ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

ポルトガル語入門講座&東のポルト屋

2019-05-26 15:45:03 | ペット
2019年5月26日 

水曜日以来、風邪で体調悪く、日本語レッスン以外はぐったり床に臥しておりました。近頃は無理が利かなくなってきたのに自分でもがっくりです。

どこぞで見かけたこの言葉に、

人生は七十歳から
七十歳にて お迎えあるときは、今留守と言え
八十歳にて お迎えあるときは、まだまだ早いと言え
九十歳にて お迎えあるときは、そう急がずとも良いと言え
百歳にて お迎えあるときは、時期をみてこちらからボツボツ行くと言え

というのがありましたが、床に伏しながらただ今留守でございますと強がっていました。

明日当たりは風邪も抜けるかなと予感、今朝は我がモイケル娘と久しぶりにスカイプで話しました。

「こっちは真夏日だ~」で始まり、「今日のポルトガル語クラスはうまく言った」と言う。実はモイケル娘、この春から某大学の事務局の仕事を週4にしてもらったのだが、飼っている3匹猫の面倒もある程度見られるし、家のこともポルトガル語準備もあまり焦らずできるという。

共稼ぎできちきち働いていると、家事も気になるだろうが気持ちの余裕がなくなりがちであろう。収入は減るが、元々大して体力がある子ではないので、それ以上、時間を切り売りせずに済むならそれがいいとわたしは賛成している。

さて、そのポルトガル語クラスだが、教える側も学ぶ側も時間に縛られているのだそうで、月1でしかできないがと、ポルトガル語入門講座を始めたのが、結構続き、今日は8回目、動詞の「ter(持つ)」と取り上げたとのこと。

日本人向けのポルトガル語(ブラジル語とは少し違う)テキストがほとんどないので、娘、毎回のテーマに合わせて、自作である。


初心者用のテキストを作成するのは時間もかかり、難しいことをわたしは知っている。仕上がったテキストを何度か見せてもらったことがあるが、ひゃ~、これは大変だと思った。同時に、ひょっとして、初級1のテーマが終わったら、これ、出版できないものかとも思ったほど、うまい出来具合であった。って、身びいきか(笑)

自分の猫の画像を使ったりもしている。
とある歌をヒントに下のフラッシュカードも作ったんだけど、何の歌か分かる?と聞く。



ペン、りんご、パイナップル・・・待てよ・・・

♪I have a pe~n
 I have an apple
 Apple pe~n!
 I have a pen
 I have a pineapple
 Pineapple pen!I

と、種明かしを聞いて、え~~!PPAPじゃん、のわたしであった。
これ、ポルトガル語だと、

♪Tenho uma caneta (TenhoはすでにI haveの意味になる)
Tenho uma maçã
Mação Caneta!
Tenho uma caneta
Tenho uma ananás
Ananás Caneta!

歌のタイトルのPPAPもCAMC(セー・アー・エム・セー)となり、これで朝から大笑いしていたのだが、時節に叶った話題を学習に取り上げられるのも、時に応じた手作りができることである。これじゃ、生徒も乗るだろが、乗せすぎるなよ~と、思った次第。

個人の語学教室は大きな宣伝ができないので、地味に続けていくしかないのだが、いい授業をしていると、口コミで徐々に生徒が増えていくことにつながる。娘よ、がんばってください。

もうひとつ、こちらも、宣伝が行き届かないので、気長にのんびりと趣味の如く娘が運営しているのが、「ポルトガル雑貨オンラインショップ 東のポルト屋」。最近、徐々に購入されてきているようです。

興味あらば、おでかけしてみてください。年に2度ほど市川などで販売会をしています。
https://www.facebook.com/mikeyinPorto/(ポルトガル雑貨オンラインショップ 東のポルト屋)
↑フェイスブックサイトの方が雑貨がたくさん紹介されてあります。

http://www.higashinoportoya.com/ (東のポルト屋)

本日はモイケル娘の話と宣伝とに相成りました。

本日はこれにて。

ポルトのダウンタウン:「サンタカタリナ通り」(1)

2019-05-12 10:44:28 | ペット
2019年5月12日

ダウンタウンをポルトガル語では俗にBaixa(=バイシャ。下の意味)と言います。 そのダウンタウンの目抜き通りが歩行者天国のサンタ・カタリナ通りです。

クリスマスの時期には、人でごった返し、通りは身動きができないほどのにぎやかさでしたが、郊外の大手ショッピングセンターの数軒もの出現で、往年の賑やかさはなくなっていました。

