ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

思い出のバスに乗って

2018-01-16 17:28:04 | 思い出のエッセイ
2018年1月16日

今日は子どもの頃の思い出話です。


「オリャー!」 
「ッとー!」
「え~い、ちょ、ちょこざいな小僧め。名を、名をなのれ!。」
「赤胴、鈴之助だ!」←元気な若い声

ここから主題曲始まるw 
        
♪剣をとっては日本一の 夢は大きな少年剣士
 親はいないが元気な笑顔
 弱いものには味方する  
 お!がんばれ強いぞ 
 僕らの仲間 赤胴鈴之助

これ、ご存知でしょうかw 
幼い頃を弘前の下町で過ごしたわたしは、何を隠そう、近所のガキ大将だったのでした。学校がひけて家へ帰り、することはと言えば、宿題などほとんどなかった当時だ、よって、夕方まで子供達は外で遊びほうけることができたのです。

テレビは当然なかったですから、もっぱら自然を相手の、ちっともお金のかからない遊びばかりでした。その最たるものが、チャンバラごっこ。チャンバラっつったって、木刀とか竹刀とかそんな上等なものを持つんじゃなくて、ちょっと長めの棒っきれをとって振り回すんです。近所でわたしを打ち負かす子はおらんかったです、ハイw

ところがですね、これがあぁた、学校へ行きますと押し黙った貝ですわ。ひと学期に一度も発言がなかったとか、一度も挙手がなかった、とかそういうことが、通信簿に書かれてきますねん。言うなれば、究極の内弁慶ですな。ま、これはさておいて。

冒頭に掲げた節、これは当時のNHKラジオドラマ、「赤胴鈴之助」の毎回のプロローグなのです^^
毎夕方6時から15分間(だったと思うが^^;)、子供達は各家庭のラジオの前に集まって、時には手に汗握りながら、時には主人公と情を同じくして悔しさを噛みしめながら、ラジオから流れてくる朗読に耳を傾ける。

こうして聴いたラジオドラマは今でもわたしの心に残っています。この「赤胴鈴之助」のみならず、「紅孔雀」「黄金孔雀城」「オテナの塔」「ああ、無情」そして、これまた大好きだった「怪人二十面相」。
わっはっはっは。これじゃぁ、すっかりおん歳がバレちまいますが、なんのなんの。

怪人二十面相にいたっては、ドラマを真似て、ご近所の手下どもを集めては「下町少年探偵団」なるものまで結成したのでありました。

子供の世界とは言え、犬猫同様、それぞれ子供グループの遊ぶ縄張りがあるのでして、その縄張りを侵す危険までして探検した「下町少年探偵団」!これはスリル満点の遊びでした。

視覚に訴える現代の映像は、たしかにわたしたちをあたかもその場にいるかのような錯覚を与えます。教育現場、家庭などでも視覚教育が取り上げられてからもうかなりの年数を経ました。

しかし、テレビのなかったわたしの幼い頃、子供達は視覚に頼らずラジオで朗読を聴き、自分の想像を拡げていったように思う。それは、テレビをひねれば、電源を入れれば映像が入ってくる、と言うような受動的なものではなく、自らが想像で創りだす、能動的なものでした。

映像のなかった時代の方が、はるかに想像力、かつ創造力を拡げることができたような気がしてしまうのは、不思議なことです。

思い出のバスに乗って
黄色い帽子の子が走ってくる
人差し指の 向こうの坂道

わたしは、時折、こうして遥かなる過ぎ去った日の時間に思いを馳せ、思い出のバスにヒョイと乗ってみます。坂道の向こうには、祖母が、父母が、大所帯で一緒に住んだおじおばが、従兄弟たちが、そして、下町少年探偵団がニコッと笑っているのが見える気がするのです。 

             

