ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

美しいわたしの日本:野だて傘

2018-12-02 21:58:37 | 日本のこと
2018年12月2日

子供たちが小中学生だった頃の帰国はほぼ3年ごとで、国への想いも一入(「ヒトシオ」と読むのだよ、モイケル娘よ。笑)だっものだ。

「あれもあったらいいな、これも欲しいな」と、3年分の想いがあるので、帰国していざポルトに帰って来る段になると、滞在中に買い集めた物の荷造りで毎回四苦八苦していた。

二人の子供たちの分も合わせて、飛行機に送り込む手荷物は、エコノミクラスで60キロなのだが、とてもそんなものでは収まらなかったのがわたしたちである。

子供たちの日本語教育に必携の参考書やドリル類から、自分が読みたい本、文房具(鉛筆、消しゴム、クレヨンなどの筆記用具は日本製が俄然良質なのであった)、和食器類に及び、日用品に於いては当時はポルトガルであまり見かけなかったプラスティック容器、果ては洗濯バサミまで持ち込んで、夫や夫の家族は苦笑したものだ。

時が移り、ポルトガルがヨーロッパ共同体の一国となりネットの普及等で今では色々便利になり、値段に余り細かくこだわらない限り、大概の物は手に入るようになった。世界的な日本食ブームで醤油、ダシの素、酒等も近頃はポルトで手に入る。

それで、家族から「船便代に10万もお金をかけるなんて、中身とあまり変わらないじゃないの」と呆れられていたわたしだが、近年はそうやって船便荷物を日本から送ることもなくなった。

色々考えると、持ってきた和食器も、どうもいまいち、洋風の食卓には合わない気がするし、第一、食材が違うので、和食器に盛り付ける少量多種のおかずが食卓にたくさん乗ることはなく、せいぜい、ほうれん草のおひたし、白野菜の酢味噌和え、豆腐の揚げ浸しくらいである。和食器は専らわたしが手に持って眺めるだけのことが多くなった。

わたしは時々依頼されると日本文化展を開いたりする。なに、自分が長年少しずつ持ち込んで来た日
本の小物をベッドの下の箱に仕舞い込んだままではもったいないと、素人がお披露目をするだけのことなのだ。日本から持って来た物の中でも、わたしが思い切って持ってきたのが、これです!↓


唐傘、番傘と呼ばば呼べ(笑)、買った当の本人は「野点傘(のだて傘)のつもりなのである。

これを探し回るには3週間の滞在では無理!野だて傘もどきをネットで探すのも大変だったのだが、やっと見つけ、当がモイケル娘に事前に買って置いてもらったのだ。

危うかったのは、包んだ紙が丁度よかったのか、当時息子と娘が同居していたアパートに着いてみると、モイケル娘の猫たちが早速に爪とぎにしていたこと!「ひゃ~~!」と、猫立ち入り禁止の息子の部屋に移したので助かった。息子の部屋は音楽作曲のpc機器が色々おいてあるので猫が入っては何かと危険なのである。

野点傘(妻折=つまおれ、とも言う)は柄がずっと長いのだが、値段が安くて7、8万から16、7万円、お茶を点てる(たてる)わけでもないわたしが、ほいほいと買うものではない。 が、わたしはず~っと長い間、これが欲しかったのだ。「赤は日本の色」だとすら思っている。日の丸だってそうだ^^

そして、野点傘の何に惹かれたかというと、赤色もさることながら、広げた傘の中、上部のこれです!


安物の傘ですら、かがり糸のこの美しさには目を奪われます。

これを二本、ダンボール紙でぐるぐる巻きにして持ってきたのですが、日本人はよく手荷物を開けられて足止めを食いがちなポルトの空港、「O que isto?(それは一体なに?)」と、きっと呼び止められるだろうと思っていたら案の定(笑)
「日本の紙の傘です。展示会に使います。」と答えると、中を開けて見ることなく、す~っと通ることができた。その時だけはこの荷をほどいて開き、見せてあげたかったくらいだったが。

こんな伝統的な日本の美も日本に居たら気づかなかったかもしれないと、小さなこの発見に大人気なく得意げになったものである。



エレファント 群盲象を評する

2018-09-04 16:34:33 | 日本のこと
2018年9月4日 エレファント

「群盲象を評する」という諺がある。

盲人たちが一頭の象に触り、それぞれが象とはいったいどんな動物かと語ることを言う。英語では、It´s the elephant in your living room.となる。

