ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

spacesis 危うし!挫折?(1)

2018-04-27 06:27:34 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月27日

これには参った!
たいがいのことでは、そう簡単に音を上げるわたしではありません。が、クラス編成前のテスト成績が運悪く良かったのか(^^;)、Reading Comprehension(読解力)はとてつもなく難しいクラスに入れられた・・・これは、文法が得意な日本人によくありがちなことのようです。クラスでは長文を読んで質問に答えていくのだが、語彙力不足でチンプンカンプン、トホホでありました。クラスで日本人はわたしがただ一人です。周囲の様子をそぉ~っと目で探って見ると、みな平然とした顔であります。

前もって予習できるテキストを使う分にはなんとかできる。しかし、突発的にクラスで配られるそのReadingテキスト、クラスでパァ~ッと読んですぐ答えろなんて、あぁた、きついよ、そりゃ。この手の授業形態はまさに実力を試すもの。もう泣きたい思いです。

前もって予習できるテキストも10ページやそこらではありまへん。ぎっしり言葉がつまったページが30、40ページとあり、未知の単語を一語一語拾い上げて、辞書と首っぴきでしても、他の科目の宿題もあり、一晩かかってもしきれない・・・10日ほどねばってみたけど、ダメダこりゃ。歯がたたないや。思い余って授業終了後のある日、クラス担当のMrs.Chisholmに掛け合いに行きました。

「レベル、間違ってますよ。とてもこのクラスでみんなとやっていく能力ありません。」
と、音を上げるわたしを先生はじっと見つめます。少し間を置いて返ってきた彼女の返答は、
「後2週間がんばってひっついて来なさい。」

あと2週間も、このクラスで悶々としてダンマリなんて、止めてくれ~。こんな心の叫びも素知らぬ顔のMrs.Chisholm、そう言い残してサッサと行ってしまわれた。更に2週間ほどたった金曜日、「月曜日はテストをします。この本を読んでらっしゃい。」と全員に仰せられる。よ、読んでらっしゃいって、あぁた、一冊の分厚い本じゃないですか・・・

手渡されたのは、スタインベックの「Travel with Charlie」でありました。1960年代の「アメリカを探して」と副題がつく、スタインベックのロードトリップもので、愛犬のプードル、チャーリーとともに、ドン・キホーテの馬に因んで「ロシナンテ」と著者が名づけたキャンピングカーで、ニューヨークから西海岸カリフォルニア、スタインベックの故郷であるサリナスに辿りつき、再び大陸を横切ってニューヨークへ帰る1万マイル(16000キロ)の旅を綴ったものです。

クラスで既に音を上げがちなわたしである。いかにして週末明けのテストに臨むことができるのか、おそろしや・・

アリゾナの空は青かった:Mornig has broken

2018-04-21 22:09:55 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年420月日


登校初日の試験結果によるクラス分けも決まりESLコースの初日の授業は緊張の「Audio-Lingual」である。読み、読解、質問の受け答えです。

教室に入るなり驚いた。生徒用の机が黒板向きにズラリと並んでいるのは、どこでも同じだが、それぞれの机には目隠し用に前左右と仕切りがあり、ヘッドフォン、マイクが取り付けられていた。今ではどうということのない光景でしょうが、今から36、7年も昔のことで、わたしにと
って始めて目にする設備でした。

正面にある講師の机に仕切りはないので、生徒からは講師が見えるのである。生徒たちはヘッドフォンを通して講師の声を聞く。使用するテキストには、とある、架空の国が設定されており、その国の政治、経済、地理、文化等を学ぶ様式になっていて、興味深かった。

このクラスで印象に残ったのは、生徒の緊張感をほぐそうとしてか、授業の初めには毎回必ず講師がPop musicを流してくれることである。これはかなり嬉しかった。様々な国から語学研修に留学してきている生徒たちにとって、Pop musicは世界共通の言語とも言えよう。わたしのみならず、他の生徒たちもこれである程度気分的にリラックスできたのは間違いない。

講師はMr.Jensen。 30代前半と思われ、アメリカ人にしては小柄であったが、なかなかのイケメンではありました。一度わたしは、授業も終わって彼が後片付けしているところへ行き、
「朝の音楽、リクエスト可能ですか?」
「Yes, you may」

そうして、翌日ヘッドフォンを通して流れて来た音楽は、わたしがリクエストしたものでした。「クラスのyukoのリクエストです」と前置きして、わたしがAudioクラスにいる間、この曲を何度も流してくれたのでした^^
 
何の曲かって言うと、キャッツ・スティーブンスの「Morning has broken」。
大阪にいた時分からテレビこそ持たなかったが、音質のいいステレオには目がなく、新しいLPレコードを購入するのが楽しみのひとつだったかな?