「凱旋門」と林檎酒「カルヴァドス」に再会する

2018-01-15 16:03:19 | 
2018年1月15日

土曜日の図書館での日本語教室を終え、別クラスのポルトガル人生徒数人を引き連れて漢字検定試験場である我が古巣、「ポルト日本語補習校」へ行ったある年のことです。

この学校で創立時の1987年から2009年の3月まで22年間毎週土曜日に通いました。もちろん、わが子たち、東京息子もモイケル娘もです。

「土曜日の 補習校までの道のりは 母の説教 9年間」とはモイケル娘の中学卒業時に残した短歌であります。うちでの説教もままありましたが、補習校までの20分ほど、後座席に座る彼らにそれとはなしに軽い説教をよくしたものでした。が、当のわたしはどんな説教をしたのか覚えてはおりませんです、はい。

そんな古巣に足を踏み入れると、我が子たちのみならずそれまでの22年間で受け持ってきたたくさんの子供達の顔も蘇り、少しジンと来ます。これまでで最長年勤めたというので、学校を退いた後も一応顔パスで校内に出入りできるのですが、物欲しそうに見えるのも不恰好であり、年に一度の漢検に生徒を連れて行く以外は顔を出しません。

ともに仕事をしたかつての同僚も現在何人かいますが、新しい人たちもおり、行くたびに補習校から感じ取られる雰囲気は違います。時代が変わりつつあるのだと思います。

1時半から試験は開始です。連れて行った生徒達が終了するまで補習校が図書室として使用している教室で控えて待とうと椅子に座るや、すぐYY塾のパートナーでもあり補習校でも教えているOちゃんがやってきて、「これを」と何やら、プレゼントらしきものを差し出されました。

誕生日でもなし、バレンタインデーでもなし、なんで?といぶかっているわたしに、いつもお世話になっているからと言います。断るのもなんですしねw、頂いて帰りうちであけてみると、おお!なんと懐かしや、「カルヴァドス(Calvados)」ではありませんか!


ひぇ~、Oちゃん!今でこそ、飲むものと言えば赤ワインかビールに落ち着きましたが、若い時分は結構酒豪でいろんなお酒に手を出しました。日本酒から始まりウイスキーは全部ストレート、ブランディ、ビンごと凍らせて飲むドイツのお酒シュナップス、そしてほろ苦い思い出がからむフランスのブランディ、りんご酒のカルヴァドス。

ビールを好むようになったのは当時大阪の梅田新道にあったビアハウスの老舗「アサヒビアハウス」で留学資金作りにバイトで歌うようになってからです。このビアハウスは現在も同じ場所にありますが改築されて同和火災ビルという名もフェニックスタワーとなり、「アサヒビアハウス」も「アサヒスーパードライ梅田」に変更されました。店内も改築と同時にガラリと変わりましたが、アコーディオン演奏でビアポルカのライブは今日でも火・木の週2回聴けるそうです。

さて、話をカルヴァドスにもどして。Oちゃん、なにかの折にわたしが話したカルヴァドスのことを覚えていてくれたのでしょう。このお酒の名前を知るきっかけになったのは20代に読んだレマルクの名著「凱旋門」でした。



カルヴァドスは物語の最初の場面ででてきます。フランスに不法入国し身分を隠して闇の手術を請け負ってその日暮らしをして生きているドイツ人外科医ラヴィックがこれまた異国人でよるべない端役女優ジョアン・マズーに夜更けのパリで出会う。うつろな表情の彼女を放っておけず、タクシーの運転手達のたまり場のビストロへ誘う。


夜も遅いそのビストロで二人が注文して飲むのがカルヴァドスです。

今回改めて読み返してみようと手にとったのですが、記憶違いな部分や忘れていた部分がたくさんありました。長い間、この本の舞台は第二次世界大戦中のパリだと思っていたのですが、旅券を持たない避難民で溢れかえっている大戦勃発寸前のパリでした。

「凱旋門」は2度映画化されています。ラヴィックをシャルル・ボワイエジョアンをイングリッド・バーグマン(1948年)が、 1984年にはアンソニー・ホプキンス主演ですが、どちらも原作には歯が立ちません。

最初のはメロドラマ的でわたしは途中で投げ出し、アンソニー・ホプキンスのはと言うと、いい役者さんではあるけれど、「ハンニバル・レクターのイメージが強烈でダメでしたw光が消えた暗いパリ、人々の果てしない恐怖と絶望が渦巻く大戦勃発前夜のパリを描き出している原作にはかないようがありません。

