ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

ポルトガルの愛情表現と挨拶

2018-07-29 16:05:59 | ポルトガルよもやま話
2018年7月29日 

その国によって多少の違いはあるだろうが、欧米では、しばしの別れや暫らくぶりの再会の場では、「気をつけていってらっしゃい。」「会いたかったわぁ。」の思いを、抱擁や軽いキスなどのスキンシップで表現することが多い。

中には、しばしの別れと言っても、10時間ほど家を留守にするだけの別れ、つまり夫の朝の出勤時から帰宅時までですら、キスを交わして愛情表現をすることもあります。

ポルトガルはと言うと、お互いのほっぺとほっぺを軽くくっつける「beijinho(ベイジーニュ)」が日常茶飯事見られます。

例えば、街で偶然知り合い同士が出会ったとき、「あら~こんにちは^^」でbeijinho。どこかのお宅に招待され、到着して玄関先での挨拶も「いらっしゃい」のbeijinhoで、初対面の挨拶も多くはそれで始まります。

また家族同士でも、誕生日、母の日、父の日などの祝い事で。我が家では、息子や娘がポルトに帰ってきた時や再びそれぞれの生活の場に帰って行く時、夫が国内外にかかわらず出張で出かける時と帰宅した時などなど、beijinhoは愛情表現はもとより、挨拶がわりでもあるのです。

ポルトガルの人たちは生まれた時からこれをしているのですから、beijinhoの仕方が板についており、その場その場に応じてごく自然にできるわけです。

ところが、こういう習慣に慣れていない日本人のわたしは、最初は戸惑うばかりでした。まず、「どっちのほっぺを出せばいいの?」と迷っているうちに、beijinhoがすれ違って合わなかったことも度々(笑)
つまり、向き合って右と右、左と左のほっぺをくっつけるのですからね、相手が右を出すのに左のほっぺを出したらくっつくわけないのであります(笑)

こういうことを繰り返しているうちに39年、それでもまだ板についたとは言い難いわたしのポルトガル式挨拶ですが、面白いことに、日本に帰国した時に大好きな友人たちと久しぶりに会った時など、思わずほっぺたを突き出しそうになる自分にハッと気づいたりするのでした^^

この挨拶の仕方を、好きでもない人とするのは嫌だ、と一時は鬱陶しく思ったこともありますが、家族、親しい間柄の枠内では、さりげないようで情のこもったジェスチャーだと、ここ数年思い始めたのでした。
もちろん、日本人の愛情表現には、慎ましさがうかがわれ、時としてたおやかな美しさをわたしは感じることがあり、それもまたいいものだと思う気持ちに変わりはありません。 

ここに一枚、「beijinho」と題する、幼いジョン・ボーイ(息子)と今は亡き叔母のスナップショットがあります。わたしの好きな写真の一枚です。


nuikooba2-1.jpg
 
ところで、大事な事を付け加えませんと(笑)
異性同士、女性同士はbeijinhoをしますが、男性同士はしません。男性同士は軽く抱き合い、肩や背中を叩き合うのが男性同士の親しみをこめた挨拶の仕方です。

本日はこれで。
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中川君のブロマイド

2018-07-23 15:57:34 | 思い出のエッセイ
2018年7月23日

自身はそれに染まりませんでしたが、20歳の頃の大阪京橋時代、まわりには上に素人と呼び名のつく、演出家、役者、シナリオライター、作家志望と、演劇関係の知り合いがたくさんいました。

そしてわたしはその中で、いつのまにか、これまた上にへんちくりんなものがついて「自由人yuちゃん」で呼ばれていたのです。どこが自由人か、と問いますと、常識の枠にとらわれないで行動するからだそ褒められているのか呆れられているのか、複雑なとこではありました。

わたしは素人劇団の何のお役目も担っていないのに、その仲間からはあちこちと引っ張りまわされ、出来上がったばかりのシナリオを読まされたり。団長はかつて「劇団四季」に籍を置いたことがあるという人で、彼らはサマセット・モームの作品のみ手がける劇団だったのですが、そのお芝居を観にいったりして、一応仲間に入っていました。

