ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

風立ちぬ、いざ生きめやも

2021-10-25 22:41:46 | 日記
2021年10月25日
 
「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、1996年に放映されたとある向田邦子ドラマ劇場シリーズのひとつ、「風たちぬ」のラストシーンで使われる言葉だ。

堀辰雄の小説、また近年ではジブリアニメで最初の部分がタイトルになっているが、わたしはどちらも読んでいないし見ていない。

今回Youtubeで見た上記のドラマでも「風立ちぬ」だけで終わっていたら、確認することもなかったと思う。わたしは「いざ生きめやも」に惹かれて意味を辿ろうとした。

すると、あらま、このフレーズは堀辰雄が翻訳したフランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の最後の連(?)にある始めのフレーズなのであった。

ヴァレリーのこの詩は長編詩なので載せるのを省くが、わたしの持つ詩集の翻訳には、

Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
「風が起こる・・・・・いまは生きねばならぬ」とある。(1969年出版マラルメ・ヴァレリー詩集) 人それぞれ感じることはあるだろうが、わたしには堀辰雄の翻訳の方が素晴らしいと思われる。

この詩の墓地はヴァレリーの生まれ故郷で、南フランスの地中海に臨んだ町セートだ。ヴァレリーの先祖の墓があり、彼自身もその墓に眠っていると言う。


Wikipediaより。ヴァレリーが眠る南フランスの海辺の墓地。

ところで、ヴァレリーの「海辺の墓地」で思い出したのが、長年過ぎてついにその詩にわたしがたどり着いた英詩の一行、「とどろく海辺の妻の墓」がある。以下に。

「とどろく海辺の妻の墓」

海の上で太陽が光を雲間に閉じ込められながら、かろうじて姿を見せている一枚の写真があります。



これは撮った写真を白黒にしてみたわけではなく、目まぐるしく天気が変化するロカ岬でスマホを利用して撮影したものです。暗い画像に、わたしはある詩の一行、「とどろく海辺の妻の墓」を思い出したのでした。

ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは詩人のみならず作家、翻訳家でもあり、エドガー・アラン・ポーの訳詩もしていました。

高校時代には、苦手な理数系の勉強はほったらかしに、フランス文学、ロシア文学、ドイツ文学の著名なものを図書館から借り出しては、外国文学の起承転結の明確なところにわたしは心を躍らし、片っ端から読みふけったものです。

そして、20歳頃にのめりこんだのに、松本清張シリーズがあります。「黒い画集」から始まり、清張の作品のかなりを読みました。
「社会派推理小説」と当時呼ばれた清張の作品は、大人の匂いがプンプンして、20歳のわたしは世の中の理不尽や犯罪に駆り立てられる人の心理を、こっそり覗いたような不思議な刺激を覚えたものです。 

それらの中でも特に心に残ったのは、霧の旗、砂の器、ゼロの焦点です。つい先ごろ、この「ゼロの焦点」をもう一度読み返す機会があり、思い出したのです。20歳の頃、気になりながら当時は調べようもなかった詩の1節がその本の中にあったことを。

In her tomb by the sounding sea. とどろく海辺の妻(彼女)の墓

訳が素敵だと今も思います。

戦後の混乱期の自分の職業を隠し、今では地方の上流社会で名を知られている妻が、過去を隠さんがため犯罪を犯す。やがて追い詰められた彼女が、冬の日本海の荒れた海にひとり小船を出して沖へ沖へと漕いで行く。その愛する妻をなす術もなくじっと見送る年老いた夫の姿を描くラストシーンに出てくる英詩です。

当時、この詩がいったい誰によって書かれたものなのか分からないまま長い年月が経っていたのでした。改めてこの本を読み終わりgoogleで検索してみようと思いつき英文でそのままキーワードとして打ち込みました。

おお、出たではないか!一編の詩に行き着きました。
この詩は、「Annabel Lee=アナベル・リー」と題されるエドガー・アラン・ポーの最後の作品なのでした。(詩全部をお読みになりたい方はWikipediaでアナベル・リーと検索すると出てきます)

「アナベル・リー」は、14歳でポーと結婚し、24歳で亡くなった妻、ヴァージニアへの愛を謳ったものだそうで、ポー最後の詩だとされています。

「とどろく海辺の妻の墓」は、その詩の最後の1節です。エドガー・アラン・ポーといいますと、わたしなどは、「アッシャー家の滅亡」の幽鬼推理小説家としての一面しか知らず、詩人でもあったとは、無知なり。

Wikipediaで検索しますと、ポーの大まかな人生が書かれていますが、残した作品に違わない(たがわない)ような激しい愛の一生を終えた人です。

50年近くも経ってようやく、「ゼロの焦点」のラストシーンと、このポーの人生の結晶である「アナベル・リー」の詩がつながったのでした。

ロカ岬の暗い画像から、リスボンの詩人フェルナンド・ペソア、そして、ポーのアナベル・リー、松本清張の「ゼロの焦点」のラストシーンにつながるとは奇遇なことです。

う~ん、これは清張ばりで行くと「点と線」が繋がったとでも言えるかしら。(註:「点と線」は松本清張の推理小説)

向田邦子のドラマからこんな話に及んだのですが、ドラマや推理小説から学べることが大いにあると感じたこの数日でした。
おかげで頭の疲れは治ったものの、ドラマの見過ぎで今度は目が疲れて、クマができたわけで。

何事も、過ぎたるはなお及ばざるがごとしでござる。