ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

大つごもり1979:我が心のクラウディウ

2017-12-30 11:22:04 | 思い出のエッセイ

2017年12月30日 

今日は晦日、2017年も後一日を残すばかりになりました。本日はわたしがポルトガルに来た最初の年、1979年の大晦日の話です。

ポルトガル語も分からず、英語もほとんど通じない環境で、しかも当時は夫の家族である、義母、義母姉二人、つまり3人のお年寄りとの同居でありました。 いやぁ~、この6年間はもう大変なものでありました。今日のわたしの忍耐力はこの同居時代に培われたものと自負してますです。 おっと、話がついそちらの方に流れそうだ。

さて、日本人が一人もいなかったそんな環境での明け暮れ、近所の5、6歳の子供たちに「ファシスタ!」とののしられていた老犬が路上で寝ているのを表通りに面したわたしたち夫婦の部屋のベランダから毎日見ていたのでありました。今と違って当時はのんびりしたものです。この通りでは5、6匹の野良犬が道路のあちこちでゴロ寝している光景は当たり前でした。

老犬は小柄でビッコをひいており、右側の牙が少々突き出ていて、見るからに醜い。「犬だってイジメの対象になるのは、こんなのなのか」と思うと、当時の自分の孤独感も手伝って、俄然わたしはその犬に近づき始めたのです。

初めは近づくわたしを恐れて、逃げ隠れしていた老犬が次第に警戒心を解いていき、やがてわたしが玄関口で、「ヒューッ!」と口笛を吹くとすぐ飛んでく来るようになりました。それからです、庭がないからだめだ、と嫌がる義母さまを説き伏せ(ん?言葉がわからないのに、どうやって説き伏せた?そりゃぁ、あなた、身振り手振りですよん^^)、義母さま、ついに根負けして、「じゃぁ、日中は外、夜寝るときは仕方ないベランダ」ってことに相成りましてね。

「ヤッター」の気分のわたし、名前は迷うことなく、ローマ帝国の歴史上、小柄でビッコをひきもっとも皇帝らしくないと言われた「クラウディウ皇帝」からいただいて、「クラウディウ」と名づけたのでした。

忘れもしない、わたしがポルトガルに来た年の12月31日、大晦日。その日の夕暮れ時、いつもなら飛んでくるはずなのに、いくら呼んでもクラウディウは現れず。すると、近所の人が、「午前中保健所が犬捕りにやってきて他の犬たちはみな逃げたのに、クラウディウだけはその場にうずくまってしまい、網にかかってしまい連れていかれた」と言うではないか!

孤独な異国での生活で初めて心を通い合わせた相棒です、半ベソをかいて夫になんとかしてくれと泣きつきました。夫が保健所に電話で問い合わせしたところ、すでに病院送りになったとの返事。 「病院ってどこの病院?サン・ジュアン病院?あなたの病院じゃないの!」 夫はポルトの国立サン・ジュアン病院に勤めていたのです。

日も落ちかけた大晦日、わたしは夫とともに人がいなくなった病院の実験薬殺用の犬たちが入れられている檻のある棟に忍び込みました・・・

高い網で周囲をとりかこんだその大きな檻には何十匹もの犬たちがうろうろ不安な眼をして動き回ったりうずくまったり。それは見るからに心の痛む光景でした。

こんなたくさんの犬の中に本当にクラウディウはいるのだろうかと思いながら、低い声で必死に叫びました。「クラウディウ、クラウディウ」
やがて檻のずっと奥の方からヨロヨロと出てきたクラウディウは、わたしたちを見るなり喜び吠えです。

しかし、どうやって檻から出すのか?・・・・・ すると、あった!犬が逃げようと試みでもしたのだろう、網の一部が破れてる!夫が素手でそこをこじあけこじあけ、やっと小柄なクラウディウが出られるくらいの大きさに押し広げ、ついにクラウディウを抱き上げたわたし達は、外に止めてあった車に押し込め、逃げること一目散!

破られた網の穴から他の犬たちも逃げたのは言うまでもないでしょう。あとは野となれ山となれ。いずれ殺処分されるであろう犬たちへ、大晦日の贈り物だい!

