ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

邯鄲(かんたん)の夢と昔日巡礼2

2018-08-31 17:59:01 | 思い出のエッセイ
2018年8月31日


右足かかとに一文字の傷痕がある。
小学校に上がって間もない頃であろうか、さだかではないのだが、叔父に自転車に乗せてもらって起こった事故の傷痕だ。

子供の頃は、当事、新町(あらまち)と呼ばれていた弘前の下町の祖母の家に住んでいた。祖母を孫のわたしたちは「あばちゃ(おばあちゃん)」と呼んでいたが、わたしは祖母の初孫である。

わたしが中学に上がるくらいまで、盛岡で競馬騎手をしていた父は家にいることがなかった。わたしたち母子はその祖母の家に同居していたのである。9人兄弟だった母の長兄はすでに戦死しており、母の弟の一人と妹一人は結婚して別に所帯を構えていた。物心ついた頃には、母の未婚の弟が3人、結婚して家族ぐるみで同居していたのがわたしたち親子3人のほかに叔父と叔母の二家族がおり、頭数を数えれば一つ屋根の下に14人という大所帯だった。

子供の数は一番年上のわたしを筆頭に妹、他に従弟が3人で計5人。同居人14人のうち男が9人もおり、そんな環境で育ったわたしが、しとやかになるはずもなかった。が、それは町内での話であって、実を言えば、わたしは「究極の内弁慶」であった。このことは下記にて綴ってある。

綴り方教室」 

にぎやかな暮らしのある日、なんの拍子でか覚えていないが、叔父の自転車の後ろに乗り、新町坂(あらまちさか)をおりていた時に、子供のわたしは右かかとを車輪に取られてしまったらしい。


新町坂と言うのはS字型で急勾配の長い坂である。城のある上町(うわまち)と低地帯の下町を結ぶ坂のひとつだが、坂の降り口から見る岩木山の姿は実に美しい。そして、坂を下りきるとその山がグンと近づいて見えるのである。




その坂道を3年前に昔を辿って妹と訪れてきた。今はアスファルトに舗装されフェンスがあるが、わたしが子供のころは土坂でフェンスなしだ。冬は大きな荷橇(にぞり)に数人で乗り込み、みんなで奇声をあげながら、この坂を何度も滑ってはS字のカーブでひっくり返り、大いにスリルを楽しんだものだ。もちろん、先頭でそりの手綱を取るのはわたしである。
 

坂の中腹にある樹齢300年の「サイカチ」の樹。こんな樹があったのを覚えていない。

さて、パックリ開いたかかとの傷口は、今なら縫うのであろうが当時はそれをしなかったらしく、その怪我で痛さと歩けないのとで、近所の子供たちを集めては「ガキ大将」さながらに、活動的であったわたしは、さぞかし、苦労したであろう。

「であろう」と言うのは、この後に起こった「ターザン事件」の痛みのインパクトが強く、この時のかかとの痛みを覚えておりませんのです^^; かかとの怪我で強烈に記憶に残っているのは、物心ついて始めてしった「寂しさ」である。

ぐじゅぐじゅぐと治らないかかとの傷を湯治で治してやろうと「タマあばちゃ」は思ったらしい。わたしを連れて田舎バスに揺られ、行ったのが岩木山ふもとにある嶽温泉の湯治宿だった。わたしと妹夫婦は、岩木山神社(いわきやまじんじゃ)へ詣でる途中で、祖母を偲び昔日を偲び、その宿を訪ねてみることにした。



ところがである。60年も昔のことで嶽温泉はすっかり様変わりしており、記憶もおぼろのわたしには、数軒ある宿のどれなのか、わかるはずもなかった。この湯治のことをかすかに覚えていた妹と、あれかこれかと話しながら、ここかあそこか?である。