そのたくさんのLPがある中で、たった一枚選んで、アメリカ行きの旅行カバンに入れたのは、ジョルジュ・ムスタキでしたが、キャッツ・スティーブンスも、この歌を始め、「Peace Train」 「Father and Son」, 「Oh Very Young」など、あの頃とても好きな歌でした。

この歌をわたしはもう一度、今度はポルトガルで耳にするのでありました。

我がモイケル娘がOporto British Schoolの小学部に入っていた頃です。いつものように、午後3時半の授業が終わる時間に合わせて車で迎えに行き、その帰りに彼女が突然「今日学校で習ったよ」と車の中で歌いだしたのです。
    
     ♪Morning has broken like the first morning
      Blackbird has spoken like the first bird      
      Praise for the singing, praise for the morning
      Praise for the springing fresh from the Word

おお!それは母が好きな歌であるぞ、と勿論はしゃいだわけだが、「キャッツ・スティーブンスの歌を教えるなど、学校もなかなか進んでるではないの^^」と思いましたら、この歌はイギリスの古いフォークソングで、賛美歌444番にあるのだそうです。
    
    世のはじめさながらに 朝日照り 鳥歌う 
    讃えよ 新しき歌を 讃えよ 新しき朝を

とでも訳せるのでしょうか。

歌ひとつとの出会いをとってしても、こうして世の中のことは連鎖になってるのだなぁ、と思わされたものでした。



判子に見る日本社会の縮図

2018-04-14 22:48:20 | 家族の話
2018年4月14日


子供たちが学校時代に書いた絵やプロジェクト作品は、月日が経ってから何かの拍子に物置部屋の奥からひょいと顔を出し、引っ張り出して見ていると、いつの間にやら、時間の経つのも忘れて見入ってしまうことになる。

息子と娘の作品が我が家にはたくさん保存されてある。それらの多くは大きい絵で、捨てるにも忍びない。かと言ってこのままでは整理がつかない。
   
そこでわたしはそれらの作品をデジタルカメラに撮って保存することを思いついた。そうすると、場所も取らないし原作が変色したり傷んだりしても心配せずに済む。

色々な絵やプロジェクト作品の中で、わたしが傑作だと思うものの一つに娘が書いた、ある図がある。

モイケル娘が16歳頃に補習校でスピーチした、「(日本社会に於いて)自己主張はどこまで許容されるか」に使用して聴衆を笑わせた図だ。わたしはこの絵を見るたびに「あっはっはっは!」と笑わずにはいられない。ほんと、これ、ツッコミがうまいのである。そう思うのは親バカのわたしだけでしょうか(笑)
    
国語教科での敬語、謙譲語の学習を通じて、日本社会で自己主張は果たしてどの程度まで許されるものなのか、という彼女の疑問とリミットについて自分の体験から、日本とポルトガルを比較して作文を書いたようだ。全文を載せるわけにはいきませんが、この図を提示する文の箇所を抜粋して見ました。(娘、事後承諾^^;)
    
以下抜粋。
      
ー日本社会について色々調べていたら、ある日会社内でのおもしろい習慣をインターネットで発見しました。
書類などで判子を押すとき、「偉くない人」から「偉い人」の順で判子の大きさが変わるというのです。

全員が社内で判子を押し終わったところ、捺印欄の左側の一番小さい判から少しずつ印鑑の直径が大きくなってゆき、最後の一番エライ人の判はなんと欄からはみ出て堂々と自分の偉大さを誇示しているではないですか。そこに載せられていた図をみたときは思わず笑ってしまいました。ー
     

抜粋終わり。
     
右上がりに判子が大きくなっていく図を、本人は自分の好きなようにアレンジして、こういう具合に仕上げてみたようです。


                      ↑↑↑
課長欄外太い矢印の下、「少しえらいので調子にのっていばってみた「出る判子は打たれる」の下には、「この人は降格決定」とある^^;  

この仕上げを見せられた時には、ひとしきり大笑いした後、思わず「モイちゃん、ほんま、あんたうまいこと書く!」と我が子ながら感心してしまった。
 
会社社会にどっぷり浸かっていると、当たり前のこととやり過ごしてしまうこの判子社会縮図。う~んとわたしはうなってしまうのである(w)実に「言いえて妙」だ^^;大阪の堂島にあったオフィスで勤めていた頃は、会社の角印と所長の印が大きいのは知っていたが、部課長の印にまで気をつけて見た覚えもなし。いたってのほほんとしたタイピストであったわたしだ。

