ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

南国土佐を後にして

2019-05-03 19:50:08 | 思い出のエッセイ
2019年5月3日

桜の花咲く季節になると、わたしには台所に立ちながらふと口をついて出てくる歌が二つある。ひとつはひばりさんの「柔」だ。

「勝つと思うな思えば負けよ 負けてもともと」
「奥に生きてる柔の夢が一生一度を待っている」
「口で言うより手の方が速い馬鹿を相手の時じゃない」
「往くも止まるも座るも臥すも 柔一筋夜が明ける」

この歌には人生の知恵と哲学が凝固されているとわたしには思われる。だから、食事を作りながら小節(こぶし)をきかしてこの歌を唸ると、わたしはとても元気になるのだ。演歌そのものは、わたしはあまり好きではないのだが、この歌は別である。

「柔」と歌う部分を、心の中で「自分の夢」に置き換えてみる、苦境に立ったときも、起き上がり頭(こうべ)を上げて、また歩き出せる気がするのだ。この歌にわたしは何度も勇気付けられて来たように思う。

もうひとつは、「南国土佐を後にして」

♪南国土佐を後にして 都へ来てから幾年ぞ

で始まるこの歌は、昭和34年にペギー葉山が歌って大ヒットした。日中戦争で中国に渡った第236連隊には高知県出身者が多く、この部隊が歌っていた「南国節」をヒントに創られた歌だと聞く。

わたしの故郷は桜まつりで有名な弘前である。それが何ゆえ「南国土佐」なのかと言えば、その桜まつりに関連する。

わたしが子供のころ、「桜まつり」等とは呼ばず、「観桜会」と言ったものである。夏のねぶたまつりと並んで、観桜会や夏のねぶた祭りには、雪国の長い冬を忍んで越した津軽の人々の熱き血潮がほとばしるのだ。

弘前公園内は3千本もの桜の花咲き乱れ、出店が立ち並び、木下サーカスやオートバイサーカスが毎年やって来ては、大きなテントを張った。「親の因果が子にむくい~」の奇怪な呼び込みで、子供心に好奇心と恐怖心を煽った異様な見世物が不気味であった。お化け屋敷もお目見えし演芸場が組み立てられ、そこからは園内に津軽三味線のじょんがら節だのよされ節だのが流れた。

わたしが12、3のころ、その年の観桜会でNHK「素人のど自慢大会」の公開番組があり、わたしは生まれて初めて往復葉書なるものを買い、こののど自慢大会出場参加に応募したと記憶している。

どんな服装で出場したかはもう覚えていない。外出用の服など持っていなかった子ども時代だったから、想像はつく。
きっとあの頃いつもそうであったように、両膝っこぞうの出た黒っぽいズボンであろうw。今にしてみれば黒っぽいものをよく着せられたのは、黒は汚れが目立たないからであろう。

そして歌ったのが「南国土佐を後にして」である。客席で見ていた母の話では、「出だしはとてもよかった。これはヒョットすると鐘三つかな」と期待したそうである。

ところがである。一人で歌う分にはいいのだが、生まれて始めて人前で歌ったわけですから、とても上がってました。
後半がいけませんです。伴奏より先走ってしまったのでありまして^^;「土佐の高知の播磨橋で」に入る手前で、鐘がなりますキンコンカンw いえ、二つが鳴りましたです。恥ずかしさにうつむいて退場する少女でありました。

わたしの声域は低い域そのもので、普通の女性歌手の歌は高音が出なくて歌えないのだが、ペギー葉山さんの音域は大丈夫。台所のベランダから外へ丸聞こえなのだが、誰に遠慮がいるものか~。よく台所でこの歌を歌いながら、さぁ、こい!今なら鐘三つもらうぞ!と、はた迷惑にも、つい力を込めて大きな声を張り上げてしまうのだった。夕方帰宅した夫がフラットのドアを開けるなり言う。「ドナ・ユーコ、外にまる聞こえだよ」

弘前公園の桜は18世紀の初期、津軽藩士が25本のカスミ桜の木を京都から取寄せて植えたのから始まるのだという。明治にはソメイヨシノが千本、更に千本植栽され、現在ではソメイヨシノを中心に、枝垂桜、八重桜の役50種類2500本の桜が春爛漫と公園に咲き誇る。

