ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

毎日が日本語英語ポルトガル語第6話:刺激がないのはいいことだ(1)

2019-04-30 09:24:28 | 毎日が日本語英語ポルトガル語
2019年4月30日

我が子たちへの海外に於ける日本語英語教育は、35年も昔のことですから、社会の状況も変わり、そんなに興味の湧かない話であるかも知れません。

幼児、小学校低学年向けの、英語教育教材も、ひらがなカタカナ漢字、さらには計算習得の教材は、現在では数多くあって、どれを選べばいいのか選択にとまどうほどでしょう。

わたしの場合は、ポルトガルにいたわたしの場合は、それらが手に入らなかったので手元にあるもので間に合わせ、後は「自分がアレンジして作成する」のみです。

British Schoolは当時はまだ5歳児のPrep(5歳児の小学校準備クラス)しかありませんでしたので、息子が4歳になると、当時はポルトにただ一校あった私立のイギリス・キンダーガーデンに一年間午前中のみ通わせました。

今とは交通の便が違います。朝のラッシュ時は恐ろしいもの!
今だと自動車道路を走らせて20分ほどで行ける海の近くのその幼稚園でしが、当時はそれがありません。朝、交通停滞がひどい街中を走るわけですから、車でゆうに1時間はかかったのでした^^;

その頃のわたしは車の運転ができなかったので、朝の送りは夫の仕事です。帰りはというと、運良く斜め向かいに住んでいた、夫と同じ病院で働くFalcão=ファルカォン夫妻が一人息子をBritish SchoolのPrep(5歳児クラス)に入れており、終わる時間が同じなので、1年間ずっとこの迎えをしてくれました。

こういうこと、つまり、「ついでだから」を、ポルトガルの人は嫌がらずによくしてくれます。

息子を送り出した後は、午前中時間ができました。
夫の母、ふたりの年取ったおばさん、それに我ら3人家族が同居していた当時の家は、週に2度、広くもない家にお手伝いさんが来て掃除をして行きます。夫の母を始め同居のおばさんたちも一緒に掃除で動き回りますから、小さな家はいつもピッカピカ!

わたしの役目はと言うと、どうやらあまり手を出さないほうがいいらしい(笑)というわけで、 さよう、時間だけはたっぷりあったのでした。

息子がいないその午前中たっぷりの時間を使って、わたしは教材作りに励みました。それがまた、楽しいのです。

ご覧あれ、この写真(笑)!


1ページ1ページ、鉛筆の手描きですぞ(笑)

で、中身はこれ、この通りw 



何冊もある35年前のノートの一部。車庫から引っ張り出して来ましたw

オリジナルの学習ノートに子供がそのまま書き入れると、一回使って終わりです。
日本から取寄せるのもなかなか大変でしたし、コピーするにもコピー代が当時はべらぼうに高かった時代、とてもそんなことはできません。

入手したオリジナルの絵を写し、マスを書き、クレヨンで色付けします。このようにして、日本語も英語もオリジナルの絵を見て物の名前を覚え、ひらがなで書き込めるように、毎日2ページほどを、手描きで写しました。

読みは3歳で、先日紹介した英語の真っ赤な文字から入って、4歳にはこんな風に日本語の生活に密着する言葉の、「見ながら書きながら覚える」を導入。これをたゆみなく続け、5歳では、足し算を始めました。

覚えてもらうのにかける時間は「ゆ~~~っくりと」
そして、決してイライラなどして怒らないこと。

何度も何度も同じことを繰り返し手描きし、子供と一緒に必ず机に向かって座り、時間は長くてせいぜい15分!
褒めますと喜びますから、「もっとしたい!」と言い出します。

でも、ここがコツ!「今日の分はこれで終わりよ。また明日^^」

夫が仕事から帰宅しますと、今日はこんな文字を覚えた、とわたしたちの話は盛り上がります。こうして少しずつ夫の日本語の域を子供は超えて行くのでありました^^

世の中、便利になりグローバル化して、海外にいながらにして日本のテレビを見ることができ、欲しいものもたいていは日本から取寄せがきく現在、こんなことに自分の時間をつぶすなど、ちょっと考えられないかもしれませんね。