が、ポルトは2014年に、ヨーロッパで一番訪れてみたい都市に選ばれるなどして、ここ数年、観光客がうなぎのぼりに増え、サンタ・カタリナ通りは再び賑わっています。

ブティックが軒を並べている中、古い歴史を持つハイライトも幾つかあります。そのひとつが、Capela das Almas(カペラ・ダス・アルマス。Capela=礼拝堂 almas=魂、精神)です。



18世紀初期に建てられた小さな礼拝堂ですが、外部を覆うAzulejo(=アズレージュ。青タイル絵)が完成したのは20世紀に入った1929年。総数15947枚のアズレージュが語るは、サンタ(聖女)・カタリナとアッシジのサン・フランシスコの生涯です。
 


さて、聖女カタリナとは?と、わたしはこういうことにすぐ興味をそそられるのです。カトリック信者が多い国には、聖人聖女がたくさんおり、これらの名前と伝説を整理して覚えるのは生半可なことではありませんが、それを知らずしてこのアズレージュを見てなんとしよう!というので、以下。

★サンタ・カタリナとは?

聖人、聖女の名はあまたあり、国によっては同じ聖人聖女なので呼び方が違ったりします。わたしはカトリック信者ではありませんが、現代に残る気になる名前の由来をたずねるのが好きで、よく調べます。

「カタリナ」はポルトガル人の女性名にもよく使われのですが、サンタ(聖)・カタリナはどうも二人いるようです。

そのひとりは、アレキサンドリアの聖女カタリナ、もうひとりがイタリア、トスカーナ地方、シエナの聖女カタリナです。二人の物語は一部似通ったところもあり、混乱を招くようです。

アレキサンドリアのカタリナは4世紀に名家に生まれ、高い教育を受けました。才女と美貌の誉れ高く、皇帝からの改宗命令を拒み投獄されます。車輪に手足をくくりつけられて転がされるという拷問が命じられますが、カタリナが車輪に手を触れると車輪はひとりでに壊れてしまったがため、斬首、19歳で殉教しています。サンタ・カタリナのシンボルは、壊れた車輪、足元の王冠、剣、本、異教の哲学者と論争する女性、などなど。

もう一人、シエナのカタリナは14世紀の人で幼児期から幻視体験を持つといわれ、長じてドミニク修道女となります。興味のある方は検索してみてください。

で、件のアズレージュ絵はシンボルから、アレキサンドリアのサンタ・カタリナであると判断します。

シンボルの剣と本をもっている。  

下は異教の哲学者との論争場面と推察。
 

聖女サンタ・カタリナ伝説は、場所がアレキサンドリアということ、才女と美貌の誉れが高い、ということ、惨殺されたという点から、わたしは、4世紀のアレキサンドリアの数学者、天動説に疑問をいだいた天文学者であり、新プラトン主義哲学者でもあった女性「ヒュパティア(Hypatia)」を思いおこします。

分裂していた東西ローマ帝国を統一して治めたただ一人のローマ帝国皇帝テオドシウス1世はキリスト教徒でした。哲学学校の校長であり、学術的、科学的な哲学を持つヒュパティアはキリスト教徒からすると、異端とみられていました。皇帝の異端迫害方針により、エジプトの非キリスト教宗教施設や神殿、有名なアレキサンドリア図書館と共にヒュパティアの学校も破壊され、彼女は修道士たちに惨殺されます。これにより、多くの学者たちがアレキサンドリアを後にします。学問が繁栄したアレキサンドリア凋落の引き金になったのです。

ヒュパティアについては、2009年カンヌ映画祭で受賞した「Agora」(芳名:アレキサンドリア)があります。タイトル「Agora」についても、知ってみるとなかなか面白い。 「アゴーラ」と読み、語源はギリシャ語。古代ギリシャの政治的人民集会や、その広場の意味になりますが、スペイン語では「予言する」の動詞、さらにポルトガル語の「agora」は「今、現在」の意味です。なんとも意味深な映画のタイトルではありませんか。 