今年こそは秋に、正月に帰国しようと毎年思いながら、2月も終わり頃になると桜の花はと気もそぞろ、結局始終春の帰国にしてしまうのは、桜の国、弘前で生まれ育ったサガであろうか。

そして、帰るたびになぜか満開にはなってくれぬ。長い間、来てくれなかったのだし、まだまだ訪ねておいでまし。その最後には見事な姿を見せましょうぞ、とでも言っているように思われてならない。


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邯鄲(かんたん)の夢と昔日巡礼2

2018-08-31 17:59:01 | 思い出のエッセイ
2018年8月31日


右足かかとに一文字の傷痕がある。
小学校に上がって間もない頃であろうか、さだかではないのだが、叔父に自転車に乗せてもらって起こった事故の傷痕だ。

子供の頃は、当事、新町(あらまち)と呼ばれていた弘前の下町の祖母の家に住んでいた。祖母を孫のわたしたちは「あばちゃ(おばあちゃん)」と呼んでいたが、わたしは祖母の初孫である。

わたしが中学に上がるくらいまで、盛岡で競馬騎手をしていた父は家にいることがなかった。わたしたち母子はその祖母の家に同居していたのである。9人兄弟だった母の長兄はすでに戦死しており、母の弟の一人と妹一人は結婚して別に所帯を構えていた。物心ついた頃には、母の未婚の弟が3人、結婚して家族ぐるみで同居していたのがわたしたち親子3人のほかに叔父と叔母の二家族がおり、頭数を数えれば一つ屋根の下に14人という大所帯だった。

子供の数は一番年上のわたしを筆頭に妹、他に従弟が3人で計5人。同居人14人のうち男が9人もおり、そんな環境で育ったわたしが、しとやかになるはずもなかった。が、それは町内での話であって、実を言えば、わたしは「究極の内弁慶」であった。このことは下記にて綴ってある。

綴り方教室」 

にぎやかな暮らしのある日、なんの拍子でか覚えていないが、叔父の自転車の後ろに乗り、新町坂(あらまちさか)をおりていた時に、子供のわたしは右かかとを車輪に取られてしまったらしい。


新町坂と言うのはS字型で急勾配の長い坂である。城のある上町(うわまち)と低地帯の下町を結ぶ坂のひとつだが、坂の降り口から見る岩木山の姿は実に美しい。そして、坂を下りきるとその山がグンと近づいて見えるのである。




その坂道を3年前に昔を辿って妹と訪れてきた。今はアスファルトに舗装されフェンスがあるが、わたしが子供のころは土坂でフェンスなしだ。冬は大きな荷橇(にぞり)に数人で乗り込み、みんなで奇声をあげながら、この坂を何度も滑ってはS字のカーブでひっくり返り、大いにスリルを楽しんだものだ。もちろん、先頭でそりの手綱を取るのはわたしである。
 

坂の中腹にある樹齢300年の「サイカチ」の樹。こんな樹があったのを覚えていない。

さて、パックリ開いたかかとの傷口は、今なら縫うのであろうが当時はそれをしなかったらしく、その怪我で痛さと歩けないのとで、近所の子供たちを集めては「ガキ大将」さながらに、活動的であったわたしは、さぞかし、苦労したであろう。

「であろう」と言うのは、この後に起こった「ターザン事件」の痛みのインパクトが強く、この時のかかとの痛みを覚えておりませんのです^^; かかとの怪我で強烈に記憶に残っているのは、物心ついて始めてしった「寂しさ」である。

ぐじゅぐじゅぐと治らないかかとの傷を湯治で治してやろうと「タマあばちゃ」は思ったらしい。わたしを連れて田舎バスに揺られ、行ったのが岩木山ふもとにある嶽温泉の湯治宿だった。わたしと妹夫婦は、岩木山神社(いわきやまじんじゃ)へ詣でる途中で、祖母を偲び昔日を偲び、その宿を訪ねてみることにした。



