ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

思わず舌を巻いた若者言葉訳枕草子

2022-12-29 20:38:01 | 
2022年12月28日 

「人間が発明した、破壊力を持ったありとあらゆる武器のなかで、もっとも恐ろしいのは、そしてもっとも卑怯なのは、言葉である。刃や火器は傷跡を残す。爆薬は建物や道路を破壊する。毒薬は後に検出される。言葉は、いっさいの痕跡を残さずに破壊することができる。」

ブラジルの作家、パウロ・コエーリュがその著書「Maktub(アラブ語で書かれてある、手紙の意味)」で書いているのですが、近頃、紙面やネットを賑わしている、知ってはいても自分は決して口にしないであろう日本語に実はうんざりしていたところに目にした言葉で、なるほどと頷かされたのでした。

「保育園落ちた、日本○ね」、「ダサい、ウザイ、ムカつく」など嫌悪を表す言葉を始め、国会で飛び交う言葉もとても教養ある議員が口にする言葉ではないんじゃないの?と思われる場面が増えて、暗澹とした気持ちになることがしばしばです。

明確に自分の意見を述べる分には賛成ですが、反対意見を述べたり、詰問するにあたっては、やはりその人の人格、教養が出てくるように思うのです。

イギリスの国会でのやりとりを見ていて思うのは、近頃の日本のようにグサグサと人の気持ちをえぐるような言葉はあまり使われていないということです。相手を攻めるに至っては、時にユーモアが入り、議会場にドッと笑いが渦巻く場面が度々見られます。笑いは緊張した場の重苦しい雰囲気を一気に変える潤滑油的役割をしてくれます。

醜い言葉で相手をののしり、低俗な言葉でいかにして相手をやりこめようかとする人間を目の前にするのは、気持ちのいいものではありません。見ていて却って嫌悪感を抱いたりするものです。もうホンマ、大の大人がこの状態かと、国会でのやりとりにはうんざりしていたのです。

「他人の振り見て我が振り直せ」、言葉遣いには重々気をつけなきゃ、と思っていたところでした、が、夕べ日本語授業の予習にと読んでいた「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」、第62番歌、清少納言の章で思わず、あっはっはと笑って、ハタと思ったことがあります。

夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ
―夜明け前にニワトリの鳴き声にかこつえてわたしを騙そうとしても、あなたとは決して逢いませんわよ―


Wikiより

これは、著者のねずさんの解釈によると、「浮気は許しませんよ」という歌とのことで、ほほぉ、と思って読み進めていくと、日本の中世社会を快活でノビノビと生きた清少納言という女性に触れ、更に彼女の作品「枕草子」にも少し触れています。

わたしも学生時代に暗記しましたが、「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる」と言うので始まる随筆集です。

ふむふむ、知ってるぞ、覚えてるぞ、と思っていますと、この枕草子の第28段「憎きもの」の部分を現役の女子高生に訳してもらったという下記の引用文があります。

――引用始め

お部屋にこっそり忍んで来る恋人を、犬が見つけて吠えるのって、すっごい憎ったらしくない?

あとね、ようやく密かに忍んで来てくれたのはうれしいんだけど、みんなが寝静まってお屋敷がシーンと静まり返っているのに、大いびきをかきながら寝ちゃうヤツ。 てか、絶対、まわりにバレバレじゃん><

それから、きっとバシッと決めようと思っるんだろうけど、大袈裟な長い烏帽子(えぼし)をかぶって忍んできてさ、慌ててんのか、烏帽子が何かに突き当たって大きな音を立てるヤツ。
なにそれ〜って思っちゃう(汗)。

それと、簾(すだれ)をくぐるときに、不注意で頭をぶつけて、「イテテテ!」って、大声をあげるような男って、サイテー。

あとさぁ、夜、忍んでくるとき、戸を開けるなら、少し持ち上げれば音とかしないのにさ、ヘタすれば軽い障子でさえガタガタ鳴らす男もいて、そーいうのって、なんかめっちゃムカつくよね。