中世期にヨーロッパを制覇したキリスト教ですが、実は異端教(キリスト教以外の全ての宗教)から拝借していることも多いのです。最たるものは「イースター(復活祭)」です。イースターは元来は古代ヨーロッパ人の女神Osteraを崇め、春の到来を祝った祭りだといわれます。


それを考えると、アレキサンドリアのサンタ・カタリナの伝説はひょっとして異教徒であり哲学者であったヒュパティアをモデルにしたのではないかと、思ったりするのですが、果たしていかに。

下記は「Agora」予告編です。





ポルト・ワイン(Port Wine)

2018-10-07 08:11:53 | ペット
2018年10月7日

ポートワインが美味しくいただける季節になりました。そこで今日はポルト・ワインについてです。

ポルトガル語では Vinho do Porto(ヴィニュ・ドゥ・ポルト)、ポルトのワインという意味です。


あえて「ポルト・ワイン」と書いたのは、昔、日本にあった赤ポートワインとよく間違えられるからです。通でもないわたしが書くのにはためらいがあるのですが、ポルトワインなくして我が街ポルトを語ることはできません。

わたしの話は、ごく一般的な知識の域を出ないと思いますが、宜しかったら読んでください。

ポルトワインは、その歴史と格調高い風味で世界のワイン通を魅了しており、食前酒、または食後酒のデザートワインとしてたしなまれます。お値段の程はピンからキリまで。

巷のスーパーマーケットで出回っているのでは、安いのは10ユーロくらいから良いものは100ユーロまで。ヴィンテージものとなると、10万円を超え、普通のマーケットなどでは手に入りません。

葡萄はポルトに注ぎ込むドウロ川上流の葡萄畑でとれたものが使われます。それらの葡萄は、摘まれてすぐに、男性たちが歌いながら一晩中足で踏み潰すのが昔カラの慣わしでした。

もっとも昨今これは、専ら観光客用のイベントとしか行われず、現在はほとんどが機械によってつぶされるようです。
 
さて、多くの人が勘違いするのですが、ポルトワインとポルトガル産のテーブルワインは大いに違います。何が違うかと言うとポルトワインは、醗酵の途中でブランディが加えられることです。 ブランディを加えることによって醗酵が止まり、糖分がアルコールに変わらずに残り、甘くて強いお酒になるのだそうな。

その後、ポルトの対岸の町Vila Nova de Gaia市の川べりに立ち並ぶ酒蔵の樽のなかで熟成され、さらにブレンドされて瓶詰めでポルトの港から世界に出荷されて来たのです。通常のテーブルウィンが10~15度のアルコール度数に比べ、ポルトワインは20度前後です

それで食事と共に飲むテーブルワインと違い、ポルトワインは食前食後酒としてたしなまれます。

今でこそ、ドウロ川上流から陸路を使って樽ごと酒蔵に運ばれて来ますが、昔はポルト独特のBarco Rabelo(バルコ・ラベロ)という帆掛け舟で、ドウロ川を下って運ばれて来ました。

ポルトワインは5種類に分けられます。

ルビーポルト:
美しいルビー色で樽熟成4、5年の若いワイン。甘口。 

タウニーポルト:
英語の黄褐色tawnyから名づけられた樽熟成6年以上。  

ヴィンテージポルト:
よい葡萄が収穫された年のぶどうのみを使って造られその年の年号がつく。
       
2年間の樽熟成の後瓶詰めされてそのまま瓶で熟成。 ラベルにはワイン会社名とともに必ず使用されている。葡萄の収穫年号と「Vintage」の表示がつく。     

レイト・ボトルド・ヴィンテージ(Late Botlled Vintage):
よい葡萄が収穫された年の一種類葡萄で造られる。 4、5年の樽熟成後瓶詰めされ、さらに瓶で熟成され、その年の年号が入る。
       
ホワイト・ポルト:
 白葡萄からつくられ食前酒として楽しまれる。他の4種類のポルト・ワインと違い、冷たく冷やして飲む。辛口。

実はこのポルトワイン、ポルトガル産物とは言うものの、上質のワインをここまで昇華させてポルトワインを世界の名だたるお酒に仕上げたのは、残念ながらポルトガル人ではなくて主にイギリス人なのですね。