建物はすっかり改築されているが、3階の表廊下の木の部分が、やたら古めかしく見えるが、この3軒の他にも古い宿はあるので、手がかりなしだ。


湯治に行った先で、祖母は、日中、山菜採りに山に入るので、その間、わたしは宿に一人残された。
部屋に押入れがなかったのであろう、畳んだ布団が部屋の隅に寄せられていた。テレビなどない時代だ。大家族の中で、また勤めに出て大人たちがいなくなったとしても、妹や従弟たちが常に周りにいる生活が普段である。突如、一人で過ごすことになってしまったわたしは、心細さに日がな一日、隅に寄せられた布団にしがみついて泣いていた。

昔の造りで襖ひとつで仕切られた部屋である。隣に逗留していたお年より夫婦が声をかけてくれ、飴玉やらを差し伸べるのだが、わたしはそれももらわず、祖母が帰るまでシュンシュンと泣いていたのであった。旅館の名前も場所も記憶していないのに、隅に畳まれた布団のある安宿の部屋の光景は今でも妙に覚えている。

わたしが温泉嫌いなのには、子供のころのこの寂しかった思い出が関わっているのかも知れない。

今、こうして自分の子どもの頃を辿っているわたしは、まだ邯鄲の夢の中であろうか。夢を見ている私の横で栗粥が炊きあがろうとしている様子を想像するのは、夢のまた夢の中のことであろうか。



邯鄲(かんたん)の夢と昔日巡礼

2018-08-30 09:29:51 | 思い出のエッセイ
2018年8月30日 

2300年ほど前の中国戦国時代、盧生(ろせい)と言う青年が、人生の迷いを晴らしたいがため、楚の国、羊蹄山の聖者に会わんと遥か旅をして、趙(ちょう)の国の都、邯鄲(かんたん)に宿を求める。 宿のおかみが出してくれた枕で昼寝をするうちに、盧生は出世し、その内、冤罪で投獄され、疑いが晴れ、やがて栄華を極め、楚の帝となる。子にも恵まれ、50年を過ごし、ついに年老いて死を迎える夢を見る。

覚めてみると、寝る前に仕掛けられた宿の粟粥が、まだやっと炊きあがろうとしているところだった。盧生は、人生は束の間の夢だと悟り、故郷へ帰っていく。

これは中国の故事のひとつで、「邯鄲の枕」とも呼ばれ、日本では能の演目のひとつとされる。故事では宿のおかみが、仙人になっている。ちなみに「邯鄲」は小さいコオロギをも意味し、中国では「天鈴」と呼ぶと言う。

この話を知ったのは数年前の、とある本でだが、わたしはその時この歌を思い浮かべたのだった。

Row, row, row your boat,
Gently down the stream.
Merrily, merrily, merrily, merrily,
Life is but a dream.

英語を習い始めて、誰もが耳にする子供の歌だが、これはメタファー(隠喩)だと考えたのは大人になってずっと後である。 Boatはわたしたちの人生を指し、 Streamはわたしたちが逆らうことのできない時間の流れである。最後の「Life is but a dream」は他の説もあるが、わたしは「人生は束の間の夢のように短いものなのだ」と訳している。

上述の盧生が、人生は束の間だと悟り帰郷したのをなるほどと頷けるのは、わたしも少しは物事の分別ができる齢になったからであろう。盧生のように人生を悟り、故郷へ戻ると言うのは、若い者には似合うまい。人生に迷いあり、夢あってこそ若さだと言えよう。故事に異を唱えるつもりは決してないが、若いうちに人生を悟ってしまうのは面白くないような気がする。

と、こんな長い前書きと故事まで引き出して何を言いたいかと言うと、若いときに悟ることはできなかったが、人生とは?と自問して生きてきた後の楽しみのようなものがわたしにはあったりする。今日はそれを書いてみたい。

わたしは時折、記憶を辿って昭和の子供時代をブログに綴ったりしているが、それは今日まで前を前をと、なりふり構わずやって来たから、あちこちに置き忘れて来たものを、今になって、懐かしく振り返り、記憶の糸を探って手にって眺めてみたい気持ちになったりする。

この春日本へ帰国した際、2年ぶりに妹夫婦と車で東北自動車道路を走って故郷弘前へ向かった。片道8、9時間の旅だ。義弟も弘前出身である。故郷を後にして半世紀が経とうとするが、その間、わたしが訪れたのは数えるほどで、それもここ、数年のことである。36年近くも故郷にまともに足を踏み入れることがなかったのだった。