そんな役者仲間に、ただ一人、プロダクションには属していないものの、中川君という素人ではない役者(!)がおりまして、これが顔がデカイもので、現代劇より時代劇でよく映えるのですね。

案の定、彼は京都四条にある南座で、よく歌舞伎公演での役回りをしていたのでして。なに、役回りといってもハシッパの役(笑)

これが、ある日浮かぬ顔をして現れまして、
「舞台でドジッた。トップの役者さんにこってりしぼられてん」と情けない顔で言います。何をしたかと言いますと、出番寸前にどうにも我慢ができなくなってトイレに行った。そしたら、出番の合図が聞こえたので慌てて舞台に飛び出して行ったのだ。

出てしまってからハッと気がついたのが、足に履いてる「便所」と書いてあるスリッパ!(爆)
おまけに、手に持ってなきゃならないはずの十手をトイレに置いてきてしまって、「御用だ!御用だ! 」と突き出す手には、十手なし・・・周りの小役人の役を演じている人らの後ろに後ろにと隠れて誤魔化そうとしたが、そんなもん、ロケじゃあるまいし本番なんやから、どうやって誤魔化すのよ(笑)

これを聞いたときには、気の毒よりも大爆笑が起こってしまって、我らは抱腹絶倒。

役者さんの世界って、NGがたくさんあるでしょ?あれ、爆笑ものが多いですね。ただし、劇場での本番は、やり直しがきかない。困りますよね。

中川君によると、立派な役者さんも時には失敗するのだそうで、そういうときは、舞台が終わった後に、役者さんからはちゃんと陳謝として、全員に何がしかが配られるのだそうです(笑)

あれから40年ほども経つというのに、今思い出しても、「便所」と書かれたスリッパを履いて、「御用だ、御用だ!」と空の手を突き出し、にっちもさっちも行かなくなっている彼の姿を思い浮かべると、あっはっはと笑わずにはいられないわたしです。

中川君、どうしているでしょう^^中川君からもらったヅラをつけたサイン入りのブロマイド、どこへ行って
しまったかなぁ^^
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炉端で愚を論じる人

2018-07-22 12:42:46 | 思い出のエッセイ
2018年7月22日

昨日の拙ブログ記事「炉端」に登場したかつての会社の同僚、日本びいきが嵩じて、日本名「炉端愚論人(ろばた・ぐろんじん)」と言う判子まで作ってしまった、ボブことロバート・グロンディンの話です。

ビアハウスのバイト歌姫時代は同時にわたしの大阪のOL時代でもあり、あの頃を懐かしみながら、「そう言えば、彼はどうしているのだろうか」とわたしはめったにしないことなのですが、ふといたずら心でその人の名を検索して見ました。
「ボブ・グロンディン」、いや、こっちがいいかな?「Robert Grondine」・・・・

日本語英語検索で両方、出てきました。なんと、彼は東京のとある国際的な法律事務所を立ち上げ、私立K大学で教鞭をとり、ワイドショーの討論にも出演して国際経済問題を語っていたとは!

在日米国商工会議所の最高顧問もしていたとありますから日米をまたにかけ、まぁあなた、随分活躍しているのね。と思いきや次の文字に軽いショックを受けました。
弁護士. 2011年10月に逝去。

そんなわけで、今日は遅まきながらボブへの弔い話を。

東京本社、大阪支社と勤務先は違うが、ボブとはかつて同僚同士で休暇を利用してヒッチハイクの初体験も含め共に九州旅行をしたこともある間柄でした。



我が職場は、それなりにアタマにくることもありはしましたが、今にしてみると随分愉快な職場だったと思い出されます。少人数のこともあり、社員同士のチームワークがよく、本社との関係も悪いものではなかった。

パソコンの職場導入がなかった当時のこと、本社との連絡のやりとりでは、電話では埒があかない件は手紙で用件が書かれている連絡事項用紙を他の書類と一緒に専用の封筒に入れるのです。

誰が始めたのか覚えていませんが、その封筒にちょっとしたオモシロメッセージを誰かが書き始め、すると、それに対するレスポンスもユーモアに書き足され、以来、専用封筒がボロボロになり、もう書き込
む隙間もないと言うくらいに表面がおアホなメッセージで真っ黒けになるまで、続けられたのでした。