――引用終わり

実に軽妙なノリで、もう脱帽的現代語訳です。上、文中の赤字部分は普段のわたしなら、「すっごい憎ったらしくない?」なんて、文法的に「すっごく憎ったらしくない?」でしょ!とか、「てか」ってなんでんねん、「てか」って。とか、最後の「めっちゃムカつく」などは、あきまへんで、と、ゼッタイ一言言ってたと思われる部分です。

いやもう、なるほどなるほどとひたすら感心する現代若者言葉訳でしたw さすれば、小見出しとも言える第28段「憎きもの」などは、現代語の「憎い」という意味合いからは離れているわけで、女子高生風に訳せば「ウザいもの」「ウザきもの」とでもなるのでしょうね。 ひゃ~、わたしとしたことが、使っちゃったよ、こんな言葉(爆笑)

いえね、自分は人との会話でこの手の若者言葉を遣うことはないでしょうが、それを使った訳が妙にピッタリ来るもので、枕草子が遥か昔の平安時代に書かれたものだとは思えないほど、いと、をかしく感じられたのでした。

若者言葉に対して少し認識を改めないといけないかしらん?

因みに、みなさま、ご存知かとは思いますが、平安時代は通い婚、つまり男女は同居せずに男性が女性を訪れる結婚の形が普通であったということを書き添えておきます。また、下記に枕草子第28段「憎きもの」の原文を掲載します。

忍びて来る人見知りてほゆる犬。あながちなる所に隠し臥せたる人の、いびきしたる。また、忍び来る所に長烏帽子して、さすがに人に見えじとまどひ入るほどに、ものにつきさはりて、そよろといはせたる。伊予簾などかけたるに、うちかづきてさらさらと鳴らしたるもいとにくし。帽額の簾は、ましてこはじのうち置かるる音いとしるし。それも、やをら引き上げて入るはさらに鳴かず。遣戸をあらくたて開くるもいとあやし。少しもたぐるやうにして開くるは、鳴りやはする。あしう開くれば、障子などもごほめかしうほとめくこそしるけれ。


本:日本アホバカ勘違い列伝

2019-02-04 21:07:54 | 
2019年2月4日
 
この手の本はめったに自分では買わないのだが、今回はどういうわけか、自分でも分からないまま手にしてしまっていた(笑)
近頃の隣国の嘘八百を並べて何がなんでも我が国を貶めようとするのに対する、日本政府の曖昧な態度に辟易している自分の心情が影響しているのかも知れない。「遺憾である」ばかりじゃイカンで!



しょっぱなからカンヌ国際映画祭で作品「万引き家族」で最高賞を受賞した是枝裕和監督の「勘違い」をこき下ろしているのだが、かの作品を文化庁所管の日本芸術文化振興会から2000万円の助成を得て作って置きながら公権力とは距離を保つ、と発言し文科大臣の祝いの申し出を拒否したことへの「勘違い」への批判だ。

この話はわたしも知っていたので、カンヌ映画際がフランスの公権力であるフランス政府が深くかかわった映画際であり、そこで受賞しながら、同じく公権力である日本政府からの祝福を拒否するとは矛盾してる、国民の税金である文化庁の助成金を即刻返せ、勘違いめ、と言っているのには、あっはっは、然り、と笑ってしまった。

まぁ、その他、勘違いの政治家、スポーツ選手、テレビ局、マスコミ、芸能人、コメンテーターと、出るわ出るわ。読み進めながら、日頃ニュースを通して、ふ~ん、この人でもこんなことを言うんだねぇ、なんだかストンと胸に落ちないや、との自分の思いが重なる。

人を批判のまな板に乗せるには、自分のことを棚に乗せないとできないことなので、不出来なわたしはあまりしないが、読んで可笑しいと言おうか、ふむふむと納得すると言おうか。こんだけバッサバッサと人を批判できたら愉快やろうな、とは思った。

勘違い人間について書き始めると、次から次と対象者が出てきた、という最後の談には、今の日本人をして「なんだかなぁ」と思うことが多いわたしは、さもありなん、と同意状態である。石川五右衛門の「浜の真砂はつきるとも、世に盗人の種はつきまじ」なんて書いてるが、まさに、「世に勘違いの種はつきまじ」であろうか。