子育てから開放されてもっと自分の時間が持ちたい、自分の好きなことがしたい、という母親の話はよく耳にします。わたしも、これやってみたいあれやってみたい、こんな勉強したい、できれば大学にも行きたい、と語れる夢や希望はたくさんありましたし、今もあります。

しかし、あの頃のわたしは、子供の手描き教材作りに自分の幸せを感じていたのでした。

華麗なるお伽の城:シントラのペナ城

2019-04-29 21:16:33 | 海岸を散歩する聖人の旅行記
2019年4月29日

かつて避暑地としてポルトガル王侯貴族がこぞって離宮を建てたシントラ。中でも町を一望する山頂のペナ城のエキゾチズムは訪れる人を魅惑する。

19世紀始めにマリア2世女王の王配、ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家のフェルナンド2世は1755年のリスボン大地震以来廃墟と化していた岩山のペナ礼拝堂跡にネオゴチック、ネオマヌエル、ネオ・ルネサンス、イスラムの多様な建築様式を取り混ぜてファンタジーな王家の離宮ペナ城を建築する。



周辺には樹木を植えて大きな森へと変身させ現在では国内で最も美しい森とされる。90年代に修繕されて公にお目見えした際、ピンクと黄色に色塗りされた城を目にしたシントラ市民は度肝を抜かれたそうな。何しろそれまで見上げてきた城は灰色だったのだから無理からぬこと。


イスラム建築様式のオニオン・ドーム

外装に多くのシンボリックな装飾を施したフェルナンド2世だが、ピンクと黄色の色彩は建立期のオリジナルカラーだと言うから建造主の華麗なる遊び心がうかがえるというもの。城内は装飾も含め王家の美術品蒐集の館さながらだ。


上はペナ宮殿のシンボルの中でももっともミステリアスな「世界を創造するトリトン」像。

ペナ城は夫国王と長男を殺害されたポルトガル最後の王妃ドナ・アメリアが亡命寸前まで居城していたことでも知られる。1910年10月、共和国樹立の報せを城で受けた王家は即英国へ亡命。彼女がペナ城を再訪できたのはそれから35年後の色褪せた城だった。

王妃の悲運に比して、今、目にも鮮やかなペナ城は蘇ったように山頂にそそり立つ。世界遺産に登録されている。


抵抗の歌人Zeca Afonso

2019-04-26 12:28:52 | ポルトガルよもやま話
2019年4月26日

昨日に引き続き、1974年4月25日のポルトガル無血革命について。

別名を「カーネーション革命(Revolução dos Cravos=Cravosはカーネーションのこと)」とするこの無血革命は、1974年にヨーロッパでも最も長かった独裁政治を終わらせた軍事クーデターです。わたしがポルトに来たのは1979年の春でしたから、ポルトガルが独裁政権から自由を奪回してまだたった5年しか経っていなかったことになります。

当時のポルトを振り返れば、町全体が薄汚れた感が否めず、好きな人の国とは言え、「大変なところに来ちゃったなぁ」との索莫とした思いを抱いたのが正直なところです。

近所の年端もいかぬ子供の口から、野良犬を相手に棒っきれを振り回しながら「ファシスタ!ファシスタ!」と言う言葉が聞かれたのには、ギョッとしたものです。その野良犬は後にわたしの愛犬になるというオチがあるのですが(笑)

数年前に日本からやってきた甥をコインブラ大学に案内した際、昔のままの姿を残す大学周辺の細い路地に並ぶ下宿屋通りを散策しました。その折に一軒の下宿屋の外壁に、人の顔の青タイル絵がはめ込まれているのを見つけました。 「Zeca Afonso、大学生時代にここに下宿」と書かれてありました。カーネーション革命に彼の名は欠かせないのです。



本名はJose Manuel Cerqueira Afonso dos Santosですが、Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られます。

