ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

野分

2018-10-19 07:34:46 | 日記
2018年10月19日

日は自分のメモとして書きます。

「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな」 

鳥羽殿とは鳥羽上皇のことで、この情景は鳥羽上皇の離宮へ急を聞きつけた5、6騎の武者が野分を駆け抜けていく様を詠んだ与謝蕪村の俳句なのですが、これを目にして、「おぉ!」と思ったのです。

と、言うのは、以前、拙ブログとりあげた、「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」ですが、我が日本語生徒のアルフレッドさんと一緒に勉強し始めたのは2016年10月、ちょうど2年になりますが、今回は時代の背景を「保元の乱」とする藤原基俊の75番歌から藤原顕輔(藤原のあきすけ)の79番歌までを5週間かけて詠み終えたところなのです。

雅やかな貴族政治から武家政治へと移る過渡期が歌の背景になるのですが、この時代に登場する白河天皇、崇徳院、近衛天皇の主だった立役者の中に鳥羽上皇は欠かせない名前です。なぜなら、この鳥羽上皇の死が、崇徳院(鳥羽院の第一子)と後白河天皇(鳥羽院の第四子)の皇位継承争いの「保元の乱」の引き金になるからです。

76番歌から79番歌の間には、保元の乱で破れ、藤原忠道によって讃岐に流された崇徳院の歌も含まれています。

「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」

多くの百人一首が恋を詠んだ歌だと解釈されているのですが、この歌も「別れたあの人ともいつかまた逢いたい」と現代語訳になりますが、ねずさんの解釈では、政争の濁流に押し流された二人(崇徳院と後白河天皇)の運命を象徴する歌であろうとされています。

崇徳院崩御の七百年後、明治天皇は食指を讃岐に遣わし崇徳院の御霊を京都へ帰還させたとあります。それが現在の白峰神宮だそうです。言うなれば、七百年後に崇徳院が詠んだ滝川は再びひとつの川になったということです。

我が日本語生徒で、80数歳のアルフレッドさんが、週に一度、その週の一首を共に勉強するとて、山を下りてくるのですが、この解釈本を読むことで、日本の歴史の一端にふれ、平安時代の貴族生活、文化、ひいては日本人とはどういう民族なのかを学ぶことができて、とても面白いと言います。

百人一首は恋の歌だものなぁ、などど思って、長い間、あまり見向きもしなかったのですが、こうしてねずさん(小名木善行氏)の解釈本を手にすることで、改めて日本の歴史に目を向け、思わぬ発見に出くわすことが多いこの頃です。

さて、冒頭の句にある「野分(のわき)」ですが、これは秋の暴風のことです。秋草の野を分けて、いずこへともなく去っていく強い風、つまり台風の古い呼び名です。


Wikipediaより

今ではあまり耳にしなくなった言葉ですが、秋の野の草花が強い風に乱れ吹かれる様を思うと、こんな台風にも風情を思ったいにしえの人々の心にいたく惹かれる自分に気付かされます。

もっとも、現代の大きな被害をもたらす台風には情緒も風情もありませんが、それもある意味、現代人が片棒をかついできた結果によるのではないかと思うわたしです。

最後に、野分についてわたしが好きな一句を。

大いなるものが過ぎゆく野分かな     高浜虚子

では、また。

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J.K.ローリングも通ったカフェ・マジェスティック

2018-10-16 22:26:03 | 海岸を散歩する聖人の旅行記
2018年10月15日


J.K.ローリングも通った古き時代の芳香漂うポルトのカフェ・マジェスティックをご紹介したい。

ストリート・ミュージシャンや観光客、もちろん地元の人達でもにぎわうサンタ・カタリナ通りはブティックが林立する歩行者天国だ。

この目抜き通りのハイライトが1921年にオープンした112 番地の「マジェスティック・カフェ」。20年代には文人や芸術家たちが集い討論に花を咲かせたマジェスティックはベル・エポック時代の歴史を語る「ポルトのエスプリ」とも言えよう。


しかし、60年代に入ると時代の変化に抗えずマジェスティックは衰退。80年代に入ると市の文化遺産としてポルトっ子たちの関心を集めるようになり、10年の月日をかけてオリジナル内装の華麗なアール・ヌーボースタイルを見事に復元した。



洗練されたイタリアン・ルネサンス・スタイルのファシャーダ(入り口)をくぐると濃緑色のインディアン大理石のフロアに小さな白い大理石のテーブル、アンティーク椅子、木彫細工の大鏡が訪問者を別世界に誘う。



マジェスティックはシラク元大統領も訪れた内外著名人たちの御用達でもあった。著作界の現代のスーパースターJ.K.ローリングはポルトに一時期住んだことがあるが、その滞在中にマジェスティックがお気に入りで第一巻「ハリーポッターと賢者の石」の一部はここで書かれたと言われる。


ローリングがどのテーブルに着いてどの章を綴ったのかとエスプレッソカフェをすすりながら想像してみるのは魅惑的ではないか。
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大阪弁のしゃれ言葉

2018-10-11 15:41:12 | 
2018年10月11日

少々くたびれ気味な時は、ベッドに横たわりネコどもを足元にはべらして気の張らない本をひもとく。疲労感を吹き飛ばすには笑いもいいと言うのでこんな折によく目を通す、おせいさんこと田辺聖子さんの本です。

大阪に10年ほど住んでいたわたしにはこういう表現は何度読んでもプッと笑いを誘い、大阪弁のユーモアとしなやかさを感じます。以下。

「あの商談は夜明けの幽霊でんなあ」 →「夜明けの幽霊」は立ち消える。
「あいつはトコロテンの拍子木や」→ おとなしい人のこと
「お前はとんど、八月の槍やの」→ 八月の槍は「盆槍」→ボンヤリ
「饅頭の臼で、あいつはあきまへん」→ 饅頭屋の臼は餡をつく→アンツク(あほう)
「あいつは紀州のスイカや」→ 皮が厚い あつかましい
「あん人、うどん屋の釜やで。あてにせんとき」→ 湯ばかり 言うばかり。つまり口先だけ

