ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

お手紙

2017-09-28 23:02:41 | 日記
2017年9月28日 

今日はふと思い出したポルト補習校時代の話をしたいと思います。
写真はアメリカの絵本作家、アーノルド・ローベル作、詩人の三木卓氏翻訳の「がまくんとかえるくん」シリーズのお話です。

 


「今、一日のうちのかなしい時なんだ。つまり、お手紙をまつ時間なんだ。そうなると いつもぼく、とてもふしあわせな気もちになるんだよ。」と一度もお手紙をもらったことのないがまくんが、なかよしのかえるくんに言います。
友だち思いのかえるくんは、大急ぎで家へ帰り、早速がま君にお手紙を書きます。

そして、知り合いのかたつむり君に、がま君の郵便受けに入れてきてと頼みます。
「すぐやるぜ!」とかたつむり君。

ベッドでお昼寝しているがま君に「起きてお手紙が来るのをまってみたら?」と薦めます。
来るはずもない手紙を待つのにあきあきしたがま君は、今か今かとかたつむり君がやって
来るのを、窓から何度も外を見ます。

「どうして君、ずっと窓の外を見ているの?」と聞くがまくんに、かえる君は答えます。
「だって、ぼく、君にお手紙だしたんだもの。」

「親愛なるがまがえる君。ぼくはきみがぼくの親友であることを、うれしく思っています。」と書いて
あるかえる君のお手紙をふたりは玄関に出て幸せな気持ちで長いこと待ちます。
四日たってやっとかたつむり君ががまくんの家に着き、「とてもいいお手紙だ。」と喜ぶがま君。

                                  (spacesis要約)

というほのぼのとしたお話なのですが、忙しく用件だけを端的に述べたメール連絡が多い昨今、
わたしも手紙はなかなかいいものだなぁと、思わされた可愛い「お手紙」をもらった経験をば。

一週間に一度の土曜日の職場、補習校で講師をして21年目のときのことです。

小学1年生から中学3年まで見て来ましたが、その年は久しぶりに1年生と2年生を持ちました。
「あかるい おひさま あいうえお」で始まるひらがなの勉強から入るのですが、その1年生のSちゃん、その朝、補習校へ行きますと、国語の時間の始めに、「お手紙をあげたいの。」と言って、わたしに手紙を差し出してきました。

「せんせい、今読んで。」と言うのを、授業中ですものね、「休み時間まで楽しみにするよ^^」と納得してもらいました。

休み時間が始まるとすぐに、また「せんせい、読んで。」と寄ってきました。小さな可愛い絵柄の封筒の封を切って、取り出したお手紙には、

「せんせい、おべんきょうをおしえてくれて ありがとう。」

と、たどたどしいひらがなで書いてありました。先週授業で覚えてもらったのは「あ行」と「か行」です。
おうちの人に教えてもらいながら一生懸命書いたようです。わたしも思わず、がま君のように「とてもいいお手紙です。ありがとう。」

子供からのこのようなお手紙は、仕事冥利につきると思ったものです。そのSちゃんももう17歳くらいです。どうしているでしょうか。忘れられない手紙の一通です。

「沈黙は金、謝罪は美徳」ではない

2017-09-27 18:52:10 | 日本のこと
2017年9月27日



「spacesisには政治が分からぬ。spacesisはポルトの一主婦である。けれども祖国に対しては人並みに敏感である。」とまぁ、今日は太宰治の「走れメロス」冒頭部分を拝借。

「沈黙は金、謝罪は美徳」は、日本国内でこそ通用することだと知ったのは、ポルトガルに住んでからです。
私たち日本人は、相手とことを構えるのを避けるため、ついつい「すみません」を安易に使いがちなのですが、国際社会においては、旅行者ならいざ知らず、いえ、たとえ旅行者であったとしても、ことに寄っては「ごめんなさい」は迂闊に使うものではないらしいのです。

「すみません、ごめんなさい」の言葉は、全面的に自分の落ち度を認めることを意味するもので、自動車事故などでも、そう言ったが最後、あとで言い逃れは効かなくなり、負担は全て最初に謝罪した者にかかります。

ポルトガルに住み始めた当時は「嫌!」と意思表示するのが、まったく苦手でした。これ以上はもうどうもならん、がまんならんというところまで行って、「嫌だ!」と初めて意思表示ができたのは、夫の家族や親戚とポルトガルに住んで四年も過ぎてからです。