幼い頃から健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モサンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土の親戚の家で育ちました。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわる音楽を自作し、後にAlcobaça(アルコバッサ)の高校でフランス語と歴史の教師を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多く自作して歌い、この頃からサラザール独裁政権に対する反ファシスト地下運動のシンボルとなって行きます。

やがて、Zecaの歌は放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によってキャンセルされ、投獄されます。その名前も検閲にひっかかるようになり、そのため「Esoj Osnofa」というアナグラムを使ったり、レコーディングをフランスやロンドンでしたりしますが、この間、共産党入党に招待されているが、断っています。

1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催されたZeca を始めその他多くのミュージシャン共演コンサートの最終幕で、彼の歌、 「Grandla ,Vila Morena」(you tube)が全員で高らかに歌われましたが、この時会場には密かに準備されていた4月革命のMFA(国軍運動)のメンバーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」として、この「Grandla 」の歌を選んだと言われます。
  
註:Grândla =グランドラは南部アレンテージュ地方にある小さな町の名前。Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞愛を歌っている。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジオで流され、それを合図に革命は静かに始まりました。約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された「Grândla 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのです。

4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンのアベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り=息子のアパートがかつてあったこところ)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーションの花が挿し込まれていました。以来、ポルトガルではカーネーションは自由のシンボルとなったと言う訳です。

Zecaは1983年、かつて追われた教師の職を再認定され復帰しています。この年にはその功労をねぎらう行賞が与えられたが辞退し、1987年2月23日Setubal(セトゥーバル)にて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通り真っ赤な旗で覆われました。



享年58才、どんな党への所属なく勲章なく、ポルトガルの自由を夢見、歌を武器に闘った抵抗の歌人です。

思想の右、左関係なく、貧しくとも自由のある生活をわたしは望みます。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。書物を選び読みすることができる自由。枠にとらわれず自己表現ができる自由。国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今、空気のごとく全身で吸っているのですが、ポルトガルがわずか40年ほど前は言論の自由がない国だったとは思えないほど、今日ではそれは歴史の一部になりました。秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代をわたしは知りませんが、おぞましい社会であったろうことを想像してみることはできます。

ポルトガルのカーネーション革命は、サラザール独裁政権からの民主主義無血革命であり、現在ポルトガルは中道左派政権の国ですが、ポルトガルの王位請求者は、ポルトガル王家の末裔ドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサ公です。

歴史を紐解けば、フランス革命、ロシア革命、チャイナの文化大革命は急進左派による代表的な革命ですが、それらの共通点は、革命後、王族、反対派を処刑し(チャイナの場合はラストエンペラーに対する余りにも非人間的な扱いを処刑に同ずるとわたしは思うので、敢えてこのままにする)恐怖独裁政治を敷き、結局は民衆を自由にしなかった点だと思います。

昨今の日本を見ていると、自由を誤解釈している人達が多いように思われます。しかも、それが高学歴の人に多いのは、とても残念なことです。言論の自由にあたっては、発した言葉に責任が伴うはずです。無責任に、勝手な憶測で発言を垂れ流すのは危険を呼びます。

ヘイトスピーチ、人権侵害を盾にする人達が、逆にそれに陥っていることの矛盾に気付かないのはおかしな事です。「目的達成のためにはどんな手段も選ばない」と公言する人たちは、それが彼らの反対する「戦争」をも含むということを忘れています。

真に自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い起こすために、その自由を失わないために、わたしたちの真の敵はどこに潜んでいるのか、どうしたらその侵略を防ぐことができるのかを過去から学ぶために、わたしたちは歴史を振り返る必要があるのです。

下記、Grandla, Vila Morena をYoutubeから。



希望はいいものだ、たぶん何よりいいものだ

2019-04-25 12:30:53 | ポルトガルよもやま話
2019年4月25日 


思えばわたしもポルト在住40年を過ぎようとしており、現在持つ日本語レッスンの4人の年配者生徒(最年長者を85歳)とは、時に政治や歴史の話に及ぶことがあり、1974年までの長期独裁政権のサラザール時代をわたしは知らないけれど、その政権が倒れた5年後にポルトに来たわたしは、当時の街の様子を見ているので少し話に入っていける。