最後に著者・北岡敏明氏は平成30年8月に行方不明の2歳の幼児を発見した大分県の尾畑春夫さんを取り上げ、勘違いのまったく逆の人と取り上げて賛美している。

まぁ、人の悪口は蜜の味、というから、癪だと思うことが多い人には笑えて読めるかも知らない。

大阪弁のしゃれ言葉

2018-10-11 15:41:12 | 
2018年10月11日

少々くたびれ気味な時は、ベッドに横たわりネコどもを足元にはべらして気の張らない本をひもとく。疲労感を吹き飛ばすには笑いもいいと言うのでこんな折によく目を通す、おせいさんこと田辺聖子さんの本です。

大阪に10年ほど住んでいたわたしにはこういう表現は何度読んでもプッと笑いを誘い、大阪弁のユーモアとしなやかさを感じます。以下。

「あの商談は夜明けの幽霊でんなあ」 →「夜明けの幽霊」は立ち消える。
「あいつはトコロテンの拍子木や」→ おとなしい人のこと
「お前はとんど、八月の槍やの」→ 八月の槍は「盆槍」→ボンヤリ
「饅頭の臼で、あいつはあきまへん」→ 饅頭屋の臼は餡をつく→アンツク(あほう)
「あいつは紀州のスイカや」→ 皮が厚い あつかましい
「あん人、うどん屋の釜やで。あてにせんとき」→ 湯ばかり 言うばかり。つまり口先だけ

ぼんやりだのアンツクだのと言うと角が立つが、「饅頭屋の臼やぞ」「八月の槍やぞ」だと、言われた当人も、あははと笑ってしまい、「すんまへん、桶屋の前だれで、忘れてました」と頭に手をやり、恐縮できる、とのことw 
「桶屋の前だれ」は、いつも桶の輪が擦れる→わすれるだそうですよ。

もう一つ。これは歌や格言類をもじったもの。

「ぼくは君といる時が一番しわよせ来るんだ」→「ぼくは君といる時が一番幸せなんだ」加山雄三もじり                「金類みなちょうだい」→「人類みな兄弟」
「歯がために金が要る」→「誰がために鐘は鳴る」
「目に入れても見たくない」→「目に入れても痛くない」
「コネにて一件落着~」→「これにて一件落着~」(遠山の金さん)


いかがでございましょ?
え?ちょっと古すぎて、spacesisさん、あんたもお盆の商店街でんなぁ」
                 (↑spacesis作→お盆の商店街→暇) 
ほっといてんか~。

お粗末さまでございました!

轟く海辺の妻の墓

2018-01-30 23:10:37 | 
2018年1月30日 

今日はビアハウスの話を休んで。

海の上で太陽が光を雲間に閉じ込められながら、かろうじて姿を見せている一枚の写真があります。


これは2016年に三度目にここを訪れた時に撮った写真ですが、カラーを白黒にしてみたわけではなく、目まぐるしく天気が変化するロカ岬でスマホを利用して撮影したものです。暗い画像に、わたしはある詩の一行、「どろく海辺の妻の墓」を思い出したのでした。


高校時代には、苦手な理数系の勉強はほったらかしに、フランス文学、ロシア文学、ドイツ文学の著名なものを図書館から借り出しては、外国文学の起承転結の明確なところにわたしは心を躍らし、片っ端から読みふけったものです。

そして、20歳頃にグワッとのめりこんだのに、松本清張シリーズがあります。「黒い画集」から始まり、清張の作品のかなりを読了しました。「社会派推理小説」と当時呼ばれた清張の作品は、大人の匂いがプンプンして、20歳のわたしには世の中の理不尽や犯罪に駆り立てられる人の心理を、こっそり覗いたような不思議な刺激がありました。 

それらの中でも特に心に残ったのは、霧の旗、砂の器、ゼロの焦点です。つい先ごろ、この「ゼロの焦点」をもう一度読み返す機会があり、思い出したのです。20歳の頃、気になりながら当時は調べようもなかった詩の1節がその本の中にあったことを。