ぼんやりだのアンツクだのと言うと角が立つが、「饅頭屋の臼やぞ」「八月の槍やぞ」だと、言われた当人も、あははと笑ってしまい、「すんまへん、桶屋の前だれで、忘れてました」と頭に手をやり、恐縮できる、とのことw 
「桶屋の前だれ」は、いつも桶の輪が擦れる→わすれるだそうですよ。

もう一つ。これは歌や格言類をもじったもの。

「ぼくは君といる時が一番しわよせ来るんだ」→「ぼくは君といる時が一番幸せなんだ」加山雄三もじり                「金類みなちょうだい」→「人類みな兄弟」
「歯がために金が要る」→「誰がために鐘は鳴る」
「目に入れても見たくない」→「目に入れても痛くない」
「コネにて一件落着~」→「これにて一件落着~」(遠山の金さん)


いかがでございましょ?
え?ちょっと古すぎて、spacesisさん、あんたもお盆の商店街でんなぁ」
                 (↑spacesis作→お盆の商店街→暇) 
ほっといてんか~。

お粗末さまでございました!
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ポルト・ワイン(Port Wine)

2018-10-07 08:11:53 | ペット
2018年10月7日

ポートワインが美味しくいただける季節になりました。そこで今日はポルト・ワインについてです。

ポルトガル語では Vinho do Porto(ヴィニュ・ドゥ・ポルト)、ポルトのワインという意味です。


あえて「ポルト・ワイン」と書いたのは、昔、日本にあった赤ポートワインとよく間違えられるからです。通でもないわたしが書くのにはためらいがあるのですが、ポルトワインなくして我が街ポルトを語ることはできません。

わたしの話は、ごく一般的な知識の域を出ないと思いますが、宜しかったら読んでください。

ポルトワインは、その歴史と格調高い風味で世界のワイン通を魅了しており、食前酒、または食後酒のデザートワインとしてたしなまれます。お値段の程はピンからキリまで。

巷のスーパーマーケットで出回っているのでは、安いのは10ユーロくらいから良いものは100ユーロまで。ヴィンテージものとなると、10万円を超え、普通のマーケットなどでは手に入りません。

葡萄はポルトに注ぎ込むドウロ川上流の葡萄畑でとれたものが使われます。それらの葡萄は、摘まれてすぐに、男性たちが歌いながら一晩中足で踏み潰すのが昔カラの慣わしでした。

もっとも昨今これは、専ら観光客用のイベントとしか行われず、現在はほとんどが機械によってつぶされるようです。
 
さて、多くの人が勘違いするのですが、ポルトワインとポルトガル産のテーブルワインは大いに違います。何が違うかと言うとポルトワインは、醗酵の途中でブランディが加えられることです。 ブランディを加えることによって醗酵が止まり、糖分がアルコールに変わらずに残り、甘くて強いお酒になるのだそうな。

その後、ポルトの対岸の町Vila Nova de Gaia市の川べりに立ち並ぶ酒蔵の樽のなかで熟成され、さらにブレンドされて瓶詰めでポルトの港から世界に出荷されて来たのです。通常のテーブルウィンが10~15度のアルコール度数に比べ、ポルトワインは20度前後です

それで食事と共に飲むテーブルワインと違い、ポルトワインは食前食後酒としてたしなまれます。

今でこそ、ドウロ川上流から陸路を使って樽ごと酒蔵に運ばれて来ますが、昔はポルト独特のBarco Rabelo(バルコ・ラベロ)という帆掛け舟で、ドウロ川を下って運ばれて来ました。

ポルトワインは5種類に分けられます。

ルビーポルト:
美しいルビー色で樽熟成4、5年の若いワイン。甘口。 

タウニーポルト:
英語の黄褐色tawnyから名づけられた樽熟成6年以上。  

ヴィンテージポルト:
よい葡萄が収穫された年のぶどうのみを使って造られその年の年号がつく。
       
2年間の樽熟成の後瓶詰めされてそのまま瓶で熟成。 ラベルにはワイン会社名とともに必ず使用されている。葡萄の収穫年号と「Vintage」の表示がつく。     

レイト・ボトルド・ヴィンテージ(Late Botlled Vintage):
よい葡萄が収穫された年の一種類葡萄で造られる。 4、5年の樽熟成後瓶詰めされ、さらに瓶で熟成され、その年の年号が入る。
       
ホワイト・ポルト:
 白葡萄からつくられ食前酒として楽しまれる。他の4種類のポルト・ワインと違い、冷たく冷やして飲む。辛口。

実はこのポルトワイン、ポルトガル産物とは言うものの、上質のワインをここまで昇華させてポルトワインを世界の名だたるお酒に仕上げたのは、残念ながらポルトガル人ではなくて主にイギリス人なのですね。

わたし流に解釈すれば、ポルトワインは、本国では造ることができなかったイギリス貴族のワインであったわけです。ワイン会社の持ち主は、今では多くがイギリス人、ドイツ人などの外国人ばかりになってしまい、現在、所有者がポルトガル人だというのは、わたしが知る限りでは「Ferreira社」でしょうか。軒を貸して母屋を取られるとは、言ったものです。欲も機転もあまりないポルトガル人は、その甘い汁を持っていかれてしまったと言うことでしょうか。

ポルトガル人にしてみれば、「甘いけれども苦いポルトワインである」とわたしは密かに思っているのです。
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