嫌いです、を「余り好きではありません」と自然に口から出てしまう自分は、いくら外国のことを少し知っているとカッコつけても、典型的な日本人であると悟ったものでした。「ごめんなさい」や、少ししんどいけど頑張ってニコッと笑顔をつくることが、人間関係の潤滑油になると、信じて疑わなかったのですから。

もちろん、それが功を奏すこともありますが、肝心な問題点に来たときは、それではダメなのだ、少しも解決にはならないのだと数年もしてから理解しました。

今ならさしづめ、ブログに書いたりツィッターで呟いたりして鬱憤を晴らすことができるでしょうが、当時はパソコンなどなし。
国際電話も一年に一度するかしないかで、せいぜい手紙を親兄弟、友人たちにせっせと送るが関の山。 それでも手紙に愚痴は一言も書けませんでした。愚痴を書き始めても、それを読み返すうちに自分がその時の哀しい気持ち以上に惨めになるのです。

我が亡き母も愚痴をこぼさない、人の悪口を言わない人でしたから、そういうことを文字に表すのをわたしもよしとしませんでした。わたしのポルトでの最初の6年間の苦難を知る人は、ですから、夫を除いては誰もいません(笑)

自分の意見をはっきり表示するということは、そこにいる人たちがその習慣を身につけている場では、自分も非常にスッキリします。相手の考えていることも明確にわかりますし。そういう場でユーモアを使って相手をギャフンとやり込めることができればもう文句なしです。

わたしは日本人同士の間では、やはり日本人としての美徳を失わないようにしたいと思いますが、ポルトガル社会でとなると、少しはきつくならなければならないのかな?と思ったりします。

ただ、これをそのまま調子に乗って日本人社会に持ち込むとなると、今度は逆に摩擦が起こるわけです。

こういうことを経験を通して少し学んだもので、日本の政治家には国際社会に出たときに、国際マナーと言うか、国益にのっとった立場で議論が広げられるノーハウ、テクニックを学び、国内国外でのマナーのTPOを身につけてもらって、それを使いわけられたらいいのではないのかなぁ、などと思うのですが。

近年は安倍首相が日本人トップとして、なかなかに旨く国際社会で渡り合っているように見えます。それなのに国内のメディアの安倍叩きは安倍憎しの一筋で酷いものです。安倍首相の政策全てに同意するわけでは
ありませんが、国難ともいえる今、海外のトップと互角で談話できる日本人が誰かいますかいな?

「うるさいから、しつこいから、ま、この辺で謝っておきましょう、手を打っておきましょう。」などの安易な謝罪は、従軍慰安婦問題の根拠とされる河野談話でも見られるように、そのときは一旦治まったかのように見えても、国際社会では必ず後で大きなしっぺ返しとなって、こちらに撥ね返ってきます。

「しつこい」も言い様では、「粘り強い」になります。これも日本には身につけて欲しい点です。隣国たちのように巧みなロビー活動までできないとしても、国の威厳に関わることは、理論と証拠を示してエレガントに堂々と、しつこく打ち出して欲しいと思います。

今回トップに掲げた世界地図ですが、これを見て気づいたことがありますか?
実はこの地図、韓国のピョンチャンで行われる2018年の冬季オリンピック公式サイトに掲載されていたもので、日本列島が消えているのです。

韓国側は担当者の間違いで政治的意図はないと弁明していますが、地球上の普通あまり知られていない小さな国や新しく独立した国だと言うなら話は分かりますが、(それでも主催国としては失格です)日本は隣の国です。それが抜けるわけがなく確信犯に間違いないでしょう。これが逆に、日本が彼の国の消えている地図を載っけたら、どんな罵りを受けることか。

今回は発見後すぐ政府が是正要求して修正されましたが、慰安婦問題や南京問題、軍艦島問題もこんな風に国が「違うぞ、出されてる証拠に偽りがあるぞ」と反論の一つもしなかったことが、今日これらの問題をこじらせてしまった原因のひとつだとわたしは思っています。

その場しのぎのいい加減な謝罪や誤魔化しが後で大きなツケになって返ってくるのです。政府が反論しないことに、いつもイライラしているわたしであります。

なんではっきり「ここにこうして証拠書類がありますねんで。これらの証拠写真とされるものは全て捏造なんでっせ」と突きつけへんねん!歯がゆいったらありゃしません。

なんや、段々腹立ってきましたんで、今日はこの辺で。
ほな、また明日。


日本語教室新学期始まります!