わたしは本の虫ゆえ、読書そのものは常にしているものの、若い時に読んだ多くの文学作品からは長い間ついつい遠ざかっていましたが、70を過ぎた今、改めてそれらの文学作品を読んでみようと思っています。
Oちゃんのカルヴァドスがきっかけです。

そうそう、今回発見したことがもうひとつあります。カルヴァドスはりんごを原料にしますが、いわゆるアップル・ブランディーとは一線が引かれ、フランスのノルマンディー地方で造られたもののみを指すのだそうです。

このお酒の名前を「凱旋門で」知って以来、20代の頃に勤めていた会社の東京本社上司が頻繁に仕事でフランスへ行くのをいいことに、わたしはその都度、当時国内では入手不可だったこのお酒を買ってきてもらったものでしたが、これがなんとアルコール度数40度なんだってば!こんなのを20代でちびりちびりと飲んでいた自分を思い出して、あはははは、ではあります。

ポルトガルに来て以来、アルコール度数の強いお酒といえば20度前後のポルトワインしか口にしてきませんでしたので、こんな強度のお酒は?味は?と多少躊躇するところがあるものの、Oちゃんからいただいたこの一本のカルヴァドス、過ぎし青春の日々に思いをめぐらしながらじっくり、ゆっくり、この先の一生をかけて飲み終えようと思っています。

人生色々:対称的な二人の90歳代女性

2018-01-14 12:49:16 | ポルトガルよもやま話
2018年1月14日

安楽死が法律で許可されている国は、それなりの条件があるのですが、世界にオランダ、ベルギー、アメリカのオレゴン州を初めとする4州、これに近年カナダ、オーストラリアのビクトリア州が加わったそうです。

この問題に関してはわたし自身の結論が出ていないので、今日はそれについて書くことを避けるのですが、以前こんな二つの話を耳にしたのです。

ーベルギー、アントワープに住む93歳の安楽死を希望する女性が、法律的にその希望が受け入れてもらえず、ハンガーストライキに入った。93歳のこの女性は、病気をしているわけでもないのだが、
「もう生きているのがイヤになった」のだと言う。ー

すると、同じ頃、ポルトガルのラジオ番組で、ポルトガル南部、アルガルヴ地方に住む91歳のアンゴラ(アフリカ系)女性の話が話題にのぼりました。アンゴラからの移民で苦労のしづくめ。学校へ行くこともなくずっと文盲で来たところ、一念発起、小学校1年生から勉強を始めるのだそうです。

91歳の女性が、果たして小学校での勉強にちゃんとついて行いけるのか、体力面で継続できるのかなどの疑問は別として、わたしはこの二つの話に、なんと言う人生のとらえ方の違い!としばらくの間、考えさせられたのであります。
そして、わたしが時々、いっちょ前に人を励ますときに使う例え話を思い出したのでした。

自分の好きなスピリッツ(精神とお酒の二つの意味がありますね)が3分の1入ったグラスを手にして、「あと三分の1しか残ってない」と見るか、「あと3分の1も残ってる」と見るか。

これは、物事をネガティブにとらえるかポジティブにとらえるかの違いでしょうか。どちらのとらえ方をするかによって、人生もまた大きなうねりを見せて違っていくような気がします。

アントワープの女性については、もっと詳しい情報が入ってこないのでなんとも言いがたいのですが、ふと、この女性は子供とか孫とかの家族は、愛する人はいないのだろうか、これまでどんな人生を送
って来たのだろうか、と、苦労の連続の人生だったであろう、ポルトガルのアンゴラ女性のそれよりも、わたしは興味を覚えてしまいます。

夫の母は14年間寝たきりで、後半の7、8年は流動食も飲み込むことができなくなり、鼻チューブを通して栄養をとり、家族が話しかけても反応がなく、意識がないようで眠る月日でしたが、時々そういう義母のことを知っている人が言うのには「それは生きているとは言えない。死んだほうがましかも知れない。」

