ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

あの頃ビア・ハウス:第4話:「知床旅情」

2018-01-31 16:33:09 | あの頃、ビアハウス
2018年1月31日        
  
   
「知床旅情」は「琵琶湖周航の歌」とともに、わたしがアサヒでよく歌った歌である。この歌はわたしの「青春の彷徨」の歌とも言える。数十年たった今でも、「知床旅情」を歌うとき、心は19の歳の彷徨時代にもどるのだ。

  ♪知床の岬に はまなすの咲く頃
  思い出しておくれ 俺たちのことを
  飲んで騒いで おかにのぼれば~

アサヒビアハウスでは「知床旅情」はベルリンオリンピック水泳競技ゴールドメダリストで常連の葉室鉄夫氏が披露する歌で、わたしも一緒にステージにあげられ、よく氏とデュエットをしたものだ。「君を今宵こそ抱きしめんと~」のところで、氏はそっとわたしの肩を引き寄せるだが、まことに紳士的な方であった。


だきしめんと~で、こういう具合に↑笑

加藤登紀子さんが歌って大ヒットした歌だが、実はこの歌、ヒットする以前にわたしは既に森繁久彌の歌として知っていた、好きな歌だった。

大学進学を諦めきれず、グズグズしていたわたしは就職の機会も取り逃がし、お金もないのに高校卒業後上京したり帰郷したりの繰り返しだった。親の心配をよそにフーテンの寅さんの如くウロウロしていたのです。この親の心配はその後を経ても後を絶たず、イギリスへ、アメリカへ、果てはポルトガルに流れ着くこととなってしまったわけではある。

19の歳の9月、親に告げることもなく青森港から連絡船に乗り函館を抜けて、わたしが札幌に辿り着いたのはもう夜であった。この時生まれて初めて札幌の豊平川のほとりで野宿とやらを経験したのでした。川のほとりに腰を下ろし、一晩中水の流れに聞き入って夜を過ごしたのです。

芭蕉の「奥の細道」のようだ、なんてとても気取っておられません。内地ではまだ残暑ある9月も、北海道では冬支度に入る月だということを、このとき知ったのでした。とにかく寒かったのが記憶に残っている。

札幌には一月ほどいた。その間、行きずりの親切な人たちと知り合いになり、すすき野界隈の歌声喫茶に入ったりして、記憶違い出なければそこで知ったのが「知床旅情」とだったと思う。後年、加藤登紀子さんが歌いヒットしたのを耳にしたときは、「え?」と思ったものである。

ちなみに、この歌は「地の涯に生きるもの」という知床を舞台にした森繁久弥主演の映画撮影のときに彼によって作られ、北海道から広まった歌だと聞く。「地の涯に生きるもの」はずっと昔、子供のころに学校の映画教室で見たのだが忘れられない映画です。

春が来て再び猟師たちが知床を訪れるまでの長い冬の間、たった独り、番屋で猫たちと暮らす森繁演ずる老人が、流氷に乗って流されて行こうとする猫を救おうと、足を踏み外し海氷の割れ目から海に落ち、誰にも知られず命を落とす。忘れることができないラストシーンであった。

わたしが19の頃、知床はまだ人跡未踏のさい果ての地ではありました。

葉室先生については、2005年の日記に書いてあります。

2005年10月31日(月曜日)(1)

今朝はネットで小泉第3次内閣の記事を読み終え、何気なく下段へ目をやりますと、スポーツ欄で、知っている方の名前を見かけ、思わず「え!」と声を出てしまいました。

「ベルリン五輪の金メダリスト・葉室鉄夫さん死去」とありました。この年、女子競技では前畑秀子も(ラジオアナウンサーの「前畑がんばれ前畑がんばれ!」の声援があまりにも有名です)メダルをとったのです。