2017-09-26 10:21:41 | 日本語教室
2017年9月26日
 
行きが4時半起きのリスボン経由、帰りが午後1時発で同じくリスボン経由のローマ旅行でしたが、帰りは約1時間遅れのローマ出発で、慌てました。

リスボンからポルトへの便乗り換え時間が1時間半足らずです、順調に行けば問題ないものの1時間遅れの出発は、もうあかんではないの。こんなこともあろうかと、順調なら夕方6じにはポルト到着で必要ない外ネコ内ネコの食事の世話を、お掃除のおばさんには到着日の晩御飯も頼んであったのでした。

で、結果はと言いますと、リスボンにはポルト行き出発20分前に到着、ゲートを出たところでラストコールを聞き、駆け出しましたぞ。荷物がバッグだけだったから出来たものの、この歳で走らせられるのは勘弁してよ^^;

リスボン空港が小さかったのも今回はよかった、と言うことで、無事搭乗することができましたが、預けた荷物は勿論翌日配達になりました。たった5日間でしたがやたら疲れた今回のローマ旅行でした。

実を言うと、いつもなら旅行先にスマホを携帯し、フェイスブックやインスタグラムに、「ローマ、なう!」とか「コロッセウム、なう!」なぁんて写真の投稿をするのですが、出かける前に我がスマホ、2度目の画面真っ黒の故障と相成り、残念ながらその楽しみを奪われてしまいました。

が、考えてみれば、パソコン、スマホ、テレビ(ホテルのテレビは全てイタリア語吹き替えだったので全く見なかった)の液晶画面から目が開放され、ひたすらローマの街を歩き回り、ゆったりの夕食後、寝るという原始的な生活こそ、休暇というのかも知れません。

やたら疲れたのは旅行のせいではなく、疲労回復に時間を要するようになった己の年齢でござんしょか(笑)ローマ旅行については、おいおい綴って参ります。

さて、これで我が夏休みは終わり、ローマから帰宅するなりメール処理に追われ、昨日から日本語教室中心の通常の生活が再開しました。

今回はマンネリ化した日本語指導をなんとか脱皮してみたいと授業の進め方を変えるため、準備に時間がかかっていますが、生徒たちが「おろ?」と喜んで飛びついて来てくれることを願いながら、自分が楽しんでいたりします。

いざ、参りますわよ!

東京息子の誕生日

2017-09-25 16:16:03 | 家族の話

2017年9月25日
 
我がモイケル娘は18才で、東京息子とわたしが呼ぶ息子は27才で我が祖国日本へ送り出しました。もちろん子どもたちが自分で決めてのことです。

モイケル娘が大学を卒業し、東京の企業に就職するに当たり、息子も東京麻布のアメリカ系語学学校の職を見つけ、兄妹二人での同居生活が始まったころの日記にこう書いています。

3月11日(水) あんたはえらい!
南行徳に居を構えた二人の兄妹、昨日やっとネット接続ができました。

引っ越してちょうど一週間になります。まだ、アパートはすっかり落ち着いたところまで行かないでしょうが、なんとなく人が住む部屋らしくなってきたことでしょう。

さて、息子が早速メッセンジャーで言うことにゃ、今日、周囲の人たちに笑われたのだと言う。
なんで?と期待満々の心で聞く母(笑)

一人で布団を買いに行った。宅配してもらうとお金をとられるので自分で運ぶことにしたのだそうだ。
息子が電車に運び込んだその荷物とは、「マットレス、敷布団、掛け布団、毛布、それに枕」
・・・・・・・・・・お、おい@@、お前、それを全部持って歩いたんか~(爆)

しかし、考えてみれば、大してお金を持っていない身分の息子、ちょっと頑張ればできるようなことなのだから、重いだのカッコ悪いだので払うのは無駄なお金だとして、できるだけ使いたくないのだろう。

今時、日本ではそんな大きな荷物を持って町を歩く輩はおらんわい。周囲が見て笑うのもごもっとも!と思いながらも、大都会でイナカッペ丸出しの息子の話を聞いてわたしはなんだか楽しくなった。

息子よ、あんたはえらい!周りがどうのこうのというより、迷惑をかけないのであれば、そういう範囲内であるならば大いに自分の主義を通してください。

息子のこんな話を聞きながら、晴れて日本の大学生となり、日本で一人暮らしを始めた頃のモイケル娘の愉快な話をも思い出さずにはいられなかった。最近、この手のズッコケ話を彼女から聞かなくなったから、少しは日本社会に染まってきたのかしら。