「あなた方は知らないでしょうけど」と、自由を喫している今のポルトガルの若い日本語学習者たちに自分が来た当時のポルトガルの光景を話すこともままある。かつて20数年間勤めた補習校時代にも日本でのわたしの子供時分のことを国語授業の単元によってはとりあげて語りきかせたこともある。

戦後生まれで周囲の多くはまだまだ貧しかったこと。テレビが無くてラジオ放送ドラマで育ったこと。学校ではいじめられっ子だった画近所ではガキ大将でもあったこと。トイレが水洗式でなくてぼっとん式だったこと。風呂は銭湯で、田舎の冬は家にたどり着く頃洗った髪が凍りがちだったこと、トンボとり、蛍がりをしたこと、蚊帳というものがあったこと、おやつは畑からとりたてのキュウリだったこと、など等、時には図入りで、まるで孫に話しかける祖母の如しではあった。親達からはその日の授業内容よりもY先生の子供時代の話をよく覚えていますわと報告されたものだ。

計算の仕方や国語の読み取りを覚えてもらうことは勿論大切だが、そう遠くない昔の歴史を知ることは意義があるし必要である。本で学ぶよりも当時を知る人の口から直に聞くことは記憶に残るだろう。幾時代、幾世代を経て今の平和が培われたのだと年頃になって知ってくれたらと願うものである。

さて、4月25日の今日、「Vinte cinco de Abril (ヴィンテ・スィンコ・デ・アブリル=4月25日)」、カーネーション革命とも言われるが、42年間ものサラザール長期独裁政権を壊滅させて無血革命記念日で休日で、今年は40周年を迎える。無血革命とは言うが、これにたどり着くまでには革命にはつきものの、独裁者側による多くの血が流されたことは言うまでもない。



このところ立て続けに観た映画、2本、いずれも独裁政権を舞台にしたもので、一つはジェレミー・アイアンズ主演の「Night Train to Lisbon」。スイス、ベルンの高校教師グレゴリウス(ジェレミー・アイアンズ)は、ふとしたきっかけから、アマデウ・デ・プラドというポルトガル人作家の著書を手に入れ、その本に挟まれていたリスボン行きの切符で夜行列車に飛び乗り、独裁政権下でのアマデウの足取りを追うことになる。



独裁政権下での地下抵抗組織運動、秘密警察、アマデウとジョージ、そして一人の女性を巡るミステリーを追って過去と現在を行き来するグレゴリウス。彼が訪ね歩くロケ地になったリスボンの古い街並はよく捉えられている。

もう一本は31年もの恐怖独裁政治をとった南米ドミニカ共和国のトルヒーユを扱う「The Feast of the Goat(原題はLa fiesta del chivo=チボの狂宴。Chivoはヤギの意味。日本では未公開のようだ)。主演のイザベラ・ロセリーニの語りで少女時代の残酷な回想を取る形で物語りは進む。政敵、批判者の暗殺、国外追放等を始め、35、000人ものハイチ系住民を虐殺したと言われるトルヒーユ反政府活動側による襲撃殺害までを描いている。



この種の映画は観た後数日、ズシリと重くのしかかるのであまり好まないのだが、かような歴史があることを知るのは自由と平和に甘んじているときには必要なのかもしれない。右派左派関係なしに、人間の自由を抑圧することは誰にも許されないはずである。「自由とはいったい何か」と、この年齢にいたって未だ思い巡らすことがある。

生まれながらにして自由であるのと、自由を渇望してそれを得た時代の人とは自ずと「自由であること」の意味が違うであろう。が、いずれの場合も自由とは責任が伴うものだとわたしは思っている。ともすればわたしたちはそれを忘れ、己の思い通りにすることが自由だと錯覚しがちだ。そんなときに気分が重くなる自由のなかった時代の歴史に目を向けてみる事は意味があると思う。