葉室先生は、我が青春のビアハウス時代のお仲間でした。昨年(2004年)の帰国時に、当時の仲間が旧ビアハウスがあった場所で、今は「アサヒスーパードライ梅田」に集まってくれましたが、その時にはお目にかかれませんでした。
でも、数年前に、ビアハウスの歌姫先輩、堺の宝嬢宅におじゃましたときには、随分久しぶりに電話でお話したものです。

温厚で笑顔が絶えない葉室先生でした。「あの頃ビア・ハウス:知床旅情」に少し登場していただいてますが、この歌は、先生が
いらっしゃるときは、(しょっちゅういらしてましたがw)必ず歌われました。

「君を今宵こそ 抱きしめんと~」で、そぉっとわたしの肩を引き寄せるのです^^いえね、これは、わたしだけではなくて、わたしが歌えないときは、宝嬢がこの役を仰せ使うわけでして^^。 要はステージでのジェスチュアなのです。

奥様ともよくいらっしゃいました。


左から、ドイツ民族衣装を身に付けた我が先輩歌姫「宝木嬢」、葉室先生夫妻。

毎年ビアハウスで行われた「オクトーバー・フェスト」(ドイツのビア祭)では、ドイツの民族衣装をつけた楽団が入り、ドイツ領事、その他のドイツ人が入ったりと、まさに、ドイツ形式そのままのお祭になるのですが、このとき、乾杯の音頭をとるのは決まって葉室先生でした。


1970年代、旧梅新アサヒビアハウスでの定例オクトーバーフェスト

何年か前に「文芸春秋」で偶然先生が書かれた記事を読んだことがありますが、ベルリン五輪で、間近にヒットラーに会った、と言うことに触れておられました。

今朝は早速、宝嬢宅へ電話を入れてみましたが、返答がありません。恐らく彼女は、先生のご自宅の方へ行っているのでしょう。今年はアサヒ・ビアハウス黄金時代の店長だった塩さんに続き(塩さんのエピソードは後日に)、葉室先生も、あちらのお仲間になられました。

知っている仲間が一人また一人と、地上から姿を消して行くのは、寂しいことではありますが、歌とビールをこよなく愛したみなさんです、きっと地上の星となり、彼岸の向こうで再会を祝って、「Ein Prosit ein Prosit der Gemutlichkeit!」(ドイツ語、乾杯!
の意味)とビア杯をあげていることでしょう。

次回は「しゃれこうべと大砲」です。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。

轟く海辺の妻の墓

2018-01-30 23:10:37 | 
2018年1月30日 

今日はビアハウスの話を休んで。

海の上で太陽が光を雲間に閉じ込められながら、かろうじて姿を見せている一枚の写真があります。


これは2016年に三度目にここを訪れた時に撮った写真ですが、カラーを白黒にしてみたわけではなく、目まぐるしく天気が変化するロカ岬でスマホを利用して撮影したものです。暗い画像に、わたしはある詩の一行、「どろく海辺の妻の墓」を思い出したのでした。


高校時代には、苦手な理数系の勉強はほったらかしに、フランス文学、ロシア文学、ドイツ文学の著名なものを図書館から借り出しては、外国文学の起承転結の明確なところにわたしは心を躍らし、片っ端から読みふけったものです。

そして、20歳頃にグワッとのめりこんだのに、松本清張シリーズがあります。「黒い画集」から始まり、清張の作品のかなりを読了しました。「社会派推理小説」と当時呼ばれた清張の作品は、大人の匂いがプンプンして、20歳のわたしには世の中の理不尽や犯罪に駆り立てられる人の心理を、こっそり覗いたような不思議な刺激がありました。 

それらの中でも特に心に残ったのは、霧の旗、砂の器、ゼロの焦点です。つい先ごろ、この「ゼロの焦点」をもう一度読み返す機会があり、思い出したのです。20歳の頃、気になりながら当時は調べようもなかった詩の1節がその本の中にあったことを。