9人兄弟だった母の兄弟もみな鬼籍に入り、いとこたちとの交流も途絶えてしまった今となっては、帰郷したところで、たいした親戚はいないわけだが、実は、高校時代の同窓生に会えるという大きな楽しみがある。今回も、久しぶりに帰郷したわたしのために、恩師を始め10人ほどが集まってくれたのだが、この話は後に回して、と。



弘前の町のどこからでも望まられる美しい故郷の山、岩木山、次回は岩木山にまつわる、我が昔日を記してみたい。

アリとキリギリス 

2018-08-25 20:45:02 | 家族の話
2018年8月25日 
 
息子がまだリスボンに住んでいた頃のことで、かれこれ10年ほど前になる。
普段はメッセンジャーに上がってくると午後でも「ohayo」と向こうから声がかかり、「hoihoi」の母親の返事で始まるわたしたち親子の会話は、お互い今日も元気なのを確認するだけのようなもので、ほとんど長話にはならない。

それがある日、多分お互いに夏休みだということもあったのだろう、彼の好きな音楽作曲の話から人生論じみた会話に発展。息子がその頃したいことや、わたしの当時の職場についての話、これから先のわたしの人生計画にも話が及んだ。

「人生計画ってspacesisさん、そろそろ墓場にそろ~りと片方の足くらいは入りそうな歳になるのでは?」と、口さがない人には言われそうだが、私自身はいい気なもので、人生はまだこれからだと思っている。

わたしの第一の人生は、ほろ苦い思い出が多かったポルトガルに来るまでの時代。これは、時折思い出してはエッセイに綴っている。第二の人生は、ポルトガルでの子育て時代とその頃に及ぶ土曜日の補習校の職場時代。そして、第三がこれまで自分が思って見なかった方向にひょっとすると展開するかも知れないこれからの人生。

第三の人生は、その後補習校を退職し、1年をかけてコーディネーターをしたポルト市と国際親善協会共催の2010年、Japan Weekの大仕事、現在携わっている日本語の先生と日本文化紹介のボランティア展示会や子供向けに影絵を作成して上映することにつながったている。

息子はと言えば、せっかく終えた大学のITコースを活かす就職は望んでいないようだ。大学時代の3途中で音楽を云々と言い始めたときは、趣味として続けるのは大いによしとするが、職業とするのは止めてくれと、音楽の道に行くことに賛成した夫とは違い、わたしは反対したのである。

アーティストとしての道を極められるのは、運と真の才能に恵まれたホンの一握りの人たちである。趣味で音楽をしながら一生生活できるほどの財産をわたしたち夫婦はとても子どもに残してはやれない。道は子供達が切り開かなければならないのだ。どうしても諦め切れない場合はいずれその道に入るであろう。その時こそ、誰に遠慮なく音楽の道を選べばいい。回り道になってもそれが本物である。と本人には言わなかったが。

その1年、息子はリスボンで週三回の中学校の非常勤講師をしながら生活費を稼ぎ、他の時間は音楽に費やしてきた。生活はギリギリであるが、それでもエンジョイしているとは本人の言。定職を望まない彼の将来は、少し不安定ではあるが、今しかできないことを楽しんでいたようだ。

イソップの話にある「アリとキリギリス」はあまりにも有名で、今更披露する必要もないのだが。

夏の季節を歌って遊び暮らすキリギリスとは対照的に、暑い日差しを受けながら汗を流して冬の準備にせっせといそしむアリ。それを見て笑うギリギリスではあるが、やがて冬が到来し、食べ物もなく寒さに凍える日々に、思わずアリの家のドアを叩く。今度はアリが笑う日だ。

この教訓話にはなるほどとうなずかされるのだが、わたしはもうひとつの「アリとキリギリス」を知っている。

もう40年以上も昔に、当時知り合った夫から贈られた原語でのサマーセット・モーム短編集に収められている「アリとキリギリス=The Ant and the Grasshopper」だ。