こんな何気ないことではあるが、モイケル風に物事を面白おかしく捉えられるたら、時には世知辛い世の中も「わっはっは」と笑って少しは気楽になれるかも知れない。こんなところは何事も深刻に思いつめないポルトガル人かたぎかな?と思ったりする。

美しきわたしの日本

2018-04-11 20:54:44 | 日本のこと
2018年4月11日

今日はツーソン留学紀は休んで。 

わたしの故郷は弘前である。4月に入るや、外国では耳慣れない「さくら前線」という言葉が踊りだし、日本列島は南から北へ北へとさくらの花で埋め尽くされて行く。

南でさくらが咲く頃、北国はまだ早春で長い冬の衣を脱ぎ捨てるのを今か今かと待ち構えている。春の訪れとともに一斉に芽吹き息づく花々を見ては、毎年決まってポルトにいながらわたしは日本の春を、さくらの春を、さくらの弘前を恋い焦がれるのである。


数年前に弘前で買い求めたもの。今は手元に置いてあり、いつでも手にとって眺められる。

「敷島の やまとごころを人問わば あさひににおう山桜花」
 
高校時代教の科書に出てきた本居宣長の歌である。あの頃はただただ外国に憧れ、やまとごころのなんたるかに目を向けることもなかった。ポルトガルという異文化に長い間身を置いて初めて自分の日本人のルーツに心を向け始めたと思う。

その折に、この本居宣長の歌は透明の水の中に、あたかもペンから一滴の青インクが滴り落ちて、静かに環を広げて行くかのように、記憶の向こうからやって来たのである。

本居宣長のこの歌には、色々な解釈があるようだ。「やまとごころ」を「武士道」と照らし合わせる解釈もあるが、大和人は男だけではないからして、わたしはもっと平たく、日本人の心と解釈することにしている。

日本人の心とはなんであろうか。そんな大それたことをわたしには論ずることはできないが、祖国を40年近くも離れて異国に住む一人の日本人として綴ってみたいと思った。

作家曽野綾子さんのエッセイに、4月に成田上空にさしかかった時の経験を書いたものがあった。

曇り空の下に点々と枯れ木にしか見えない木々があった。大変だなあ、今年はあんなに木が枯れた、と思ってからギョッとしたのだそうな。 ひょっとすると桜ではないかと。果たしてその通りで、飛行機が次第に高度を下げて来て、枯れ木としか見えなかった木々がわずかに色彩の変化を見せ、桜となったのだそうだが、機内の外国人客は、誰一人としてさくらに反応を示した様子は見られなかった。この時初めて、桜は花の下で見るものなのかもしれないと思った、(ここまで要約)と。

わたしはこれを読んだ時、軽いショックを受けると同時に、日頃、日本語クラスで日本文化の話に及ぶとき、ついつい「さくら」の美しさを、目を細め熱っぽく語ってしまう自分の姿を思い浮かべたのだ。

桜への思い入れは、日本人独特のものではないだろうか。そうして見ると、秋の紅葉や真っ白い雪の中に映える「寒椿」等にも、わたしたちは深い思いがあるように思われる。このような光景を思い浮かべるだけでわたしの胸には美しき天然へのなんとも言われぬ懐かしさがこみ上げてくる。

また、詩人、大岡信さんが京都嵯峨野に住む染色家、志村ふくみさんの織物を綴っていたことがある。美しい桜色に染まった糸で織ったその着物のピンクは、淡いようで、しかも燃えるような強さを内に秘め、華やかでいながら深く落ち着いている色であった。その色に目と心を吸い込まれるように感じた詩人は、桜から取り出した色だという志村さんの言葉に、花びらを煮詰めて色を取り出したのだろうと思ったのだそうである。

しかし、それは、実際には、あの黒っぽいごつごつした桜の皮から取り出した色なのだった。しかも、一年中どの季節でもとれるわけではなく、桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると言う。「春先、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿。花びらのピンクは幹のピンク、樹木のピンク、樹液のピンクであり、花びらはそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものに過ぎなかった」(要約)

この詩人は、「言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だと言ってもいい。これは言葉の世界での出来事と同じではないかという気がする」と言うのですが、わたしは詩人のエッセイにも、そして嵯峨野の染色家にも、いたく心惹かれて、ずっとこのエッセイに書かれてある言葉が心に残っている。