In her tomb by the sounding sea. とどろく海辺の妻(彼女)の墓

訳が素敵だと今も思います。

戦後の混乱期の自分の職業を隠し、今では地方の上流社会で名をしられている妻が、過去を隠さんがため犯罪を犯す。やがて追い詰められ、冬の日本海の荒れた海にひとり小船を出して沖へ沖へと漕いでいく愛する妻をなす術もなくじっと見送る年老いた夫の姿を描くラストシーンに出てくる英詩です。

当時、この詩がいったい誰によって書かれたものなのか分からないまま長い年月の記憶の彼方に押しやられていたのでした。改めてこの本を読み終わりgoogleで検索してみよう!とハッと思いついた。英文でそのままキーワードとして打ち込みました。

おお!出た!出たではないか!一編の詩に行き着きました。しかも、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは作家、翻訳家でもあり、エドガー・アラン・ポーの訳詩もしていましており、この詩に行き着きました。

この詩は、「Annabel Lee=アナベル・リー」と題されるエドガー・アラン・ポーの最後の作品なのでした。(詩全部をお読みになりたい方はWikipediaでアナベル・リーと検索すると出てきます)

詩、「アナベル・リー」は、14歳でポーと結婚し、24歳で亡くなった妻ヴァージニアへの愛を謳ったものだそうで、ポー最後の詩だとされています。

「とどろく海辺の妻の墓」は、その詩の最後の1節です。エドガー・アラン・ポーといいますと、わたしなどは、「アッシャー家の滅亡」の幽鬼推理小説家としての一面しか知らず、詩人でもあったとは。無知なり。

Wikipediaで検索しますと、ポーの大まかな半生が書かれていますが、残した作品に違わない(たがわない)ような激しい愛の一生を終えた人です。

40年近くも経ってようやく、「ゼロの焦点」のラストシーンと、このポーの人生の結晶である「アナベル・リー」の詩がつながったのでした。

ロカ岬の暗い画像から、リスボンの詩人フェルナンド・ペソア、そして、ポーのアナベル・リー、松本清張のゼロの焦点ラストシーンとつながるとは奇遇なことです。

う~ん、これは清張ばりで行くと「点と線」が繋がったとでも言えるかしら。

本日も読んでいただきありがとうございます。

あの頃ビア・ハウス:第3話:「六甲おろし」

2018-01-29 16:46:20 | あの頃、ビアハウス
2018年1月29日

1970年代も後半、わたしが心密かに「人生のるつぼ」と呼んでいた大阪、梅田新道にあったアサヒ・ビアハウスでのできごとをレトロ感覚で綴ります。

1970年代の梅新ビア・ハウス夕方6時半ともなると、ホールは満席になるほど盛況であった。常連が多く、明らかに彼らがビアハウスの雰囲気を盛り上げる一端を担っていた。
        
その常連はと言うと二組に分かれていた。毎日欠かさず通ってくる「毎日常連」と、決まった曜日に来る「曜日常連」とわたしは名付けていた。彼らはみなそれぞれに一曲だけ持ち歌があり、ビア・ハウスに来る客の中には、歌姫のよりも彼らの歌を聞くのを楽しみに来る客も多いのである。

 ↑知る人ぞ知る小さな丸テーブルを囲むアサヒ常連の立ち飲み席。どこの店でも常連の席を確保するものであるが、アサヒでは常連自らが立ち飲み席を陣取る。

さて、野球のシーズンともなれば、ビア・ハウス内のそこここで、タイガースファンこと「トラきち」(タイガース気狂い)が席を陣取ることになる。みな口角泡とばし、贔屓チームの持論を振り回すのである。このシーズンは毎日常連の杉ヤンの出番である。

