まれてしまった。ハードカバーの分厚い本なので、右親指の付け根に腱鞘炎があるわたしには、しばらく手に抱えて読むのが厳しい。夜寝る前に百人一首の1首と解釈を読んで本を置くことにしている。

小名木氏の解説には、文法解説もあるが、同時に時代背景の歴史を絡め、歌の詠み人の心情にせまっていく。なんだか、ミステリーを紐解いていくようで、わたしは大いに興味をそそられているのである。

例を上げると、百人一首のトップは、中大兄皇子こと、後の天智天皇の詠んだ、

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ」

は、通常、「小屋が粗末だから、わたしの着ている服が梅雨で濡れてしまったよ」が解釈だが、小名木氏は、「天智天皇ご自身が太陽が出ていない時間帯に、粗末な庵で、長時間、自ら苫(ござ)を編んでいたのであり、民と共に働く天皇、上に立つものから率先して働く天皇の姿」がうかがい知れる。世界史上でも類まれな偉大な天皇の和歌を、一番歌として定家は持ってきた、と解説している。



2番歌には、女性天皇、持統天皇の

「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」

は、究極の夫婦愛と日本人の死生観を歌ったものだと言う。そして、「日本」と言う国号を正式に決め発令したのはこの持統天皇だと解説にある。



ひとつひとつの和歌の解説は、その当時の歴史的出来事をとりあげ、まるで歴史を短編を読んでいるような気がすると同時に、目からウロコの解釈に驚くばかりだ。

久しく、ズシリと重さも読み応えもある一冊に出会った思いだ。

ポルトガルのコーヒー談談議

2018-01-06 22:25:06 | ポルトガルよもやま話
2018年1月6日

今日はポルトのカフェとコーヒーの話です。

カフェ(café)と言えばポルトガルでは「エスプレッソ」である。かつてのポルトガル植民地、ブラジル、アフリカのアンゴラ、モサンビークなどは有数のコーヒー豆の産地であり、現在でもこれらの国から多くのコーヒー豆が輸入されているのだが、ポルトガルのコーヒー文化は意外と知られていない。
同じポルトガルでもリスボンとポルトではエスプレッソの呼び名が違うのが面白い。リスボンではBICA=ビカ、ポルトではsimbalino=スィンバリーノ、もしくは単にカフェと注文する。

ポルトのsimbalinoはイタリアのエスプレッソを作るコーヒーマシーンのメーカー名、「La Cimbali」から来る。また、リスボンのBICAもエスプレッソを作る機械の蛇口を言う。
   
しかし、BICAには面白い説がある。昔、リスボンの街のダウンタウンにあるカフェで、エスプレッソが出始めたころ、その苦さに慣れていなかった客は、これまで親しんできたコーヒーの味と違うため、文句を言い出した。

そこで店主は言った。
Beba isso com açucar!=砂糖をいれて飲め!」。
(ベバ イッソ コン アスーカル)

言葉の頭文字をとってBICA以後、ビカと呼ばれるようになったと言うホンマかいなと思われる冗談のような説ではある。


上の写真にあるようにエスプレッソは普通カップ半分くらいで出される。なみなみと欲しい場合は、「café cheio(=カフェ・シェイウ=カップいっぱい)」と頼めばいい。値段は同じである。

ポルトガルのカフェはエスプレッソだけではない。 例をあげると次のようなものがある。

↓Pingo(ピンゴ。ポルトを含む北部での呼び名) ミルクが少し入った甘いコーヒー。


リスボンではPingoをGaroto(ガロート)と呼ぶ。garotoはポルトガル語で小僧、子どもの意味で、強いエスプレッソを飲むのにまだ時期尚早であるからして、小僧はこれを飲んどけ、というのでできたらしい。デミタスカップで出される。

Meia de Leite(メイア・デ・レイテ。半分ミルクの意味) コーヒーとミルクの比率が同じ。カップはエスプレッソのより大き目↓


Galão(ガラォン)

 
↑エスプレッソとあわ立てたミルクで作られる。ミルクの割合が多い。量も多く通常はガラスコップで出される。熱いので写真のように取っ手が付いてくるが、そうでない場合もある。

これがポルトガルのコーヒー類の主な種類だが、ポルトガルでは一般家庭でも食後のコーヒーはエスプレッソを飲んだりする。わざわざカフェまで出かけないで、エスプレッソマシーンを買い、ネスプレッソカプセルで楽しむ人も多い。


しょっちゅう使うわけではないが、我が家のエスプレッソ・マシーン。下は気に入っているデミタスカップ。


また、下のようなクラシックなコーヒー沸かし器もよく使われる。モカエキスプレスと言うのだそうだ。


上下二つの部分に分かれている。下には水が入り、中央部には挽いたコーヒーの粉を入れる金属製の小さな穴がたくさん開いたフィルターがついている。このまま火にかけると、沸騰したお湯が下から上に上り、上部にコーヒーが溜まる。我が東京息子はこれをポルトからもって行った。