足に触る者、耳に触る者、鼻に触る者と、触る箇所によって色々に言い、全体像が見えない。同じものを論ずるにしても、その印象も評価も人によって違い、一部分だけを取り上げただけでは、全体は見えないぞ、ということを言っているのである。

随分前の話になるが、日本人の怒りを買ったマッカーサー発言の「日本人は精神年齢12歳」の真意は侮蔑ではないと、前バンクーバー総領事多賀敏行さんという方が書いてあった。

この方は国立国会図書館へ出向き、その言葉が書かれてある箇所の前後10数ページを読み、日本人を侮辱したというニュアンスで引用されているこの証言が、どのような文脈で飛び出したのかを調べたのである。

証言録を読んだ氏は、「マッカーサー本人は、主観的に日本を守ろうとして、日本を軽蔑するつもりがなかったのは、文脈から明らかである」との結論に達したそうだ。

こういう話を聞くと、先だっての「生む機械」発言や、杉田水脈議員の「LGBTは生産性がない」発言を始めとし、諸々の、ああ言ったこう言った類の報道にも同様に言えるのではないかと思った。

大臣の例え話をわたしは肯定しているのではない。わたしたちの日常にも、言葉の揚げ足をとられ、その部分だけが一人歩きして、いつの間にかとんでもない誤解をされてしまっていることが、気づかないままあるのではないかと思ったのである。

日本だけに限らないが、近頃の報道をみていると、人が言った事の一部を取り上げて節度なく騒ぎ立てる、つまり、揚げ足をとるとは報道関係者として余りにも品がないではないかと、わたしは少々うんざりしているのだ。自分の発言に責任を負うべきは当然だ思うのだが、それをスッポリ忘れていませんか、てんです。

わたしたちは、こういうエレファント的な判断を毎日のようにしているのかも知れない。瞬時に視覚に入ったもの、耳に入ったものを通して、浅はかな自己判断をしているのかも知れない。

故意に言葉尻をとらえて人を批判、攻撃する節が多いことにも眉をひそめるにいたる。全体像を見せずに、こっそり悪意を吹き込んで言葉尻だけ垂れ流されたらたまらんだろうなぁと、そういう批判にさらされた人を気の毒に思ったりするのである。

こうなってくると、報道のエレファント的吹込みにとらわれないで全体像を見るように、わたしたちも賢くならなければならないと思っている。

また、発言するときに、安易な言葉を使って人の気を引くような物事の例え方には気を払うべきだろう。あっという間に発言が拡散されてしまうツィッターのようなSNSなどは危険性を含んでいるものだ。

娘が高校時代に好んで読んでいたマンガ本があるのだが、たまたま開いたその本の、とあるページにドキリとして、象に触る群盲の一人のように、いとも簡単に物事を判断、評することを控え、全体像を見ないといかんなぁ、と思った次第である。


小泉吉宏氏の「シッタカブッタ」より。

マキアヴェッリに学べ

2018-08-22 14:39:55 | 日本のこと
2018年8月22日 

北海道の隣国による広大な土地購入と沖縄騒動を見ていて、これは有事の際には挟み撃ちだなぁ、と外から母国を見て焦っているのですが、みなさまはいかに?

そこで、今日はこんなことを書いてみたのですが。題して「マキアヴェッリに学べ」。


自分たちの国の運命を他国の軍事力に頼ってはならない。
まるきり人の軍事力に頼ってる日本ではある

全ての都市、すべての国家にとっては、領国を侵略できると思うものが敵であると同時に(うん、いるいる。それも大小3隣国だ!)それを防衛できると思わない者も敵なのである。 (いかにも!国内にも敵はあり
君主国であろうと共和国であろうと、どこの国が今までに、防衛を他国に任せたままで自国の安全が保たれると思ったであろうか。

政治上の無能は経済上の浪費につながる。(ほんとにその通り!IMFやらODAやら外国人生活保護費やら、震災復興予算費流用やらの浪費をあげつらったらきりがない

政治上の無能はしばしば節約を強いる部門の選択を誤ることにつながる。
ズバリ、レンホー氏の過去の仕分け作業

都市(国家)は、軍事力なしには存続不可能だ。それどころか最後を迎えざるを得ない。最後とは、破壊であるか隷属である。(怖いほどに感じる

普通、人間は隣人の危機を見て賢くなるものである。 (チベットを見よ!)それなのにあなたがたは自ら直面している危機からも学ばず、あなた方自身に対する信ももたず、失った、または現に失いつつある時間さえも認識しようとはしない。運は、制度を変える勇気をもたないものには、その裁定を変えようとはしないし、天も自ら破壊したいと思うものは、助けようとはしない。助けられるものでもない。