赤ん坊の頃の東京息子
ついでにおっかさんと一緒の写真も。わっかかったぁ。この頃はわたしが心密かに「3ばば殿」と呼んでいた夫の母、その母の姉妹二人と同居の時代でした。すったもんだのこの6年間の同居生活が今のわたしを作ったと、感謝するこの頃でもあります。



ジョン・ボーイと呼ばれていた少年期。衣服はほとんど手作りでした。

15才の誕生日にエレキギターを贈ったのが親の運のつき(笑)。すっかり音楽にはまってしまいましたとさ。

リスボン時代の息子のアパートスタジオ。

今では麻生の語学学校での仕事はパートにまわし、日中は四方の大学での英語講師の仕事を増やし、「とうとう月から金まで働く羽目になった」と嘆く息子の話を聞き、夫曰く「Dente de juizo(知恵の歯、息子に関しては「分別の歯」とわたしは訳すのだがw)が、やっと生えて来たようだ。」

一応合せてはいるが、日本社会との摩擦は結構あるようで、天真爛漫、天衣無縫の彼の季節が遅まきながら終わる時期にさしかかったのだろうと思っています。

渡日してからの息子。

働きながら好きな音楽作曲をし、時には新宿あたりでコンサートをしたりしていた東京生活初期の頃。

下は天衣無縫な息子の性格がよく表れていて、わたしが大好きな写真の一枚。夫の友人の娘さんの誕生日でわたしたちが招待され、カメラマンがいざ記念撮影をとシャッターを押した瞬間の息子と母親の一場面なのです。おとなしくカメラマンの前で並んでいた他の子供たちも息子の一瞬の行動に思わず口を開けて驚いたり笑ったり。

 
ちょいまち!(爆)


息子よ、今日はこの言葉を贈ります。「失敗のない人生こそ失敗である」

誕生日、おめでとう。

ローマ:スペイン広場

2017-09-22 14:02:41 | 旅行
2017年9月22日 

ハプニングがあったローマ旅行ですが、それは後日にあげるとして、まずは「ローマの休日」から。

ローマ

幾度この映画を見返したことだろうか。オードリー・ヘップバーンがアカデミー主演女優賞を獲得した「ローマの休日」。後に「To Kill a Mockingbird(邦題はアラバマ物語)」でアカデミー主演男優賞を得ることになるグレゴリー・ペックが共演していますが、彼にとっては活動をヨーロッパに移していた不遇の時代の映画です。

「ローマの休日」は大人のお伽噺ですが、わたしの世代なら誰もが知っているだろう、当時一世を風靡した短髪のヘップバーンカット、わたしもしたのでありました。

トップの写真は、ローマ散策中にわたしたちが入った「ジェラート屋(アイスクリーム屋)」に貼られていたポスターで、連日の公式スケジュールにうんざりして宿泊先のローマの宮殿をこっそり抜け出した姫が、ジェラートを食べながらスペイン広場の階段を下りるシーンです。

下がわたしが撮影したその同じ広場で、たくさんのツーリストが座っています。
ローマ

全容は写っていませんが、手前にあるのはバルカッチャの噴水。ベルニーニ親子の作品で、昔テヴェレ川が氾濫した時に、ここまで一艘の船が流れてきたという話に基づいているのだそうです。

ローマ

↑そして、思わず「ローマの休日」の1シーンを思い返せずにおれない街角のスクーター。今でも街中をたくさんのスクーターが走っているのは意外でした。

ローマ
Wikiより

そうしてみると、スクーターが出てくるもうひとつの映画に「恋愛専科(Lovers must learn)」があります。出演はトロイ・ドナヒューとスザンナ・プレシェットですが、挿入歌「Al Di La(アルディラ)」はサンレモ音楽祭で優勝した曲、特にEmillio Pericoli(エミリオ・ペリコーリ)が歌うレストランでのシーンは最高でした。1960年代初期の映画で、15、6歳のわたしは恋愛に憧れた頃の映画でした。

古いイタリア映画には鉄道員、自転車泥棒、道、ひまわり等名作がたくさんありますが1990年代以降も「ニュー・シネマ・パラダイス」「ライフ・イズ・ビューティフル」「マレーナ」など、しみじみと人生を感じさせる名作があります。

ローマは今でもそのまま古いイタリア映画を目にするような不思議な魅力がある街だなぁと思いながら歩いて来たのでした。

「アルディラ」はこちらで聴けます。https://www.youtube.com/watch?v=lRj5kZxYdyw

本日はこれにて。