ところがである。60年も昔のことで嶽温泉はすっかり様変わりしており、記憶もおぼろのわたしには、数軒ある宿のどれなのか、わかるはずもなかった。この湯治のことをかすかに覚えていた妹と、あれかこれかと話しながら、ここかあそこか?である。



建物はすっかり改築されているが、3階の表廊下の木の部分が、やたら古めかしく見えるが、この3軒の他にも古い宿はあるので、手がかりなしだ。


湯治に行った先で、祖母は、日中、山菜採りに山に入るので、その間、わたしは宿に一人残された。
部屋に押入れがなかったのであろう、畳んだ布団が部屋の隅に寄せられていた。テレビなどない時代だ。大家族の中で、また勤めに出て大人たちがいなくなったとしても、妹や従弟たちが常に周りにいる生活が普段である。突如、一人で過ごすことになってしまったわたしは、心細さに日がな一日、隅に寄せられた布団にしがみついて泣いていた。

昔の造りで襖ひとつで仕切られた部屋である。隣に逗留していたお年より夫婦が声をかけてくれ、飴玉やらを差し伸べるのだが、わたしはそれももらわず、祖母が帰るまでシュンシュンと泣いていたのであった。旅館の名前も場所も記憶していないのに、隅に畳まれた布団のある安宿の部屋の光景は今でも妙に覚えている。

わたしが温泉嫌いなのには、子供のころのこの寂しかった思い出が関わっているのかも知れない。

今、こうして自分の子どもの頃を辿っているわたしは、まだ邯鄲の夢の中であろうか。夢を見ている私の横で栗粥が炊きあがろうとしている様子を想像するのは、夢のまた夢の中のことであろうか。


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邯鄲(かんたん)の夢と昔日巡礼

2018-08-30 09:29:51 | 思い出のエッセイ
2018年8月30日 

2300年ほど前の中国戦国時代、盧生(ろせい)と言う青年が、人生の迷いを晴らしたいがため、楚の国、羊蹄山の聖者に会わんと遥か旅をして、趙(ちょう)の国の都、邯鄲(かんたん)に宿を求める。 宿のおかみが出してくれた枕で昼寝をするうちに、盧生は出世し、その内、冤罪で投獄され、疑いが晴れ、やがて栄華を極め、楚の帝となる。子にも恵まれ、50年を過ごし、ついに年老いて死を迎える夢を見る。

覚めてみると、寝る前に仕掛けられた宿の粟粥が、まだやっと炊きあがろうとしているところだった。盧生は、人生は束の間の夢だと悟り、故郷へ帰っていく。

これは中国の故事のひとつで、「邯鄲の枕」とも呼ばれ、日本では能の演目のひとつとされる。故事では宿のおかみが、仙人になっている。ちなみに「邯鄲」は小さいコオロギをも意味し、中国では「天鈴」と呼ぶと言う。

この話を知ったのは数年前の、とある本でだが、わたしはその時この歌を思い浮かべたのだった。

Row, row, row your boat,
Gently down the stream.
Merrily, merrily, merrily, merrily,
Life is but a dream.

英語を習い始めて、誰もが耳にする子供の歌だが、これはメタファー(隠喩)だと考えたのは大人になってずっと後である。 Boatはわたしたちの人生を指し、 Streamはわたしたちが逆らうことのできない時間の流れである。最後の「Life is but a dream」は他の説もあるが、わたしは「人生は束の間の夢のように短いものなのだ」と訳している。

上述の盧生が、人生は束の間だと悟り帰郷したのをなるほどと頷けるのは、わたしも少しは物事の分別ができる齢になったからであろう。盧生のように人生を悟り、故郷へ戻ると言うのは、若い者には似合うまい。人生に迷いあり、夢あってこそ若さだと言えよう。故事に異を唱えるつもりは決してないが、若いうちに人生を悟ってしまうのは面白くないような気がする。

と、こんな長い前書きと故事まで引き出して何を言いたいかと言うと、若いときに悟ることはできなかったが、人生とは?と自問して生きてきた後の楽しみのようなものがわたしにはあったりする。今日はそれを書いてみたい。