そうして自宅へ着いたわたしたちも、そして車も、檻の中でウンコまみれになっていたクラウディウの匂いがしっかりついていたのでした。1979年大晦日のハプニングでした。
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わたしの蛍雪時代

2017-12-29 12:03:50 | 思い出のエッセイ
2017年12月29日



父は頑固な上に理不尽なところの多い人であった。わたしは密かに父をして、「このクソ親父」と内心何度思ったことであろう。わたし達姉妹が幼い頃は、岩手の盛岡競馬場で騎手をしていた人である。よって年中家にいた試しはなく、母とわたしたち姉妹は弘前の祖母の家に、父は盛岡にと、家族別居生活を余儀なくされていたのだ。
   
今でこそ、競馬と言えば花形スターのような趣があるが、この時代は職業とも言い難かった父のこの仕事は、言ってみれば「ヤクザな仕事」(註:ヤクザの仕事ではないので注意下さい)だったのではないかとわたしは今では思っている。
   
父親が家を留守にしていては収入はなし。母とわたしたち姉妹は祖母の家でなんとか食いつなぐことができたと言えようか。それが、少し歳もいって来て、体重が増え始めたために騎手ができなくなり、わたしたちのもとに舞い戻って来た。菊池寛の「父帰る」であります^^;
   
それまで母は経済的に苦労してきただろうが、祖母の家で大家族と暮らしていたわたしは父親の不在をさほど感じたことはなかった。それが、思春期に入る中学生の頃、ひょっこり帰って来たわけで、父の存在にはいささかとまどいを感じずにはおられなかった。父は定職につけない人で、わたしたち家族の生活は結果的に父が帰ってきたことによって苦しい経済状態から抜け出すということにはならなかった。
   
思春期真っ只中の高校時代、父に対する反抗心を抱えながら、わたしは高校では好きな学課を除いて他は皆目勉強もせず、もっぱら図書館から本を借り出して、だたただ読書に熱中しては本の世界に逃げ込んでいた。

「知と愛」「狭き門」「嵐が丘」「谷間の百合」「ボバリー夫人」「チャタレイ夫人の恋人」「若きウェルテルの悩み」「凱旋門」「女の一生」とあげ連ねてていけば、きりがない。わたしはこれでもか、という程に本を借り漁っては何かにとり憑かれたかのように外国文学を読破していったのである。想像力を逞しくすれば、読書に浸っている間は少なくとも貧困の現実から逃れて自分の精神を自由に遊ばせることはできる。

あぁ、それなのにそれなのに。ある日理不尽な父は言う。
「女は勉強せんでよろしい。本日より午後10時、消灯なり。」
それはないでしょ、おとっつぁん。
   
その日から夜10時になると、自分は高いびきかいて寝、消灯である。二間しかない埴生の我が家、電源はオヤジ殿の寝る部屋にあるのでありまして。父の寝静まった頃合を見計らって、月明かりでソ~ッとそちらの部屋へ忍び込み、これまたソ~ッと電源のレバーに手をかけ、挙げようとするとその瞬間!
「こら!」と、怒声が起きて叱責であります。
いびきかいて寝てたんじゃないのかい・・・

これでは本が読めぬ。そこでわたしは考えた、うんと考えた。 そして見つけたひとつの方法。それは、細長い木板にろうそくを1本立て、その灯りが父の寝ている隣室にもれないように、ほとんど上布団を被せんばかりにして本を読むことである。なんのことはない、単なる原始的な方法ではありました。

こうして読んだあの頃の本は忘れるものではない。なかでも、木板に1本のろうそくという原始的な方法を使ってまでわたしを読書へと駆り立てた一冊の本、それは、レマルクの「西部戦線異状なし」である。

『僕の心はすっかり落ち着いた。幾月、幾年と勝手に過ぎていくがいい。月も年も、この僕には何ももってきてはくれない。
 何物も持ってくることはできないのだ。僕はまったく孤独だ。』

この記を最後に1918年、志願兵パウル・ボイメルは17年の生涯を戦場で終える。

わたしは薄明かりの寝床の中で、この本の感動して止まない文章を何箇所となく涙をぬぐい鼻をすすりながらノートしたのであった。わたしが若い頃から強度の近眼になったのは、この頃が原因だとわたしは思っている。しかし、それと引き換えに得たものは、「人は本を通してでも、大きく生き方を学び疑似体験できる」ということだ。

頑固だった父が亡くなって、30年以上になる。わたしの蛍雪時代の上にも幾星霜が重なった。
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ポルト、ポルトガル百景

2017-12-28 13:05:23 | ポルト
ポルト、ポルトガル百景


「チャンネル」機能なるものがありましたので、ちょっと試してみました。
写真は全くの素人ですので、いまいちなところがありますが、よろしかったらポルトガルを画像を通してお楽しみください。
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ポルト、ミラガイア地区(2)

2017-12-27 09:58:48 | ポルト
2017年12月27日 

MiragaiaとはGaiaが見える所という意味です。その名の通り、ドウロ川を左手に歩くと右手は古い家並み、、そして対岸には隣町Gaia市が見えます。ミラガイア地区は世界遺産区域で、ポルトの最も古い伝統的な家々を今に遺しています。

