ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

「思い出の弘前・つばさ食堂」

2018-08-21 00:36:53 | ペット
2018年8月20日    

「いらっしゃいませ!」
ドアから入ってくる客に威勢良く声をかけ、客がきちんと席についたのを確認して、お冷とお絞りを載せた丸盆を両手に持って、注文を聞きに行く。
     
「はい、親子丼おひとつですね。かしこまりました。少々お待ちください。」
ちょいと伸び上がって調理場に顔を覗かせ、
「おやどんいっちょう~!」
「ホイキタ合点、おやどんいっちょう~~」とオヤジさんの返事が来る。 

中学3年のほぼ一年を叔父叔母宅で過ごした大阪から弘前に帰ったわたしは、中学3年3学期の高校受験ギリギリの時期に以前通った中学ではなく、別の中学へ転入し、無事高校入学ができた。入学して間もなく、昔、下町に祖母の家があった頃、大家族14人が一緒に住んでいたおじの一人、職業がよく知れないおじが、学費に困っていたわたしにアルバイトの口を持ってきてくれたのだ。 
     
中学3年生の女の子の家庭教師である。高校1年生が中学3年生にですよ(笑)しかも、毎夕方、国語、英語、算数、理科の4教科を見る口でありまして^^;国語英語はなんとかできたものの理数系はわたしはアカンのですってば。
     
しかし、背に腹は変えられぬ。 授業料も小遣いもいるのでありますれば。せっぱづまれば人間、たいがいのことはなんとでもするものです。こうして高1から始まった家庭教師ではありますが、毎日これをやってますと、自分が勉強できなくなるのでありました^^;

そうして次に見つけたのが、上記「いらっしゃいませ!」の春夏冬休み期間中の大衆食堂アルバイトである。その名も「つばさ食堂」!
     
当時は高校ではアルバイトを禁じていたが、そんなことはお構いなしです。弘前の大きなデパート「かくは」からちょいと横道にそれた食堂ですから、知った顔が見えることはまずない。こうして始まった大衆食堂のアルバイトが高校3年間ずっと続くことになるのである。
    
オヤジさんもおかみさんも津軽弁ではなく、江戸弁なのであった。その頃には、わたしは津軽弁を話さず、中学三年の一年を大阪で一緒に住んだおじの影響で弘前にいながら、外では標準語でやり過ごすようになっていた。さしづめバイリンガルですな(笑)津軽の言葉で言えば、こんなことをするわたしは「エフリこき」、つまりかっこつけ屋だ。
     
オヤジさんはなかなか面白い人であった。どういういきさつがあって弘前くんだりまで流れ着いたかは知らぬが、上背があり、軽くびっこをひいていて、満州にいたことがあるのだそうな。

共通の言葉、標準語を話すということも幸いしたのであろうか、わたしは大衆食堂のオヤジさん、おかみさんに随分と気に入られたらしい。「あんたのその、ハイ!という返事がいい!」としょっちゅう褒めてもらった。

そうなのだ。子供のころの、消え入りそうな究極の内弁慶は一体どこへ行ってしまったのかと思われるほどの変わりようで、何はともあれ、わたしの「はい!」の返事は、自分で言うのもなんだが、大きな声ではっきりと、即座!天下一品なのである^^

褒めてもらうと人はたいがい張り切るものだ。わたしもその例に洩れず、褒められれば木にも登るというブタの口、夏休み冬休みの期間中は毎回せっせと働き、すっかり家族の一員のような雰囲気であった。

40歳を優に越してから、保険の外交員の仕事に就いた母までが、いつの間にかそこに出入りし、オヤジさんたちが贔屓するようになっていた。跡継ぎの娘さんがいたのだが、わたしとは歳が離れていたせいもあったか、少しも気にすることもなく、彼女もまたいろいろ食堂の仕事のことを教えてくれたものだ。

進路で悩んでいた時に、積極的に相談に乗ってくれたのもこの食堂のご夫婦であった。英語が得意だったわたしを知っていたオヤジさんは、ある日言った。「弘前の大学で学ぶんだったら、学費を出してやる。」
     
これは天からの助け舟であったのに、「田舎はもうごめんだ。都会へ出て、更にできれば外国へ行って見たい!」との、当時にすればデカイ夢を見ていたわたしは、オヤジさんの申し出を袖にし、高校3年の夏、「つばさ食堂」のバイトを振り切って、自分の力で何とかしようと、東京は江東区の新聞専売店住み込みの実習をすることになるのである。(この時の体験は「1964夏・江東区の夕日」をどぞ) 

結果は、挫折するわけであるが、時折わたしは思う。あのまま、つばさ食堂のオヤジさんに学費を借り、弘前に留まって大学まで行ったとしたら、わたしの人生は今とは随分違ったものになっていたであろう。アサヒ・ビア・ハウスの歌姫時代はなかったであろうし、そうすると、現夫に出会うこともなかった。さすれば、息子のジュアン・ボーイも、モイケル娘も生まれなかったであろう。

人生の一つ一つの選択は、わたしたちの未来をひとつひとつ積上げることに他ならない。そのときは気づかないものの、こうして歩いて来た道のりを今、立ち止まって振り返ってみると、岐路がいくつかあったに拘わらず、その時その時に選んだそれぞれの道は、今日のわたしを、わたしの家族を作り上げた
ことに繋がる。
     
人生は摩訶不思議ではあるけれども、逆らい切れない運命のようなものがあるだろうけれども、随所随所でわたし達の選択の意思が働くことを考えると、人生の多くの出来事はわたしたちの意思によって運ばれることは、全く否めようがない。

2004年に、36年ぶりに故郷の土を踏んだ時、すっかり様変わりしてしまった弘前の町で「つばさ食堂」がかつてあった場所を探してみようと思った。が、わたしは止めた。場所はもうどうでもいい。「つばさ食堂」は、我が青春の一枚の絵として、こうしてエッセイに書くことができるほど、今でも鮮やかに思い浮かべることができるのだから。そして、今の自分の人生はいつでもその起点に繋がっているのだから。                   

2011年1月後記:
記事内の「1964年・江東区の夏」でわたしは書いていないのだが、この新聞専売店住み込み実習の時に、それまで数年文通していたA君を足立に突然訪ねて驚かせたのであった。その後、どちらともなく音信不通になり、不思議な縁で一昨年45年ぶりにわたしたちは再会し文通が再開。

青春時代と現在がほぼ半世紀を経て交差するとは、あの時、誰が想像したろう。わたしは今つくづくモンテルランの言葉を噛み締めている。

人生はわたしたちを欺かない、と。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
人生は摩訶不思議だが、一生懸命に生きると.....(^_-) (やまひろ)
2018-08-21 14:24:12
何事も、信念のもと、一生懸命にやれば、見るひとは、観ているものだとつくづく思う、けふこの頃(^_-)
ちょっとおそかったかな(^_-)
返信する
やまひろさん (spacesis)
2018-08-22 03:20:53
わたしもそう思います。

一生懸命することが道を開くことにつながるのだなぁと。
一生に一つの命を懸けるんですものね。

今日もコメントをありがとうございます。
返信する

コメントを投稿