わたしは時折、記憶を辿って昭和の子供時代をブログに綴ったりしているが、それは今日まで前を前をと、なりふり構わずやって来たから、あちこちに置き忘れて来たものを、今になって、懐かしく振り返り、記憶の糸を探って手にって眺めてみたい気持ちになったりする。

この春日本へ帰国した際、2年ぶりに妹夫婦と車で東北自動車道路を走って故郷弘前へ向かった。片道8、9時間の旅だ。義弟も弘前出身である。故郷を後にして半世紀が経とうとするが、その間、わたしが訪れたのは数えるほどで、それもここ、数年のことである。36年近くも故郷にまともに足を踏み入れることがなかったのだった。

9人兄弟だった母の兄弟もみな鬼籍に入り、いとこたちとの交流も途絶えてしまった今となっては、帰郷したところで、たいした親戚はいないわけだが、実は、高校時代の同窓生に会えるという大きな楽しみがある。今回も、久しぶりに帰郷したわたしのために、恩師を始め10人ほどが集まってくれたのだが、この話は後に回して、と。



弘前の町のどこからでも望まられる美しい故郷の山、岩木山、次回は岩木山にまつわる、我が昔日を記してみたい。
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家族の肖像

2018-08-19 19:11:03 | 思い出のエッセイ
2018年8月19日

 
墓参はもちろんのこと、ご先祖の霊の迎え火送り火も容易にできないほどの遠国に住んでしまったわたしではあるが、8月は遠く過ぎ去った夏にひとりしきり思いをよせる時期である。

一昔ほど前に横浜の叔母がみまかったのを最後に、叔父叔母である我が母方の9人兄弟はみな鬼籍に入ってしまった。父は岩手県雫石の出身だったが、どうやら若い時から家族のもてあまし者だったようで、父の存命中もその親族とはほとんど行き来がなく、我が両親亡き後はそれっきりプッツリのままであるから、わたしの思い起こすお盆はいつも弘前である。

故郷を後にして長年大阪に住んだのだが、今思ってみれば誠に残念なことに盆とてわたしは一度も帰郷していなかった。田舎の土臭さ、線香の放つ古臭さに、言うなれば因習にあの頃のわたしは精一杯抗っていたのである。そのような因習に囚われずに、精神を自由に遊ばせて生きることは流浪の旅の中にあると本気で考え、そういうことに憧れていたものだった。

それにいくらか似たような若い時代を経て、やがて人並みに結婚し、二人の子育てもほぼ一通り終わったのだが、この間の異国での暮らしは、それまでのわたしをゆるく大きなうねりを描くように、人生の学習をせしめ、近年再び故郷に向かう心を取り戻させたような気がする。

「子を持って親の心を知る」と昔から言われるが、わたしは遅まきながらこの言葉を今噛み締め、祖母や母の心に、故郷に、思いを馳せるようになったのである。

次男坊だった父がその昔、彼を獣医にしたいという地主の父親の元を出奔したのは10代だと聞く。思春期には黙した態度で目一杯父に反抗し、弘前から大阪への家出を繰り返した13、14のわたしは、何のことはない、しっかりとこの父のDNAを引き継いでいるではないか^^;

それまで競馬騎手だった父が、その職を諦めるべき時期になり、盛岡から弘前に来て親子四人がともに暮らし始めて以来、わたしには長い間、両親の仲良い姿が記憶にないのであった。

南部生まれの競馬騎手だった父が異郷の地、津軽に生きるには難しかったこともあったろう、昭和30年代も半ば、その日食うのにも苦労する貧しい家庭は周囲にいくらでもあったし、父が無職がちだったわたしの家族もそうであった。その日食べるために、母はできうる限りのことはなんでもし、父はよく酔っては暴れていたものだ。

ある年の春、帰国した折に、横浜の叔母の遺品の中から出てきたと妹が持ち出してきた、わたしたちが見たこともない古い数枚の写真の中に、こんな一枚があった。





父と母の、恐らく40代前半の写真であろう。なんにしても、馬なりバイクなりと「乗る」のが好きな人であった。このバイクで、あんな時代に父はモトクロスまがいのことをしては周囲の眉をひそめさせていたのであろう。そう思うと、なぜか父の姿と重なる若いときの自分がちらちら見えてくる。