In her tomb by the sounding sea. とどろく海辺の妻(彼女)の墓

訳が素敵だと今も思います。

戦後の混乱期の自分の職業を隠し、今では地方の上流社会で名をしられている妻が、過去を隠さんがため犯罪を犯す。やがて追い詰められ、冬の日本海の荒れた海にひとり小船を出して沖へ沖へと漕いでいく愛する妻をなす術もなくじっと見送る年老いた夫の姿を描くラストシーンに出てくる英詩です。

当時、この詩がいったい誰によって書かれたものなのか分からないまま長い年月の記憶の彼方に押しやられていたのでした。改めてこの本を読み終わりgoogleで検索してみよう!とハッと思いついた。英文でそのままキーワードとして打ち込みました。

おお!出た!出たではないか!一編の詩に行き着きました。しかも、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは作家、翻訳家でもあり、エドガー・アラン・ポーの訳詩もしていましており、この詩に行き着きました。

この詩は、「Annabel Lee=アナベル・リー」と題されるエドガー・アラン・ポーの最後の作品なのでした。(詩全部をお読みになりたい方はWikipediaでアナベル・リーと検索すると出てきます)

詩、「アナベル・リー」は、14歳でポーと結婚し、24歳で亡くなった妻ヴァージニアへの愛を謳ったものだそうで、ポー最後の詩だとされています。

「とどろく海辺の妻の墓」は、その詩の最後の1節です。エドガー・アラン・ポーといいますと、わたしなどは、「アッシャー家の滅亡」の幽鬼推理小説家としての一面しか知らず、詩人でもあったとは。無知なり。

Wikipediaで検索しますと、ポーの大まかな半生が書かれていますが、残した作品に違わない(たがわない)ような激しい愛の一生を終えた人です。

40年近くも経ってようやく、「ゼロの焦点」のラストシーンと、このポーの人生の結晶である「アナベル・リー」の詩がつながったのでした。

ロカ岬の暗い画像から、リスボンの詩人フェルナンド・ペソア、そして、ポーのアナベル・リー、松本清張のゼロの焦点ラストシーンとつながるとは奇遇なことです。

う~ん、これは清張ばりで行くと「点と線」が繋がったとでも言えるかしら。

本日も読んでいただきありがとうございます。

「凱旋門」と林檎酒「カルヴァドス」に再会する

2018-01-15 16:03:19 | 
2018年1月15日

土曜日の図書館での日本語教室を終え、別クラスのポルトガル人生徒数人を引き連れて漢字検定試験場である我が古巣、「ポルト日本語補習校」へ行ったある年のことです。

この学校で創立時の1987年から2009年の3月まで22年間毎週土曜日に通いました。もちろん、わが子たち、東京息子もモイケル娘もです。

「土曜日の 補習校までの道のりは 母の説教 9年間」とはモイケル娘の中学卒業時に残した短歌であります。うちでの説教もままありましたが、補習校までの20分ほど、後座席に座る彼らにそれとはなしに軽い説教をよくしたものでした。が、当のわたしはどんな説教をしたのか覚えてはおりませんです、はい。

そんな古巣に足を踏み入れると、我が子たちのみならずそれまでの22年間で受け持ってきたたくさんの子供達の顔も蘇り、少しジンと来ます。これまでで最長年勤めたというので、学校を退いた後も一応顔パスで校内に出入りできるのですが、物欲しそうに見えるのも不恰好であり、年に一度の漢検に生徒を連れて行く以外は顔を出しません。

ともに仕事をしたかつての同僚も現在何人かいますが、新しい人たちもおり、行くたびに補習校から感じ取られる雰囲気は違います。時代が変わりつつあるのだと思います。

1時半から試験は開始です。連れて行った生徒達が終了するまで補習校が図書室として使用している教室で控えて待とうと椅子に座るや、すぐYY塾のパートナーでもあり補習校でも教えているOちゃんがやってきて、「これを」と何やら、プレゼントらしきものを差し出されました。

誕生日でもなし、バレンタインデーでもなし、なんで?といぶかっているわたしに、いつもお世話になっているからと言います。断るのもなんですしねw、頂いて帰りうちであけてみると、おお!なんと懐かしや、「カルヴァドス(Calvados)」ではありませんか!