言うことが分からないわけではありませんが、ただ、それに対してわたしは思ったものです。本人は言葉を発することも、なにかの意思信号を送ることもできないのだから、彼女の本心は周囲のわたしたちには分からない。

意識がなく眠っているだけだと思っているのは周囲の人間の思い違いであって、実際には周りで何が起こっているのか、周囲の人間がどんな話をしているのか、彼女は全て知っているのかも知れない、と義母を見ながらわたしは思ったものです。

わたしたちは毎日生きているには違いないけれでも、確実に日々死という未来に向かって時間を刻んでいるのもまた事実です。彼岸のことは、誰一人として帰ってきた者がいないので、「死」が果たしてどういうものであるかは、想像だにできない。このニュースは、安楽死を望むベルギーの93歳の女性のことが、なにかと頭をよぎっては離れない対照的な二つのニュースではありました。

spacesisさんはどっちのタイプかって?う~ん、その身になってみないと分りませんが、多分、「どれ、孫も一人前になったところで、経済的に余裕もできたし、念願の大学へでも行こうかいな?」てなことも、言い出しかねないかしら。

おっと、その前に孫がいなければならないのでしたっけ(笑)

本日はこれにて。

月下独酌

2018-01-13 00:12:22 | 日本語教室

2018年1月12日

日本語教室の話です。

我が生徒の最年長者83歳のアルフレッドさんとの日本語授業でのこと。

現在、二人で600ページ近くに及ぶ「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」を勉強しているのですが、9世紀から10世紀初頭にかけて生きた、在原業平の甥、大江千里(おおえのちさと)の23番歌を読み終えた時のことです。

在原業平とくれば、今で言う「イケメンもて男」。人気漫画のタイトルともなっている「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」の作者でもあります。また、古今和歌集に納められている業平の歌にはわたしの好きな、「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」もあり、優れた歌人だと言われます。

しかるに、このもて男の業平は小野小町を口説いて、実は振られていたのだそうですよ。この本で知ったことですが、単なる歌の解説に終わっていない点がこの本の面白い点で、アルフレッドさんとああだ、こうだと言い合いながら(ポルトガル語、英語でのディスカッションです)、楽しんで学んでいます。

さて、その業平の甥、大江千里の歌、

月見れば
千々に物こそ 悲しけれ
我が身ひとつの 秋にはあらねど

月を見上げると、心が千々にに乱れて悲しくなるなぁ。わたし一人の秋ではないのだけれど
(現代語訳:「ねずさんのねずさんの日本の心で読み解く百人一首」引用)

大江千里は漢学者でもあり、この歌も「燕子楼(えんしろう)」という漢詩が元歌なのだそうです。
下に読み下しを記してみます。

満窓(まんさう)の明月、
満簾(まんれん)の霜

被(ひ)は冷やかに、燈(とう)は
残(うす)れて臥床(ふしど)を払ふ

燕子楼(えんしろう)の中(うち)の
霜月(さうげつ)の夜

秋来(きた)つて只
一人(いちじん)の為に長し

この漢詩を機に、アルフレッドさんの提案で、李白の「月下独酌」なる詩を勉強してみました。下記、ネットで拾ったものです。

花間一壺酒  花間 一壺の酒
独酌無相親  独り酌みて相ひ親しむ無し
挙杯邀明月  杯を挙げて明月を邀へ
対影成三人  影に対して三人と成る
月既不解飲  月既に飲むを解せず
影徒随我身  影徒らに我が身に随ふ
暫伴月将影  暫らく月と影とを伴って
行樂須及春  行樂須らく春に及ぶべし
我歌月徘徊  我歌へば月徘徊し
我舞影零乱  我舞へば影零乱す
醒時同交歓  醒むる時同(とも)に交歓し
醉后各分散  醉ひて后は各おの分散す
永結無情遊  永く無情の遊を結び
相期獏雲漢  相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に

漢字が分かる日本人にとって、漢詩はなんとなく意味がつかめますね。月と自分の影を相手に酒を楽しんでいる訳ですが、興味ある方はネットで検索していただくとして、普段は山で生活をし、日本語授業がある時にポルトに下りて来るアルフレッドさん曰く、「この詩はまるでわたしの山での生活を歌っているようです」。