写真を撮ってあげるとおだてられて、「いごすじゃ。」(いいわよ、遠慮しとくわ、の意味)としり込みする母を無理やり乗っけでもしたのだろうか? 仲良く写っているではないか。

この写真一枚を見るにつけ、もしもわたしがあの頃、もう少し素直でかわいらしい心根をもった少女だったら、もう少し気の利く少女だったら、わたしたち家族の肖像は、もう少し違っていたのではなかったろうかと、わたしはこの歳になってふと思うことがある。

子どもに責任はないと言うけれど、過ぎ去った遠い昔の時間を取り戻すなど無理なことではあるが、あの頃に今の気持ちを持つわたしを置いてみたい、そして、家族4人が「あっはっは」と心から笑ってみたいとの見果てぬ夢を見る。

失って長い時間がたたないと見えてこないものが人生にはある。お盆はわたしにとって父母を偲ぶ懺悔の時期でもある。
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中川君のブロマイド

2018-07-23 15:57:34 | 思い出のエッセイ
2018年7月23日

自身はそれに染まりませんでしたが、20歳の頃の大阪京橋時代、まわりには上に素人と呼び名のつく、演出家、役者、シナリオライター、作家志望と、演劇関係の知り合いがたくさんいました。

そしてわたしはその中で、いつのまにか、これまた上にへんちくりんなものがついて「自由人yuちゃん」で呼ばれていたのです。どこが自由人か、と問いますと、常識の枠にとらわれないで行動するからだそ褒められているのか呆れられているのか、複雑なとこではありました。

わたしは素人劇団の何のお役目も担っていないのに、その仲間からはあちこちと引っ張りまわされ、出来上がったばかりのシナリオを読まされたり。団長はかつて「劇団四季」に籍を置いたことがあるという人で、彼らはサマセット・モームの作品のみ手がける劇団だったのですが、そのお芝居を観にいったりして、一応仲間に入っていました。

そんな役者仲間に、ただ一人、プロダクションには属していないものの、中川君という素人ではない役者(!)がおりまして、これが顔がデカイもので、現代劇より時代劇でよく映えるのですね。

案の定、彼は京都四条にある南座で、よく歌舞伎公演での役回りをしていたのでして。なに、役回りといってもハシッパの役(笑)

これが、ある日浮かぬ顔をして現れまして、
「舞台でドジッた。トップの役者さんにこってりしぼられてん」と情けない顔で言います。何をしたかと言いますと、出番寸前にどうにも我慢ができなくなってトイレに行った。そしたら、出番の合図が聞こえたので慌てて舞台に飛び出して行ったのだ。

出てしまってからハッと気がついたのが、足に履いてる「便所」と書いてあるスリッパ!(爆)
おまけに、手に持ってなきゃならないはずの十手をトイレに置いてきてしまって、「御用だ!御用だ! 」と突き出す手には、十手なし・・・周りの小役人の役を演じている人らの後ろに後ろにと隠れて誤魔化そうとしたが、そんなもん、ロケじゃあるまいし本番なんやから、どうやって誤魔化すのよ(笑)

これを聞いたときには、気の毒よりも大爆笑が起こってしまって、我らは抱腹絶倒。

役者さんの世界って、NGがたくさんあるでしょ?あれ、爆笑ものが多いですね。ただし、劇場での本番は、やり直しがきかない。困りますよね。

中川君によると、立派な役者さんも時には失敗するのだそうで、そういうときは、舞台が終わった後に、役者さんからはちゃんと陳謝として、全員に何がしかが配られるのだそうです(笑)

あれから40年ほども経つというのに、今思い出しても、「便所」と書かれたスリッパを履いて、「御用だ、御用だ!」と空の手を突き出し、にっちもさっちも行かなくなっている彼の姿を思い浮かべると、あっはっはと笑わずにはいられないわたしです。

中川君、どうしているでしょう^^中川君からもらったヅラをつけたサイン入りのブロマイド、どこへ行って
しまったかなぁ^^
コメント (2)
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