先のことに思い巡らし定職に就きせっせと働きいて貯蓄に精出している兄と、それとは全く逆にろくに仕事にも就かずその日その日を遊び暮らしている弟の兄弟がいる。時々呼び出されては弟に金を無心される兄、その都度将来のことを考えろ、もっとまじめな生活をしろと説教を垂れる。兄はこの弟を心のどこかで見下げている。

ある日、呼び出され「ふん、またか」の気持ちで待ち合わせ場所に出向く。弟の話は金の無心ではなくて、先ごろ大金持ちの未亡人と結婚したのだが、その年上の妻が亡くなり莫大な遺産が転がり込んだということである。

この時の兄の「I´ts not fair!」の悔し紛れの叫びが分からないこともないが、わたしは、「へぇ~。でも人生って案外こんなものかも知れない。」と納得いったようないかなかったような、そんな読後感をもったものだ。

ポルトガルに来てから40年、もちろんわたしは遊び暮らしてきたわけではないが、先を考えて貯めたいにも貯めようがない状態でずっと今日まで来ている。子供達の教育費には分不相応にかけたので、金額にすればひと財産にはなるであろう。
老後、何が一番必要かと言えばやはり金だ、と言ってはばからない人は周囲に結構いる。夫は別だが、どこからも年金の入ってこようがないわたしは、この言葉を耳にするとうなだれるばかりだ。かと言って今更慌てて貯めようにも、70を過ぎてでは仕事をしているものの、大して貯めようがない。
そして、お金は確かに必要だが、「一番」という言葉に心のどこかで反撥を感じる時分がいる。

TEFLEコース(英語教師)を取るので英文学の本を少し読みたいという息子に、「昔パパからもらった記念の本だから返してね」と貸した上述のモームの本だった。息子も「アリとキリギリス」を覚えていて、
「パパがいるから、少しは大丈夫」と言うわたしの言葉に、
「ボクもそうだけどママもキリギリスタイプだね。」と息子に言われた。
そして「パパは典型的なアリタイプだ」と彼は付け加えた。

その通りです、息子よ。
しかし、人生はunfair(アンフェア=不公平)なことの方がfair よりも遙かに多いのだ。それに、アリとアリの夫婦なんて、しんどいかもよ。キリギリスとキリギリスもこりゃ大変だ。
アリとキリギリス、これでなんとか帳尻が合うというものではないか。

冬が到来したら夫と言うアリのドアを叩く、わたしはキリギリスです。そして、このギリギリスはまだ人生の晩夏を謳歌しようと目論んでいる。

ポルトのボルサ宮に将軍家葵の紋!?

2018-08-24 16:14:55 | ポルト
2018年8月24日

これまでに何度か訪問したボルサ宮(Palácio da Bolsa)ですが、2014年から2015年に渡り、入り口に面した「ナショナル・パテオ(Pátio das Nações)」の壁画修復が始められたところ、一つの紋章の下から別の紋章が現れ、それが「日本の紋章」だとのニュースが流れました。

ニュースのその年1月に、わたしは雑誌記事取材のためにボルサ宮を訪れたのですが、「日本の紋章」が現れたのはその後の3月のようで、残念ながらその時は知らなかったわけです。

それがこの度、精密なレプリカが公開されたというので記事を読んでみると、なんと日本の紋章とは「葵の紋」のこと。


Wikiより

ポルトガル人の手によるものゆえ、デザインが多少違うような気がしますが、この紋章がなぜポルトの旧証券取引所のボルサ宮にあるのかという謎にぶつかります。

ボルサ宮の詳細については既に書いてありますので、後記で案内しますが、1842年に施工、完成まで70年近くを要しています。皇室の紋章である十六菊花紋でなく、葵の紋章があるということは、徳川時代にポルトと何らかの関わりがあったことになります。