わたし流に解釈すれば、ポルトワインは、本国では造ることができなかったイギリス貴族のワインであったわけです。ワイン会社の持ち主は、今では多くがイギリス人、ドイツ人などの外国人ばかりになってしまい、現在、所有者がポルトガル人だというのは、わたしが知る限りでは「Ferreira社」でしょうか。軒を貸して母屋を取られるとは、言ったものです。欲も機転もあまりないポルトガル人は、その甘い汁を持っていかれてしまったと言うことでしょうか。

ポルトガル人にしてみれば、「甘いけれども苦いポルトワインである」とわたしは密かに思っているのです。

「思い出の弘前・つばさ食堂」

2018-08-21 00:36:53 | ペット
2018年8月20日    

「いらっしゃいませ!」
ドアから入ってくる客に威勢良く声をかけ、客がきちんと席についたのを確認して、お冷とお絞りを載せた丸盆を両手に持って、注文を聞きに行く。
     
「はい、親子丼おひとつですね。かしこまりました。少々お待ちください。」
ちょいと伸び上がって調理場に顔を覗かせ、
「おやどんいっちょう~!」
「ホイキタ合点、おやどんいっちょう~~」とオヤジさんの返事が来る。 

中学3年のほぼ一年を叔父叔母宅で過ごした大阪から弘前に帰ったわたしは、中学3年3学期の高校受験ギリギリの時期に以前通った中学ではなく、別の中学へ転入し、無事高校入学ができた。入学して間もなく、昔、下町に祖母の家があった頃、大家族14人が一緒に住んでいたおじの一人、職業がよく知れないおじが、学費に困っていたわたしにアルバイトの口を持ってきてくれたのだ。 
     
中学3年生の女の子の家庭教師である。高校1年生が中学3年生にですよ(笑)しかも、毎夕方、国語、英語、算数、理科の4教科を見る口でありまして^^;国語英語はなんとかできたものの理数系はわたしはアカンのですってば。
     
しかし、背に腹は変えられぬ。 授業料も小遣いもいるのでありますれば。せっぱづまれば人間、たいがいのことはなんとでもするものです。こうして高1から始まった家庭教師ではありますが、毎日これをやってますと、自分が勉強できなくなるのでありました^^;

そうして次に見つけたのが、上記「いらっしゃいませ!」の春夏冬休み期間中の大衆食堂アルバイトである。その名も「つばさ食堂」!
     
当時は高校ではアルバイトを禁じていたが、そんなことはお構いなしです。弘前の大きなデパート「かくは」からちょいと横道にそれた食堂ですから、知った顔が見えることはまずない。こうして始まった大衆食堂のアルバイトが高校3年間ずっと続くことになるのである。
    
オヤジさんもおかみさんも津軽弁ではなく、江戸弁なのであった。その頃には、わたしは津軽弁を話さず、中学三年の一年を大阪で一緒に住んだおじの影響で弘前にいながら、外では標準語でやり過ごすようになっていた。さしづめバイリンガルですな(笑)津軽の言葉で言えば、こんなことをするわたしは「エフリこき」、つまりかっこつけ屋だ。
     
オヤジさんはなかなか面白い人であった。どういういきさつがあって弘前くんだりまで流れ着いたかは知らぬが、上背があり、軽くびっこをひいていて、満州にいたことがあるのだそうな。

共通の言葉、標準語を話すということも幸いしたのであろうか、わたしは大衆食堂のオヤジさん、おかみさんに随分と気に入られたらしい。「あんたのその、ハイ!という返事がいい!」としょっちゅう褒めてもらった。

そうなのだ。子供のころの、消え入りそうな究極の内弁慶は一体どこへ行ってしまったのかと思われるほどの変わりようで、何はともあれ、わたしの「はい!」の返事は、自分で言うのもなんだが、大きな声ではっきりと、即座!天下一品なのである^^

褒めてもらうと人はたいがい張り切るものだ。わたしもその例に洩れず、褒められれば木にも登るというブタの口、夏休み冬休みの期間中は毎回せっせと働き、すっかり家族の一員のような雰囲気であった。

40歳を優に越してから、保険の外交員の仕事に就いた母までが、いつの間にかそこに出入りし、オヤジさんたちが贔屓するようになっていた。跡継ぎの娘さんがいたのだが、わたしとは歳が離れていたせいもあったか、少しも気にすることもなく、彼女もまたいろいろ食堂の仕事のことを教えてくれたものだ。