杉ヤンは仕事が退けたあと、自ら一日の労をねぎらうために、毎夕帰途にあるこのビアハウスに足を運んで来る常連の中の常連で、自他ともに認める「トラきち」である。

「杉ヤン、六甲おろし、行け!」場内の興もたけなわになったころ、ヨシさんのアコーディオンが杉ヤンを呼ぶ。

♪六甲おろしにさっそうと
      そう天かける日輪の~
      
で始まり、
♪お!お!お!おー、阪神タイガース

と、場内は沸きに沸く。

 体を前後に揺らしてリズムをとり、声張り上げて応援歌を歌う杉やんスタイル。

すると、「六甲おろし」の直後に、すかさず出てくるのが対抗歌「巨人の星」の主題歌「行け行け飛雄馬」だ。
     
♪思い込んだら試練の道を
  行くが男のど根性
  真っ赤に燃える王者のしるし
  巨人の星をつかむまで~

どこかに必ずいるものです、巨人ファン。
オー!オー!とあちこちで気勢があがり、場内はまさに総立ちの景観。これを見ては、映画「カサブランカ」において、ハンフリー・ボガード扮するリックの酒場でナチ将校たちが歌うドイツ国歌に負けじと、反対のコーナーからフランス人達がいっせいに「ラ・マルセーズ」を歌い、火のような対決の二つの合唱がかちあう場面をわたしは思い出してしまいます。

後年、よくその場面を思い浮かべては、わたしは古き良き時代の梅新ビアハウスに思いを馳せます。「六甲おろし」と「巨人の星」は、わたしの中の「カサブランカ」にも等しいのである。 

ついでに後日談を付け加えると、この杉ヤン62歳にして、2003年にタイガース応援歌「みごと優勝!ザ・タイガース・オンド」を歌ってテイチクからデビュー!30年ただ一筋に「六甲おろし」を歌ってきた甲斐があると言うものです。
 
いや~、人生ってこれだから面白い!
「アサヒビアハウス梅田」から、アサヒスーパードライ梅田に名前は変わり、店内は昔の
面影はありませんが、そこへ行けば、今でも杉ヤンに会えると思います。

あの頃、ビアハウス:ただ一度の贈り物(Das gibt's nur einmal)

2018-01-28 20:08:58 | あの頃、ビアハウス
2018年1月28日        
   

 当時のアサヒビアハウス梅田

二次会会場として会社の仲間と流れ込んだアサヒ・ビアハウス」の持つ雰囲気に魅せられ、わたしはやがてオフィスの仕事を終えた後一人でも行くようになった。結構度胸があったのである。

女一人の出入りが珍しいことが手伝ってか、しばらく通ううちにまもなく顔パスの常連のようになった実を言うと払わなくても生ビールを飲めるようになったのである。
   
なに、もう時効だから種を明かしてしまうと、店長の塩さんやその他、立ち飲み席にいる常連さん達がおごりで差し入れてくれたのでした。そうして通ううちに店長の塩さんと歌姫宝木嬢にスカウトされた形で、いつの間にかわたしは週に4回、6時半から閉店の9時まで、会社が退けた後、アサヒ・ビア・ハウスの小さなステージで歌うことになった。

しかし、わたしがビア・ハウスで歌うように要請されたのは、自分がこれまで歌ったことがない、ほとんど耳にしたこともないドイツ語の歌である。

どうする?英語ならなんとかなりそうだが、ドイツ語など、まして歌の基礎を習ったこともないわたしにできるか?楽譜は読めるし音感ならいいのでメロディーはすぐ覚えられるが・・・・今なら、ネット検索してカタカナ読みで誤魔化しもきくだろうが、当時のコンピューターと言えば、我がオフィスの本社にあったような巨大なアナログコンピュータがであった。与えられたドイツ語の歌詞を手に、正直言ってわたしは途方にくれた。  
     
アサヒビアハウスへ遊びに行く度に、宝木嬢が歌いホールの聞き手の常連が大いに盛り上がる好きな歌があった。
         
♪ダス・ギブツ・ヌア・アインマル 
 あこがれの楽園に  夢見る喜び
 ただ一度  二度とない
 あわれ  そは夢か
 春の日はただ一度  春の花もひととき
       

1934年のドイツ映画オペレッタの最高傑作と言われる「会議は踊る」の主題歌「ただ一度の贈り物(Das gibt's nur ein mal)」である。ナポレオン敗退後のヨーロッパをどのようにまとめていくか。オーストリアの名宰相メッテルニッヒが諸国の代表を招いて開いた、世に言う「ウィーン会議」を舞台にしている。