ボルサ宮は完成まで70年を費やしたのですから、その間の歴史を調べてみました。

実はボルサ宮の葵の紋章ですが、昨日のクリスタル宮殿公園とかかわりがあったのです。

1851年の第一回ロンドン万博へ出かけたポルトのブルジョアたちや旧証券取引所関係者たちが、会場として建設されたクリスタル宮殿の素晴らしさ圧倒され、ポルトにも是非とそれを模倣して建設し、1865年にはそこでポルト国際博覧会が開催されました。

その際、欧米諸国に加え日本も参加しているのを知り、へぇ~と思ったのですが、クリスタル宮殿に目が行っていたもので、日本の参加については調べることもせずそのままになっていました。

1865年といえば、大政奉還がなされ徳川幕府の時代が終わる2年前です。ペリーの黒船来航により日本が開国して後の1860年に日本ポルトガル間では日葡和親条約と日葡修好通商条約が結ばれ、215年ぶりに通商が再開されています。

ボルサ宮のナショナル・パテオの上部にの壁に描かれてあるのは、当時、ポルトと深い関わりがあった国々の紋章だといわれ、件のポルト国際博覧会には、1962年に幕府が初めて欧州へ送った文久遣欧使節団が訪れたようです。

さすればこの使節団は福澤諭吉も含む38名となっていますから、大規模な使節団として、羽織、袴、まげを結った一行の姿は人々の記憶に残ったことでしょう。これで、とりあえずボルサ宮にある徳川家葵の紋の謎は一通り解けたと言えます。

それにしても、奇遇が重なり面白い謎解きができたものです。そして、今から150年ほど昔に自分が住むポルトに福澤諭吉達に日本の大使節団がしばし足を停めていたと思うと、静かな感慨が湧いてくるのであります。いやぁ、これだから歴史は面白い!

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。お時間あらば、ランキングクリックをしていただけると嬉しいです。

下記、ボルサ宮関連の過去拙ブログ記事です。クリックしてどぞ。

・「ボルサ宮1
・「ボルサ宮2
・「ボルサ宮:エッフェルの部屋
・「ボルサ宮:アラブの間
・「長崎ポルト姉妹都市30周年記念・ポルトぶらぶら歩き

宮殿がないのにクリスタル宮殿公園とはいかに?

2018-08-24 02:39:21 | ポルト
2018年8月23日

1851年のロンドン万国博覧会を訪れたポルトのブルジョアたちは、パビリオンとなったロンドンクリスタル宮殿の素晴らしさに感銘し、ポルトでもそれを建築しようとの計画で生まれたのがポルト・クリスタル宮殿協会です。

こうして、当時 Campo da Torre da Marca」と呼ばれていた現在のクリスタル宮殿公園にロンドン万博の宮殿を模倣して造られたのがポルトのクリスタル宮殿でした↓


Wikiより    
     
建築家はイギリス人のThomas Dillen Jones. 1865年にはこの宮殿でポルト国際博覧会が催され、ドン・ルイス王により開会式がなされました。


Wikiより

展覧会には、フランス、イギリス、ベルギー、ブラジル、スペイン、デンマーク、ロシア、オランダ、トルコ、アメリカに加え、日本も参加したと言われます。



しかし、残念なこと1952年の「ローラーホッケー・ワールドカップの会場にするため、1951年に宮殿は解体され、その址に建てられたのが、スポーツパビリオン、つまり現在のローザ・モタ・パビリオンです。



クリスタル宮殿の中央のドームがパビリオンの天井に取り入れられ、往時の宮殿をかろうじて偲ばせ、現在は公園にクリスタル宮殿とその名残をとどめているのです。

して見れば、1851年の第一回万博会場となったロンドンのクリスタル宮殿も博覧会終了後、取り壊しを惜しむ声が上がり、ロンドン郊外のシデナムに移設され、後、庭園、コンサートホール、博物館などが併合した複合施設として活躍したそうですが、19367年に焼失。現在はクリスタル・パレス駅として、名前が残っています。


ロンドンのクリスタルパレス。Wikiより

ポルトのクリスタル宮殿は規模的にこれに及ばないものの、ロンドンのように、取り壊しではなくてどこかに移設してほしかったなぁと、思うのでした。