ポルトの新設アパートでは写真で見るように通りに面して洗濯物を干すのは禁じられているが、旧市街は別。この洗濯物のポルトガルらしさを表すのだ。


かつてはカフェや商店が立ち並びにぎわったであろうアーケード。


現在はそのほとんどは倉庫として使用されておりさびれたままだ。わたしがよく足を運んだころは訪れる人もなく、一人自分が歩いたアーケードを振り向いてデジカメを向けると、この古いアーケードが一瞬の間、輝く光を見せたように思われたのは気のせいか。清潔な近代美もそれなりにいいけれど、こういう古さには人の生活のノスタルジアが感じられ惹かれる。下はツーリスト用に最近修繕されたアーケードの一部。



ポルトの古い町では必ず見かける猫たち。ミラガイアもその例に漏れず。




人なれしていてカメラを向けるとちゃんとポーズをとる。


アーケードの古い家々には現在も人が住む。



この日も洗濯物を干しに住人がベランダに。パラボリックアンテナも設置されて、生活感が溢れている。



わたしの好きなアーケードの上の住まいの一枚。

この低地から前回紹介した急な高地範囲がミラガイア地区になるので、一通り歩くには少し骨が折れるのだが、わたしの好きなポルトの街のひとつである。


読んでいただき、ありがとうございます。では、また!
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ポルトのミラガイア地区(1)

2017-12-26 13:30:22 | ポルト
2017年12月26日


日本語を教えるので忙しかったゆえ、ポルト一人探検隊をこのところすっかり失念していたのだが、体重計に乗ってみると、がーーん!となった。ふ、増えてる・・・

「歳をとったら痩せてるとシワが目立つ、少しふっくら目が若く見えていいよ」なんて、丸顔のわたしに言う友達の話を、「うんうん、そうだよね。」と素直に信じたのが油断であった!

うまい具合に午後の日本語授業がキャンセルになった秋のこと、よし!と、久しぶりに午後、メトロで町へ出、2時間半ばかり歩いてきた。

行き先は我が気に入りの区域、ミラガイア(Miragaia)。特に今回は、しばらく前にポルトガル語のディアス先生と勉強した「人形の館(Palacio das Sereias)」の側に残っている「Bandeirinha de Saude(Bandeirinha=小さな旗、Saude=衛生、健康)」の再確認も含めて。(これについては後日、紹介)

ドウロ川から眺めると、ポルトの街並みは家々の屋根が段々畑のように重なっているのが分かる。ポルトは街丘陵地帯に築かれているのである。如実にそれを実感するのが、ミラガイア地区の古い石段を上るときだ。登ると記したほうが実感的である。



これは14世紀に造られた石段「Escadas do Caminho Nove(新しい道の階段)」。長さは100メートルもある急階段。ミラガイア区域にはこのような石段が他に5つほどある。左に見える石壁は同時代に築かれた、市をぐるりと巡る防御用のフェルナンディーナ・ムラーリャ(Muralhaは城壁のことだが、ポルトには城がないので城壁とは呼べないのである。ムラーリャについてはいずれ取り上げたい)。

わたしはミラガイアに足を踏み入れるときは、いつもこの辺りから始める。日中も閑散としているミラガイア区域はわたしにとり堪らない魅力がある。一歩入るや、まるで中世に紛れ込んでしまった気がする。その歴史を知ると尚更だ。

ミラガイアの起こりは2世紀、ローマ時代に遡ると言われる。13世紀には、漁師が多く住み、ドウロ川という地の利を得て、運送業、商業の中心地であった。また、職人や商人が屋敷を構えることも多かった。特にポルトガル国内からのカトリックに改宗しなければユダヤ人は追放するとの達しが出る15世紀まで、ミラガイアにはユダヤ人社会が築かれていた。その名が「Rua do Monte dos Judeus(ユダヤ人山の通り)」として現存する。


ミラガイア地区の石段「Escadas de Monte dos Judeus」。

今回は入り組んだ狭い道を通り、いったんミラガイアの平地に下りて、この石段を上った。石段の途中の横道に入ってみると、奥まったところにこんなドアがあったが、シナゴークではないかと思う。



この家の横にもう一本細い坂道があったので入ってみたが、行き止まりだった。



こちらは Rua Alménia(アルメニア通り)


アルメニア通りは、15世紀の東ローマ帝国滅亡、ひいては、ローマ帝国滅亡となったオスマン帝国によるコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)陥落時、住民のルメニア人のほとんどがキリスト教の一派、アルメニア使途教会信者であったため、コンスタンチノープルを捨てて難民となり住み着いたところがミラガイアのこの通りである。

 
ユダヤ人放浪もコンスタンチノープル陥落もわたしたちが知っている遠い西洋史上の出来事ではあるが、この区域を歩いてみると、歴史に翻弄され流浪してここにたどり着いた民族の哀切を現代も伝えているような感じがしてならない。

ミラガイア、続きます。
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