こんなおしゃれなコーヒーマシンもある。


余談だが、コーヒーの呼び名からもお分かりかと思うが、リスボンとポルトで呼び名が違うものは他にもいくつかある。生ビールもそのひとつ。

ポルトではCerveja pressão=セヴェージャ・プレサォン(presãoは圧縮の意)、あるいはfino=フィーノ(細い、上品な、の意味がある)、リスボンではimperial=インペリアル(ビール工場の名前)と注文する。

こうしたことから、ポルトとリスボンはなにかとライバル意識がちらつくのが面白い。

本日はこれにて。



梅の木のある家

2018-01-05 18:21:25 | 思い出のエッセイ
2018年1月5日

子供の頃から今に及んで、失敗談には事欠かない。しでかしてしまった後に、自分でもおかしくて笑いのネタにするものもあれば、中には、恥ずかしくてとても披露できないものも若干ある。

しかし、こう言ってはなんだが、何十年も前の失敗談ともなると、失敗談の域を超え、これはもう殆ど自慢話に近くなってしまったと言う、わたしが小学校4年生くらいの、今日は話である。

娯楽があまたある現代の世の中からはすっかり姿を消してしまっただろうか、専ら自然を相手の遊びが中心であった弘前でのわたしの子供時代のことだ。

大家族で住んでいた祖母の家の裏は畑で、その向こうは限りなく田んぼであり、小川が流れていた。稲を刈った後の田んぼは、切り株がニョキニョキ出ていて、裸足で走ろうものなら、痛くて半べそをかいたものだが、それでも、だだっぴろい田んぼは遊ぶのに格好の場所であった。

夏は6畳の部屋いっぱいに吊るす「かや」が、本当に嬉しかったものだ。何が嬉しかったかと言うと、それをハンモッグ代わりにして妹と二人遊ぶのであり、見つけられては祖母にこっぴどく叱れたものである。

かやの中に、裏の川べりで捕ってきた蛍を放すのも、子供心になかなか風流なものだと感じ入った。今にしてみれば、短い夏の夜の蛍の儚い命、気の毒な気がしないでもないのだが、わたしが子供の頃は、蛍も赤とんぼも、今では考えられないほど、いくらでも見かけたのである。だから、そうして捕まえることを気にもしなかった。

ほうずきの中身を上手に取り出し、口に放り込んで鳴らすのも夏の遊びの一つだ。普段の日も長い休みの日も、厳寒の冬ですら、雪で「カマクラ」を作って隣近所の子供達と何かしら自然の中から遊ぶものを見つけ出しては、日が暮れるまで遊び呆けた。

おかあさんごっこ、着せ替え人形などはわたしの性に合った試しがなく、2つ年下の妹を引き連れては、毎日のように、男の子たちといっしょくたになって遊び、わたしがガキ大将だった頃だ。

この頃、「ターザン」を知ったのだ。夢見る少女はターザンのように木から木へと飛び移り、「あ~ぁあーー!」と大声出すことに憧れた。

「そうだ!裏の畑と田んぼの境目に、大きな古い梅の木があるではないか!」 今の小学生と違い、当時の小学校4年生の頭など単純なものである。素晴らしいアイデアに酔ったわたしは、翌日近所の手下である仲間たちを引き連れて、早速ターザンもどきを決行したのである。

木登りはお手のものであったから、大きな梅の木にはスルスル上り、家から持ち出してきた縄の輪を二度巻きにして太目の枝に引っ掛けた。
ここまでは小4の頭脳にしては上出来だ(笑)縄が自分の体の重みで切れるかも知れないのをちゃんと計算したのである。下では子分どもが心配そうに木を仰いでいる。

やおら、その縄にぶら下がり、夢見る少女は叫んだ、
「あぁ~あーー!」
二回三回と枝を揺すぶった。

と、一瞬なぜだか分からないが、自分の体が土に投げ出されたのを感じた。2度巻きにしたはずの縄が、梅の木の枝からダレンと長く垂れているのが見えた。

右腕に激痛!立ち上がったもののその痛みに耐え切れず「痛いよ、痛いよぉ」と右腕を押さえて辺りを走り回るがき大将の女親分。子分たちはと言えばポカンと口開けて、わたしが遊んででもいると思ったようだ。

しかし、親分の顔は、見る間に青ざめて行く。事の異様さに気づいた子分の一人が人を呼びに走った。そのまますぐ近所にある下町の骨接ぎや(整骨や。昔はこう呼んだ)まで、今度は祖母が私を担いで走った。
診断:右上腕骨折。

その夜は、祖母と同じ布団で寝、祖母にしがみついて腕の痛みで一晩中泣いた。あの時代は鎮痛剤などなかったのだろう。治るまでの一ヶ月以上、学校へは当然行けず、腕を三角巾で吊るので洋服も着れず。一瞬ひらめいたターザンの夢はあっけなく終わり、女親分はすっかり面目を失ってしまった。

裏の畑で着物を着て、右腕を吊るす元気の薄れたあの頃の女ガキ大将の、セピア色になった写真が一枚ここにある。