さくらに限らず、異国の町を車で走りぬけるときも、日本ほどではないが、それなりの季節の移り変わりを見せてくれる景色はある。車を走らせながらも、目前に広がる大きな並木道に 「あぁ、きれい。春やなぁ。秋やなぁ」と、思わずその移り変わる季節の匂いを空間に感じる。

とは言え、ひとひらの花びらを、一枚の紅葉を、そっと拾い上げて日記に仕舞い込む。ポルトガルの生活の中で、こんなことを密かにしている人は、何人とはいないであろう。



そんな時、わたしは自分の中のやまとごころがふと顔を出すように思う。無意識のうちに、自分に密かに語りかける自然の声が聞こえる気がするのだ。大自然が広がるアメリカやカナダにも、そういう人はいるだろうが、わたしのような、極々一般の人間でも、そういう感覚は多くの日本人が持っていると思う。花を愛で、はらはらと散り逝く花の潔さと儚さに美学を見るのは日本人の特性なのだと異国に長年住んで今はしきりに思える。   
  
今年も弘前にさくらが咲く季節になった。

アリゾナの空は青かった【5】:おどろき桃の木さんしょの木

2018-04-09 15:38:05 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月9日

アリゾナ大学は、ソノラ砂漠にあるツーソンの町に位置する。
考古学、天文学でも世界に名を馳せる大学だというのは後で知ったことである。北へ160キロのところには、州都フェニックスがあり、南へ100キロほどソノラ砂漠をつっきると、やがてメキシコ国境、ノガレスにぶつかる。

わたしの大学での第一日目は、ESL((English as a Second Language)クラス編成の試験であった。

大学のキャンパスはNorth 2nd Avenueをまっすぐ行ったつきあたりにあり、徒歩で7、8分だ。初日朝、シャワーを浴び、すぐそばにあるマーケットで前日買い入れたコーンフレークスにバナナの輪切りと牛乳を加えての朝食を終えた。8時過ぎ、「いよいよ始まるぞ!」とわたしは興奮で高まる胸をおさえ、キャンパスに向かった。

広いキャンパスの入り口近くの一角に、ESLセンターの建物はあり、そこの数箇所の教室での試験である。留学生はメキシコ、ブラジル、ベネズエラなどの南米からのみならず、ヨーロッパからも来ていた。そして、当時のオイルマネーを使ってのアラブ諸国からの留学生のなんとまぁ多かったことか。


1月だと言うのに、上半身裸でブーメランに興じる学生。下はWikiから。現在のキャンパス内。緑が増えた。


受験票を渡されてウロウロ教室を探し回り、無事時間いっぱいに試験を終えて廊下に出てみると、各国のグループがかたまってお互いを紹介しあったりして、廊下は人だかりでにぎわっていた。大学ではまだ知っている人が誰もいないわたしは、廊下の片隅でそれらの様子を眺めていた。

すると、「あ、あれぇ~、まさか・・・まさか・・・」日本人グループの中に見覚えのある顔が見えたのだ。

そんなはずがあるわけもない、と当惑の面持ちで、念のためにとその日本人が固まっているグループに、そぞろ近づいてみた。
「ほ、ほ、ほ、ほんざわちゃん!!」

このときの驚きたるや、推して知るべし!大阪のオフィスで退職するまでの6年間を同じ事務所で共に仕事をして来た営業マンのら「ザワちゃん」(あの頃、ビアハウスにも登場している)と呼ばれていた同僚がいるではないか!

なんでやの?なんでザワちゃんがここにおるんよ?おどろき桃の木山椒の木です!
あまりの驚きに人目も構わずみぎて人差し指で彼を指し、「ザ、ザワちゃん!」と日本語で叫んでしまったわたしでありました。

実は、わたしは12月のボーナスが出るや即座に退職し、大阪のアパートを引き払って渡米するまで、横浜のおば宅に居候して、羽田空港から飛び立って来たのであるが、ザワちゃんはと言えば、わたしのすぐ後に退職し、日を違えて渡米して来たのこと。

しかし、広いアメリカやのに、なんで、なんで同じ大学やのよ・・・それをさて置いても、一緒に会社で騒いだ間柄なのに、なんで一言も「ボクも同じとこに留学すんねんで~」と言わんかったのよ・・・

と、このように、大学第一日目からして、波乱万丈の兆しで我が大学生活は幕開けとなったのであります。