進路で悩んでいた時に、積極的に相談に乗ってくれたのもこの食堂のご夫婦であった。英語が得意だったわたしを知っていたオヤジさんは、ある日言った。「弘前の大学で学ぶんだったら、学費を出してやる。」
     
これは天からの助け舟であったのに、「田舎はもうごめんだ。都会へ出て、更にできれば外国へ行って見たい!」との、当時にすればデカイ夢を見ていたわたしは、オヤジさんの申し出を袖にし、高校3年の夏、「つばさ食堂」のバイトを振り切って、自分の力で何とかしようと、東京は江東区の新聞専売店住み込みの実習をすることになるのである。(この時の体験は「1964夏・江東区の夕日」をどぞ) 

結果は、挫折するわけであるが、時折わたしは思う。あのまま、つばさ食堂のオヤジさんに学費を借り、弘前に留まって大学まで行ったとしたら、わたしの人生は今とは随分違ったものになっていたであろう。アサヒ・ビア・ハウスの歌姫時代はなかったであろうし、そうすると、現夫に出会うこともなかった。さすれば、息子のジュアン・ボーイも、モイケル娘も生まれなかったであろう。

人生の一つ一つの選択は、わたしたちの未来をひとつひとつ積上げることに他ならない。そのときは気づかないものの、こうして歩いて来た道のりを今、立ち止まって振り返ってみると、岐路がいくつかあったに拘わらず、その時その時に選んだそれぞれの道は、今日のわたしを、わたしの家族を作り上げた
ことに繋がる。
     
人生は摩訶不思議ではあるけれども、逆らい切れない運命のようなものがあるだろうけれども、随所随所でわたし達の選択の意思が働くことを考えると、人生の多くの出来事はわたしたちの意思によって運ばれることは、全く否めようがない。

2004年に、36年ぶりに故郷の土を踏んだ時、すっかり様変わりしてしまった弘前の町で「つばさ食堂」がかつてあった場所を探してみようと思った。が、わたしは止めた。場所はもうどうでもいい。「つばさ食堂」は、我が青春の一枚の絵として、こうしてエッセイに書くことができるほど、今でも鮮やかに思い浮かべることができるのだから。そして、今の自分の人生はいつでもその起点に繋がっているのだから。                   

2011年1月後記:
記事内の「1964年・江東区の夏」でわたしは書いていないのだが、この新聞専売店住み込み実習の時に、それまで数年文通していたA君を足立に突然訪ねて驚かせたのであった。その後、どちらともなく音信不通になり、不思議な縁で一昨年45年ぶりにわたしたちは再会し文通が再開。

青春時代と現在がほぼ半世紀を経て交差するとは、あの時、誰が想像したろう。わたしは今つくづくモンテルランの言葉を噛み締めている。

人生はわたしたちを欺かない、と。

晴れ、ときどきネコ

2018-07-12 18:11:39 | ペット
2018年7月12日

「晴れ、ときどきブタ」というアニメ、もしくは絵本をご存知でしょうか。
子供が書く日記のお天気欄に、主人公の男の子がふざけて「晴れ、ときどきブタ」 と、ある日書いたところが、ほんとうに空からブタが降ってくる、って話なんですけどね。

小さい頃、うちの子供たちはこれに夢中になりまして、繰り返し共にビデオを見たものです。我が家のは「晴れ、ときどこネコ」であります。

数日置きに、ネコが脚を踏み外してか、フラットの2階なる我が家の台所そばにあるベランダの洗濯物干し場から、 昨日はクルル、先だってはゴンタそして、べべ、ぺトと順番に二階の我が家から、階下の庭に落ちるのでありました。

その都度、外へ出慣れてるゴンタをのぞいては、全員およそ外出したことのないネコたちなもので、けたたましい声で「落ちた落ちた~恐いよ~」と助けを求めて家人を呼ぶのであります。

出なれてるゴンタ君は「もっけの幸い!」とばかりに悠々と散歩に出かけるのですが、出たことのないネコ達は、落ちたその場で固まってしまい微動だにしないで、悲鳴を上げる。  
「あ、またや!」と手にまず鍵を持ち、(慌ててこれを持たずに出ようものなら自動ロックでドアが閉まって、鍵を持つ誰かが帰宅するまで家には入れない・・・)、走って玄関口を出、車庫のある裏手の階下へと拾いに行くのです。  