その会議に出席するため、ウィーンを訪れていた若きロシア皇帝アレキサンダー一世と市井の人、手袋屋の娘クリステルのときめきのひと時、そして、皇帝差し向けの華麗な馬車の人となって、皇帝の滞在する邸へ向かいながら、クリステルが喜びを絶唱する歌が、

  ♪ Wein' ich? Lach' ich?       ヴァイン イヒ ラッハ イヒ
   Träum' ich? Wach' ich?       トロイム イヒ ヴァッハ イヒ
   Heut' weiß ich nicht was ich tu'. 
   ホイ(ト) ヴァイス イヒ ニヒ(ト) ヴァス イヒ トゥー 

で、始まる「ただ一度の贈り物」だ。この心躍る楽しいメロディーを紙上で表現できないのがまことに残念である。
  
「ただ一度、二度とない、春の日はひととき、春の花もひととき」
人生もまたこの歌のごとく。ただ一度の人生を、わたしも挑戦して目一杯生きてみよう、素人ながら歌ってみようと単純なわたしはそう思い直し、自分を激励した。
  
20代も後半、わたしはドキドキする胸の動悸を抱いて、梅新アサヒ・ビア・ハウスの歌姫デビューをしたのである。

予断だが、宮崎駿氏のアニメ作品「風立ちぬ」の中で、この歌が使われているそうだ。映画の中盤、軽井沢のホテルのバーでドイツ人がこれを歌うシーンが出てくるとのこと。こう言っては何ですが、我が先輩歌姫宝木嬢の「ただ一度の贈り物」は本当に素晴らしかったです。
                      

アサヒ・ビアハウスで歌い始めの頃、大先輩宝木嬢と。民族衣装を用意するお金なく、手持ちの服で了承してもらってました。        
トップ写真のアサヒビアハウスに見覚えのある方は、コメントでもいただけたら嬉しいです。


次回は「六甲おろし」です。

あの頃、ビアハウス:第1話 サントワマミー

2018-01-27 16:13:37 | あの頃、ビアハウス
2018年1月27日

記憶が薄れないうちにと、思いに任せて一挙に綴った「あの頃、ビアハウス」のエピソードを書き直してみます。歌っていた当時は意識していませんでしたが、梅新アサヒビアハウスが大阪では老舗も老舗、当時の関西経済人や文化人が毎夜集った最古のビアハウスであり、その全盛期に自分は身を置いていたという幸せを今にしてじんわり感じています。
     

ネットで拾った昭和26年のビアハウス。

アサヒビアハウスで歌われていた歌はドイツ本場のビアソングを始め、1900年代も半ばのロマン香る古き好き時代の歌が多くを占めていました。わたしが生まれる以前にこんなにも素晴らしい映画や歌が数多くあったことを、アサヒ・ビアハウスで知ることができました。

それらの歌を聴けば、思い出さずにはいられない名物客たちにまつわるエピソードを、身近に見てきたわたしが書かずしてなんとする?

稚拙な文章でもの足りないところもあるでしょうが、アサヒビアハウスを通じて人生の楽しみ方、お酒の飲み方を学ばせていただいた我が恩師たちでもある常連さんたち、そして、若い人たちが知らないであろう、あの頃のアサヒビアハウス梅田で歌われていた古き良き時代の素敵な歌の数々も併せて、わが記憶を紐解きながら、常連の名物客一人ひとりに登場していただこうと思います。


あの頃ビア・ハウス:第1話:「サン・トワ・マミー」



人は、それが苦しいことであれ楽しいことであれ、それぞれの人生に「とっておき」の話をもっているものである。わたしがここで取り上げていく話は自分のをも含めて、「ねね、あのね。」と、人に披露してみたいと思ってきた1975年からのアサヒ・ビアハウス梅田での思い出である。
  