ポルトガルのカーネーション革命に今日は自由を噛みしめる。自由に甘んじていてはいけない。希望のなかに自由を夢見、ついに手に入れた自由を決して手放してはならぬと嚙みしめる。

本日のエントリー題はスティーブン・キングの本「監獄のリタ・ヘイワース」(映画名:ショーシャンクの空の下)に書かれた下記の一節からです。

希望はいいものだ。
多分なによりもいいものだ。
そして、いいものは決して死なない。

毎日が日本語英語ポルトガル語:第5話「mummy daddy」

2019-04-23 08:35:47 | 毎日が日本語英語ポルトガル語
2019年4月23日

今でこそ日本国外にいてもインターネットを通じて母国日本のニュースを読むことができ、語学もその気になればネットサイトである程度習得できます。

わが子の日本語教育にしても、幾つかのキーワードを打ち込んで検索すると、逸れようのサイトがわんさとひっかかってくることでしょう。後は少々高くつくかもしれませんが、お金を払って教材を取り寄せる。しかし、1980年代初期の息子の幼児期にはそれがまだできませんでした。パソコンなどの言葉もなかったころです。自分でやるっきゃないのでした。

OLとビアハウスの歌姫バイトで数年かけて貯めた貯金は、ポルトに嫁いで来た時には、アメリカはアリゾナ州ツーソンの大学の語学コースと生活費、そして、ポルトまでの飛行機の足代で、全て使い果たしてしまったのでした。

夫がもっと早くに決断してプロポーズしてくれてたら、渡米せずに終わり、この貯金、当時のポルトガルでは、少し価値があったのに 長年のわたしの夢を中断させてまでして、言葉も習慣も全く違う日本娘を、あの頃のポルトガルに連れて来る勇気が夫には最初の頃なかったようでありました。

そんなんでしたから、ポルトに来るときには嫁入り道具どころか、提げる「鍋釜」もなかったんであります。そういう状況で我が子に、ポルトでピカ一授業料が高い「英国式の教育」をと言う、げに恐ろしき志を持った母ではありました。しかし、ヒントはありました。

「子供にどのような手立てで日本語を、英語を教えるか」をわたしは知人を通して、当時イギリスからとある資料を取寄せたのでした。

その資料とは、「How to teach your baby to read」のようなタイトルであったと思います。これは今でも車庫の中のどこかに他の本たちと一緒に眠っているはずです。

この本は英語圏の幼児に言葉を覚えてもらうためのガイドブックで、なぜ、幼児期がいいのか、そして、とられているその方法が効をなすであろう理由が説明されてありました。

本と一緒に、50枚くらいの薄いカードが入っていました。 
背景が真っ白な用紙に、真っ赤な色で、とても大きな字で単語が書かれていました。こんな感じです↓




最初のカードは mummy   daddy
たて20cm横80cmくらいは、あったでしょうか、びっくりするくらいの大きな字でした。白の背景に赤文字ですから、インパクトがある。今で言うフラッシュカード方式です。

この大きなカードを、日に何度かちょっとした機会を見ては、3歳の息子の前に、両手で広げて、「mummy」と言って見せます。

始めは、ポカンとしていた息子が、ゲームとでも思ったのか、やがてわたしが「マミー」と言い出す前に、彼の口から「マミー!」と出るようになり、こうして始まったreading、以後、覚える言葉はドンドン増えて行きます。カードのサイズは、読める単語が増えていくうちに、少しずつ小さくなって行きます。

こうして、3歳の息子が読める単語の数が増えていくのが、わたしは嬉しくてたまりませんでした。

今回、あらためてその本をネット検索してみましたが、多分これではなかったかと思います。



この本は、Glenn Doman方式と言うのだそうです。実はこの方式を初期の日本語学習者がひらがなを学ぶときに、教室で今でもわたしは大人相手に使っているのです。