先日もその突然のネコの泣き声で「ありゃ!」と思い、窓から顔を出して見ると案の定。 「あらら、べべちゃん、落っこったのね。そっから動いちゃだめよ~、今迎えにいくから。」と叫んでましたら、階下のおばさん
とその小学生の息子、同じく窓から顔出して上を見上げながら言うことにゃ、
「今日も二階からネコが降ったん~~~、あははは」・・・   

上からしょっちゅうネコが降ってくるとこって世界中探したってそうザラにはあらへんで・・・思わず、「晴れ、ときどきネコやな・・・」ボソッと呟いてしまったわたしでありました。
と、綴ったのは随分昔のことです。
今では猫メンバーは少し代わり、上に登場するゴンタとべべ2匹とも、もうあちらの世界に逝きました。そして、途中から我が家に来たホームレスネコのチビとゴローが加わり、現在我が家には4匹のネコがいます。

息子と娘も日本に住み、変わったのは猫メンバーだけではなく、我が家のポルトの家族構成も夫と私の二人になりました。そんな生活の日々のつい先ごろのことです。

夕方7時、晩御飯のため台所に立って野菜を刻んでいました。ポルトガルはただ今夏時間で、空がまだ真昼間のように明るい時間です。

かすかに猫の鳴き声を聞いたような気がして、慌てて我が家の猫の数を確認しました。全員います。なんだ、気のせいかと思い、再び台所であれこれしていると、やはり聞こえるのです、ねこの鳴き声が。

いったいどこからだろうかと、まず、台所のベランダから顔を出し、上を見上げると、ぎゃ!、子猫が上の階の洗濯物にぶら下がってるじゃん!


写真はこの事件後に撮ったのですが、子猫は干してあるジーンズにぶら下がって必死に助けを求めた鳴いていたのです。
「おーい、カルロスさん!てぇへんだぁ!」と、早めに帰宅していた夫を呼び、「見て見て!子猫が!」

下はコンクリのパテオですから、落ちたら小さい猫は恐らくひとたまりもないと思われ、慌てふためいてイスを持ち出してくるわたしに、「おい、これこそ今度は君が危ないよ」とたしなめられ。

そのうち、階下の住人も気付き、車庫の前のコンクリ庭に集まってきました。その間も子猫は必死に鳴いています。

咄嗟に夫は小さなカーペットを持ち出し、図のように三本連なる洗濯ロープの上に広げました。



しかし、カーペットだけでは心もとない。そこで大急ぎで我が家の猫の寝カゴの小さいほうを持って来てカーペットの上に置き、夫はそれを手で押さえました。下では見上げているアパートの住人たちが「Coitadinho!(可哀相に)」を連発しています。

いよいよ、力尽きた子猫、ついに落ちました。しっかりポーンと寝カゴの真ん中に!夫からそれを受けとり、ひとまず安心してもらうため、腕にダッコしました。小さな心臓がドキドキしていましたが、やがて少し安心したのか、のどをゴロゴロ鳴らし始めました。
下がその寝カゴとともに、すぐ我が家の台所に入った子猫です。



律儀子猫で、まずは自分と同種のペトにご挨拶の様子(笑)

ちゃんと相手をしてあげたのは、ペトだけで、我が家のほかの3匹は、チビの新参者はかなわん、とでも言うかの如く、そそくさとどこかへ姿を隠しました。




我が家は2階のフラットなのですが、3階で子猫を買っているのをこのことで知りました。猫は身軽ですばしっこい動物です。何匹も飼ってきて、我が家の猫たちも一通り窓から落ちて慌てふためいた経験をしていますから、わたしは、ペットを飼っている時に気をつけるべきことの一つとして、窓を開け放して出かけないことを挙げます。

きっと子猫だから、まさか窓までよじ登るとは思いもしなかったのでしょう。夜、10時ごろ、我が家のチャイムが鳴り、若いお母さんと子どもが「すみません」と受け取りに来たときは、子猫ちゃん、我が家での冒険をさんざんして、ご飯も済み、猫ベッドで寝ていたのでした。 小さなお客さま、お帰りです。

今頃、上の階の人、子猫が必死にぶら下がった爪あとだらけのジーンズを手にし、がっかりしていることでしょう。
久しぶりに子どもたちがいた頃の、「晴れ、ときどきネコ」を思い出したのでした。