もちろん、最初はボブやわたしのメッセが中心であったわけですが、それに他の社員も加わり(笑)誰の目にでもつくその封筒、ある日、我らが所長が目に入り、「なんだ、これは、お前たち!」と相成りお叱りを受け(笑)以後、封筒メッセはあえなくボツ^^;


10人くらいの小さな大阪支店の社員旅行にて。左端が所長。赤い人がわたし。

同僚の女性Tとわたしは同い年で、本社支店合わせても、エヘン、最高の事務仕事コンビと言われたのであります。そそっかしいわたしをカバーしたTの苦労やいかばかりかw

社員旅行の鳥取砂丘でのひととき。20代、30代、40代でこれです。逆おしくらまんじゅうw 赤い人がわたしw こんな状態は今ならさしづめセクハラとかでお咎めを受けるかしらw そんなことは思いもせず、みな単純に童心に帰ってw





こんな雰囲気のオフィスです、本社と支社の封筒メッセの愉快なやりとりもあって然るべき(笑) そのうちボブは東京で日本女性Aさんと結婚し、その後二人はニューヨークへ。


法学部大学院で再び学業に取り組み、簡単な近況報告のクリスマスカードが舞い込むこと数年。わたしもビアハウスのバイトで留学目標額に到達し、オフィスを退職してアメリカへ渡り、やがてポルトガルで子育てに夢中になり、いつの間にかボブとは連絡が途絶えてしまったのでした。



1977年渡米直前のオフィス時代最後。

まさか、日本で活躍していたとは夢知らず。
人のことは言えないけれど、ネット上で見るかなり恰幅がよかった写真にはやはり上の若い時の面影が見られます。享年59歳。ボブ、ちょっと早かったのが残念ですよ。しばし、あのオフィス時代に思いを馳せて、あなたの冥福を祈ったのでした。
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炉端焼き

2018-07-21 22:26:43 | 思い出のエッセイ
2018年7月21日

炉端焼きと呼ばれる居酒屋にわたしは限りない愛着がある。そこには数々の懐かしい思い出があるからだ。

特に、大阪は京橋地下街の炉端、京阪沿線宮之阪駅前の炉端では、わたしは常連の部類に入っていたと思う。

流れる音楽が演歌なので、わたしからすればそれが難と言えば難だったのだが、しかし、炉端にジャズやらシャンソンが流れていたら、中華料理店でフランス料理を食するようなものだろう。泣き節の演歌はあまり好みではないが、それが炉端にぴったしなのにはどうにも避けようがない。

外国人の友人ができると、わたしは必ず炉端に案内したものである。当時は値段も手ごろ、肉類が苦手なわたしには、野菜魚類が多いのも嬉しかった。それで、あの頃は恋人だった現夫も時々わたしに引っ張られて何度か行っている。

大阪京橋の炉端に、当時ポルトガルからきたばかりの新しい留学生だったマイアさんを夫と二人で案内したときのことである。マイアさん、頑としてナイフとフォークで食べると言ってきかない。炉端のお兄さんが、同じ地下街にある隣の洋食レストランまで走って行って、ナイフとフォークを借りてきたことがあった。「こんなお客初めてだっせ・・」と言いながら(笑)

わたしが勤めていたオフィスの東京本社には、ハーバード大学出のボブがいた。本社とはしょっちゅう電話連絡をとっていたのだが、初めてボブと話した時は、ん?と少し思ったものの、まさかその電話の相手がアメリカ人だったとは聞かされるまで気づかなかった。

その彼が週末を利用して、大阪へ来たときもわたしがバイト歌姫をしていた梅田アサヒ・ビアハウスと炉端に案内した。日本語はハーバード大学在学中に学んだと言い、かなり流暢に、そして語彙力もあったボブとは、炉端で飲みながら食べながら、その日、大いに議論して盛り上がったのである。もちろん日本語でである。

日本びいきのその彼、自分の名前、ロバート・グロンディンを日本名で「炉端 愚論人=ろたば・ぐろんじん」とつけて、印鑑を作るまでに至ったのには、恐らくわたしとの炉端焼きの体験があるに違いない。アサヒ・ビアハウスに彼を案内したときは、ホール中、ヨシさんのアコーディオンに併せポルカを踊り、わたしは引きずりまわされ、見ていた常連達もボブの素晴らしいステップにはすっかり目を回したのだった。ボブについては次の機会に「思い出エッセイ」としてあげたい。