聞けば、彼の山の家の周囲にはポルトガルでは見られない桜の木や銀杏の木が植えられ、ベランダからは月が昇ってくるのが見えるのだそうな。「いらっしゃい、いらっしゃい」と言われながらも、まだお邪魔していないわたしです。

この時わたしはかれこれ10年以上も昔、木彫家の我が親友の山房での一夜を思い出しました。日本庭園を前に、和室の縁側で向こうに見える山並みと煌々たる月を眺め、漬物を肴にして和歌山の地酒「黒牛」を飲みながら、ポルトガルの、そして、彼女の四方山話をお互いポツポツと夜通し語り合った忘れられぬ夜のことです。


庭から山を望む

気が付けば、いつの間にか二人で一升瓶を空にしていたのでした。それが不思議と酔うこともなく、「酒は静かに飲むべかりけり」とはこういうことかと思ったものです。



座敷の横の縁側で一晩中静かに杯を傾け。

 

漢詩の最後、「ともあれ月と影と親しく交友し、遥かな銀河での再会を誓おう」と訳せる「相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に」は、胸にジンと響くものがあります。

この春の帰国では、3年ぶりに親友を和歌山に訪ね、この詩のにわか講釈を披露してまいりました。ワインよりも、ビールよりも、美味しいお酒を素敵な酒器でいただきたいと思うこの頃、ポルトではそうも粋真ッ線が、毎晩軽く日本酒を晩酌とする妹夫婦との再会も、帰国の楽しみの一つなのであります。

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。
ではまた。

探し物は何ですか。

2018-01-11 22:21:02 | 思い出のエッセイ
2018年1月11日 

偶然耳にしたシャルル・アズナブールの「Yeterday when I was young邦題は「帰り来ぬ青春」」。過ぎ去った青春を惜しみ懐かしみ、後悔し、年を取ったアズナブールが切なげと歌っているのがとてもいい。作詞作曲もアズナブールだと言う。

なんて懐かしい。いい歌だなぁと、わたしも思わず胸がキュンとし、そしてふと思い出したひとつこと。

我が生まれ故郷、弘前の土手町あたりにあった喫茶店「ひまわり」・・・・その存在が気になりながら、ずっと意識的に避けてきたような感がある。それで三十年ぶりで帰郷したときも結局足を運ぶことはなかった。

もうないんではないかな?と思いながらネットで検索してみたら・・・・・あった!その名も昔のままに「名曲喫茶ひまわり」^^


写真はWikiから。

「50年前に開店、昭和の香りを今に残す」とある^^

わたしの高校時代は学校が喫茶店への出入りを禁止していた1960年代始めである。それでも、わたしたちは密かに入っては大人の味のするコーヒーをすすりながら幾度か秘密の時間を過ごしたものだ。

何度も行ったわけでもない「ひまわり」が気になってきたのにはちょっとした事情がある。高校時代に進路が別れ、卒業以来たった一度の交差があったきりお互いなんの音信もなくなったK君と別れしな、「5年後の今日、ひまわりで逢おう。」とした約束があった。

約束をわたしは果たさなかった。都会に出たわたしが帰郷したのは、5年後どころか39年後である。今ではその約束の日付も記憶にない。卒業後、北へ向かったK君が約束どおり「ひまわり」へ行ったかどうか、わたしは知らずじまいだ。

いつだったか、同窓生が送ってくれた卒業生の名簿には弘前在住とある。そっか、君は弘前へ戻ったのか・・・39年ぶりの故郷の同窓会出席の時は、ひょっとしたら再会できるだろうか?と密かに期待したりしたのだが、K君の姿はなかった。

誰にも訊ねることをせず、わたしはそれとなしにK君の姿を探していたわけだが、ひょいと誰かに気づかれて「探し物はなんですか?」と、もし聞かれたら、「い、いえ・・あの、なんでもないんです・・・」と、しどろもどろに答える17才の自分の姿が脳裏に見えるような気がする。

後日談については次のお話に。

アズナブールが英語で歌っています。よかったらどうぞ。