ひぇ~、Oちゃん!今でこそ、飲むものと言えば赤ワインかビールに落ち着きましたが、若い時分は結構酒豪でいろんなお酒に手を出しました。日本酒から始まりウイスキーは全部ストレート、ブランディ、ビンごと凍らせて飲むドイツのお酒シュナップス、そしてほろ苦い思い出がからむフランスのブランディ、りんご酒のカルヴァドス。

ビールを好むようになったのは当時大阪の梅田新道にあったビアハウスの老舗「アサヒビアハウス」で留学資金作りにバイトで歌うようになってからです。このビアハウスは現在も同じ場所にありますが改築されて同和火災ビルという名もフェニックスタワーとなり、「アサヒビアハウス」も「アサヒスーパードライ梅田」に変更されました。店内も改築と同時にガラリと変わりましたが、アコーディオン演奏でビアポルカのライブは今日でも火・木の週2回聴けるそうです。

さて、話をカルヴァドスにもどして。Oちゃん、なにかの折にわたしが話したカルヴァドスのことを覚えていてくれたのでしょう。このお酒の名前を知るきっかけになったのは20代に読んだレマルクの名著「凱旋門」でした。



カルヴァドスは物語の最初の場面ででてきます。フランスに不法入国し身分を隠して闇の手術を請け負ってその日暮らしをして生きているドイツ人外科医ラヴィックがこれまた異国人でよるべない端役女優ジョアン・マズーに夜更けのパリで出会う。うつろな表情の彼女を放っておけず、タクシーの運転手達のたまり場のビストロへ誘う。


夜も遅いそのビストロで二人が注文して飲むのがカルヴァドスです。

今回改めて読み返してみようと手にとったのですが、記憶違いな部分や忘れていた部分がたくさんありました。長い間、この本の舞台は第二次世界大戦中のパリだと思っていたのですが、旅券を持たない避難民で溢れかえっている大戦勃発寸前のパリでした。

「凱旋門」は2度映画化されています。ラヴィックをシャルル・ボワイエジョアンをイングリッド・バーグマン(1948年)が、 1984年にはアンソニー・ホプキンス主演ですが、どちらも原作には歯が立ちません。

最初のはメロドラマ的でわたしは途中で投げ出し、アンソニー・ホプキンスのはと言うと、いい役者さんではあるけれど、「ハンニバル・レクターのイメージが強烈でダメでしたw光が消えた暗いパリ、人々の果てしない恐怖と絶望が渦巻く大戦勃発前夜のパリを描き出している原作にはかないようがありません。

わたしは本の虫ゆえ、読書そのものは常にしているものの、若い時に読んだ多くの文学作品からは長い間ついつい遠ざかっていましたが、70を過ぎた今、改めてそれらの文学作品を読んでみようと思っています。
Oちゃんのカルヴァドスがきっかけです。

そうそう、今回発見したことがもうひとつあります。カルヴァドスはりんごを原料にしますが、いわゆるアップル・ブランディーとは一線が引かれ、フランスのノルマンディー地方で造られたもののみを指すのだそうです。

このお酒の名前を「凱旋門で」知って以来、20代の頃に勤めていた会社の東京本社上司が頻繁に仕事でフランスへ行くのをいいことに、わたしはその都度、当時国内では入手不可だったこのお酒を買ってきてもらったものでしたが、これがなんとアルコール度数40度なんだってば!こんなのを20代でちびりちびりと飲んでいた自分を思い出して、あはははは、ではあります。

ポルトガルに来て以来、アルコール度数の強いお酒といえば20度前後のポルトワインしか口にしてきませんでしたので、こんな強度のお酒は?味は?と多少躊躇するところがあるものの、Oちゃんからいただいたこの一本のカルヴァドス、過ぎし青春の日々に思いをめぐらしながらじっくり、ゆっくり、この先の一生をかけて飲み終えようと思っています。