さて、当時は「文化住宅」と呼ばれた、駅から徒歩10分ほどの二間、トイレバス、台所付きの小さな我がアパートは京阪宮之阪にあり、駅を出るとすぐ横にあった炉端焼き。

ここには、木彫家の我が親友、「みちべぇと」よく行ったものだ。みちべぇは女性です^^ わたしが働いたオフィスの後輩なのだが、当時同じ駅のすぐ側に両親姉妹と住んでいるのを偶然知って以来、年の差も忘れて(わたしがグンと上なのだw)意気投合。以来40年以上のつきあいである。

ポルトガルに来た当時、アサヒ・ビアハウスがただただ恋しかったが、今のようにとても手に入らなかった日本食への思いも深く、炉端への思いも募るばかりだった。挙句が、「我が息子ジュアン・ボーイが大人になったらいつか炉端へ行き、酒を酌み交わしながら人生論を交わしてみたい」と、それが夢になったのである。

わたしの若い頃は、しつこい酔客や端迷惑な酔客もいたにはいたが、お酒の場とは、人生論を語る場でもあったと思う。 会社や上司の愚痴もあったが、人生の夢を語る場でもあった。 お酒の加減よい力を借りて、本音をさらりと口滑らすことが、ああいう場ではなんだかできたような気がするのだ。 
あれからもう40数年、炉端焼は今ではかつてにように、そこここにあるものではなくなったようだ。今の若い人たちは、いや、若い人達に限らず、日本の現代人は、どういう形で人と人生を語り合うのだろうかと、ちょっと興味を持つ。

みんなまともに面と向かって顔つき合わせて、人生論を戦わせるのだろうか。しらふで語ることも勿論大切だが、人の人生って理屈だけでは語れない部分があるのじゃないかと、わたしは思ったりする。家族みんな揃って人生論をぶつ、なんてのは、わたしにとってはまず想像するに難い。すると、やはり、ちょっとお酒なんかあったら語らいやすいなぁ、なんてね。

若い時にこそ、老若男女一緒になって、こういうことを「ぶってみる」のは、自己啓発、人生勉強になると思うのだけど。それとも、人はもう青臭くて人生論をぶつことなんか、しなくなったのだろうか。

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晴れ、ときどきネコ

2018-07-12 18:11:39 | ペット
2018年7月12日

「晴れ、ときどきブタ」というアニメ、もしくは絵本をご存知でしょうか。
子供が書く日記のお天気欄に、主人公の男の子がふざけて「晴れ、ときどきブタ」 と、ある日書いたところが、ほんとうに空からブタが降ってくる、って話なんですけどね。

小さい頃、うちの子供たちはこれに夢中になりまして、繰り返し共にビデオを見たものです。我が家のは「晴れ、ときどこネコ」であります。

数日置きに、ネコが脚を踏み外してか、フラットの2階なる我が家の台所そばにあるベランダの洗濯物干し場から、 昨日はクルル、先だってはゴンタそして、べべ、ぺトと順番に二階の我が家から、階下の庭に落ちるのでありました。

その都度、外へ出慣れてるゴンタをのぞいては、全員およそ外出したことのないネコたちなもので、けたたましい声で「落ちた落ちた~恐いよ~」と助けを求めて家人を呼ぶのであります。

出なれてるゴンタ君は「もっけの幸い!」とばかりに悠々と散歩に出かけるのですが、出たことのないネコ達は、落ちたその場で固まってしまい微動だにしないで、悲鳴を上げる。  
「あ、またや!」と手にまず鍵を持ち、(慌ててこれを持たずに出ようものなら自動ロックでドアが閉まって、鍵を持つ誰かが帰宅するまで家には入れない・・・)、走って玄関口を出、車庫のある裏手の階下へと拾いに行くのです。  