大阪梅田新道(通称梅新)の交差点の一角に、同和火災ビルと言う古い建物があった。今ではそのビルは改築され、同和火災フェニックスタワーと名を変えて、日本の都会のどこにでもあるような、見るからにモダンな姿に変貌してしまったが、かつては重厚さと威厳を持ち備えた大理石仕込みの古いビルであった。

わたしがそこに足を踏み入れたのはホンの偶然からである。当時のわたしの勤務先は、北新地の真ん中にあり、飲みのが好きだった上司や
同僚たちと会社が退けてから毎晩のように周辺の盛り場へ繰り出しては2次会3次会へとなだれ込んでいた。アサヒ・ビアハウスは、そんなある夏の日に、わたしたちが何気なしに入り込んだ2次会会場だったのである。

御堂筋に面したビルの横の小さな入り口をくぐり階段を地下へと下りていく。そして、大きな少し重いガラスドアの向こう側に「梅新アサヒ・ビア・ハウス」の世界があった。店内は少し薄暗く、扉を開けて一歩足を踏み入れたとたん、わたしたちはホール内に充満した熱気と喧騒をドッと浴びた。オフィス仲間のわたしたち6、7人はホールの端にある分厚く古い木のテーブルに陣取り、生ビールを飲みながら
いつもの如く判で押したように、オフィスの話で盛り上がっていた。

すると、ホール中央の壁よりにある小さなステージに二人の男女が上がったと思うや、威勢のいい演奏が始まった。アコーディオンとリズムボックス、それにドイツ風の民族衣装をつけてハットをかぶった歌姫が一人、ビア・ソングを歌い始めたのだ。
  
しかし、歌姫が何曲か歌い終わるや、店内の客席から歌姫に名を呼ばれて客が立ち上がり、ビア・ジョッキ片手にステージに上がって歌い出すではないか!歌姫はといえば、3曲ほど歌っただけで、後半のステージは歌う客たちの独壇場であった。それは今で言う「カラオケ」の走りである。今のようにカラオケなどなかった時代だ、「生オケ」とでも言うべきか。

「これは愉快だ!」飲むほどに俄然気が大きくなり陽気に騒ぐ我がオフィスの飲み仲間達。「おい、yukoちゃん、おまえも歌え!」との彼らの言に、お酒が入ると調子に乗りがちなわたしは仲間のリクエストに応えんがため、かくして初めて人前でマイクをにぎったのである。

オフィス仲間の一人がホールの誰かに告げたらしく、ステージの側に来いと言う。「歌謡曲、演歌はだめです!」と歌姫嬢が言う。「あの・・・この歌、できます?」

   ♪ふたりの恋は おわったのね
   ゆるしてさえも くれないあなた
   さよならと 顔も見ないで 去っていった男の心
   楽しい夢のような あの頃を思い出せば
   サントワマミー 悲しくて 目の前が暗くなる
   サントワマミー            

サルバトール・アダモの「サン・トワ・マミー」である。

都会での女一人暮らしだったわたしである。月々の給料でカツカツの生活だったが、わたしにとって、歌は聴くことも声をだして歌うことも大きな心の慰みだった。人前で歌うことはなかったが、テレビを持たなかった当時、小さな自分のアパートにいる時はバカの一つ覚えのアルペジオでギターを伴奏に、時のたつのも忘れて歌い続けていたものだ。

ステージでなんとか歌い終わった後、客席から大きな拍手をもらい、歌のお礼にとビアハウスからもらったジョッキに一杯の生ビールを手に仲間のテーブルに戻った。わたしは、恐らく少し上気した顔だったろう。なにしろ生まれて初めて、小さいとは言え、いわゆるステージなる場に立ち、聴く人を前に歌ったのであるから。
   
「サン・トワ・マミー」はアサヒビアハウス梅田のアコーディオニスト、ヨシさんの伴奏でわたしが歌った初めての歌だった。

第2話は「ただ一度の贈り物」です。