先日もその突然のネコの泣き声で「ありゃ!」と思い、窓から顔を出して見ると案の定。 「あらら、べべちゃん、落っこったのね。そっから動いちゃだめよ~、今迎えにいくから。」と叫んでましたら、階下のおばさん
とその小学生の息子、同じく窓から顔出して上を見上げながら言うことにゃ、
「今日も二階からネコが降ったん~~~、あははは」・・・   

上からしょっちゅうネコが降ってくるとこって世界中探したってそうザラにはあらへんで・・・思わず、「晴れ、ときどきネコやな・・・」ボソッと呟いてしまったわたしでありました。
と、綴ったのは随分昔のことです。
今では猫メンバーは少し代わり、上に登場するゴンタとべべ2匹とも、もうあちらの世界に逝きました。そして、途中から我が家に来たホームレスネコのチビとゴローが加わり、現在我が家には4匹のネコがいます。

息子と娘も日本に住み、変わったのは猫メンバーだけではなく、我が家のポルトの家族構成も夫と私の二人になりました。そんな生活の日々のつい先ごろのことです。

夕方7時、晩御飯のため台所に立って野菜を刻んでいました。ポルトガルはただ今夏時間で、空がまだ真昼間のように明るい時間です。

かすかに猫の鳴き声を聞いたような気がして、慌てて我が家の猫の数を確認しました。全員います。なんだ、気のせいかと思い、再び台所であれこれしていると、やはり聞こえるのです、ねこの鳴き声が。

いったいどこからだろうかと、まず、台所のベランダから顔を出し、上を見上げると、ぎゃ!、子猫が上の階の洗濯物にぶら下がってるじゃん!


写真はこの事件後に撮ったのですが、子猫は干してあるジーンズにぶら下がって必死に助けを求めた鳴いていたのです。
「おーい、カルロスさん!てぇへんだぁ!」と、早めに帰宅していた夫を呼び、「見て見て!子猫が!」

下はコンクリのパテオですから、落ちたら小さい猫は恐らくひとたまりもないと思われ、慌てふためいてイスを持ち出してくるわたしに、「おい、これこそ今度は君が危ないよ」とたしなめられ。

そのうち、階下の住人も気付き、車庫の前のコンクリ庭に集まってきました。その間も子猫は必死に鳴いています。

咄嗟に夫は小さなカーペットを持ち出し、図のように三本連なる洗濯ロープの上に広げました。



しかし、カーペットだけでは心もとない。そこで大急ぎで我が家の猫の寝カゴの小さいほうを持って来てカーペットの上に置き、夫はそれを手で押さえました。下では見上げているアパートの住人たちが「Coitadinho!(可哀相に)」を連発しています。

いよいよ、力尽きた子猫、ついに落ちました。しっかりポーンと寝カゴの真ん中に!夫からそれを受けとり、ひとまず安心してもらうため、腕にダッコしました。小さな心臓がドキドキしていましたが、やがて少し安心したのか、のどをゴロゴロ鳴らし始めました。
下がその寝カゴとともに、すぐ我が家の台所に入った子猫です。



律儀子猫で、まずは自分と同種のペトにご挨拶の様子(笑)

ちゃんと相手をしてあげたのは、ペトだけで、我が家のほかの3匹は、チビの新参者はかなわん、とでも言うかの如く、そそくさとどこかへ姿を隠しました。




我が家は2階のフラットなのですが、3階で子猫を買っているのをこのことで知りました。猫は身軽ですばしっこい動物です。何匹も飼ってきて、我が家の猫たちも一通り窓から落ちて慌てふためいた経験をしていますから、わたしは、ペットを飼っている時に気をつけるべきことの一つとして、窓を開け放して出かけないことを挙げます。

きっと子猫だから、まさか窓までよじ登るとは思いもしなかったのでしょう。夜、10時ごろ、我が家のチャイムが鳴り、若いお母さんと子どもが「すみません」と受け取りに来たときは、子猫ちゃん、我が家での冒険をさんざんして、ご飯も済み、猫ベッドで寝ていたのでした。 小さなお客さま、お帰りです。

今頃、上の階の人、子猫が必死にぶら下がった爪あとだらけのジーンズを手にし、がっかりしていることでしょう。
久しぶりに子どもたちがいた頃の、「晴れ、ときどきネコ」を思い出したのでした。
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