個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。しかし権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである。 (口先と金のバラマキだけではダメ。隣国との慰安婦問題の反故などこれである。力がないから平気で協定を破られるのだ。)

都市(国家)は全て、いかなる時代であっても、自らを守るためには、力と思慮の双方を必要としてきた。なぜなら、思慮だけでは十分でなく、力だけでも十分ではないぁらである。思慮だけならば、考えを実行に移すことはできず、力だけならば、実行に移したことも継続することはできない。したがってこの二つが、いかなる政体であろうと関係なく、政治の根本になるのである。この現実派、過去においてもそうであったし、また将来においてもそうであることに変わりはないであろう。(力のない正義は無力だということだ

竜に一人一人順に食われていくのがいやならば、竜を皆で殺すしかない。(脱亜論にのっとる

上記、まさに現在の我が国に向けたメッセージそのものに捉えられる。が、実はこれ、以前一気に読んだ本、塩野七生氏の「我が友、マキアヴェッリ」の中からの抜粋なのです。赤字はわたしの突っ込みです。

世紀のイタリア、ルネッサンス期のフィレンツェ共和国に使えたニコロ・マキアヴェッリはさほど裕福でない中流家庭に生まれ、高等教育、今で言う大学を受けていないノンキャリア官僚だったとのことで、このあたりから引き込まれて読んだところが、んまぁ、あたかも我が国の政治家たちに言って聞かせているような、上記のマキアヴェッリの言葉であります。権謀術数のマキアヴェッリと言われるものの、至極まっとうな言葉ではありませんか。

この当時のフィレンツェ共和国は、四方を海に囲まれた島国の日本とは地理的条件は違っているものの、現在の日本同様、繁栄力の反面、軍事力を持たず、いざというときには傭兵に頼っていたのです。政府の優柔不断ぶりを、会談に於いては若きチェーザレ・ボルジアをして「あなた方の政府は嫌いだ。信用ができない。変える必要がある」とまで言わしています。このあたりも今の日本政府にそっくりそのまま聞かしたい部分です。

ノンキャリアであるがため第二書記局書記官の職以上は望めず、それでも祖国の独立を守ろうとするマキアヴェッリの東奔西走にも拘わらず、フィレンツェ共和国はやがて滅亡するのでが、読み進めながら、フィレンツェ共和国の姿が我が祖国と重なり、暗澹とした気持ちに襲われます。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶとはドイツ初代宰相ビスマルクが言った言葉ですが、今の日本の政治家は、自国の歴史は愚か、世界の歴史に学ぶなど及びもしないのでしょうか。手がけるべきことも何一つ進められず、「近いうちに」と無責任は留まるところを知らない。ほとほと嫌気がさしています。

過去の歴史にもないような、異様な姿に日本が見えるのはわたしにだけでしょうか。そうであることを願わずにはいられない昨今です。

終戦記念日:忘れてしまったもの

2018-08-18 08:26:14 | 日本のこと
2018年8月18日 

今年の8月15日は旅行中だったため、終戦の日への思いを綴らぬままになってしまいました。
世界のどこかでまだ戦争が行われているという悲しい事実はあるのですが、終戦後に生まれ育ち、少なくとも今、戦争がない国に住んでいる自分の幸運を噛み締めています。この幸せは、過去の歴史で命を落とした人たちの犠牲に立っているものだと、わたしは思っています。

そして、8月になるといつも思い出される話があります。2007年に産経新聞の「やばいぞ日本」で紹介された終戦直後のアメリカ人による体験談です。記事をプリントアウトしていますので、自身のための戒めとして今日はその記事を二つ載せたいと思います。長文になりますが読んでいただけたらと思います。

【忘れてしまったもの】

・靴磨きの少年・一片のパン、幼いマリコに

81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
 
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてれくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と二人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。
 
東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。

彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。
 
彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
 
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2ヵ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系入として初めてハワイ州知事に就任した。

のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」
 
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭真防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。

それを聞いた蛯原氏は「毅然とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。
 
アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
 
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」

凛とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。

・焼き場の少年

終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年=2007年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。(この物語は日本の中学生の国語教科書でも紹介されており、ポルト補習校時代に担当の子どもたちと学んだことがある)



Wikiより

 原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学学館発行)でこう回想している。

 「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)
 
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。
(略)
 私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
 
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。

 「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
 
1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
 
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」
 
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
 
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。
 
当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本が物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。

 こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。(中静敬一郎)

2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」より
                                     
本日はこれにて。

美しきわたしの日本

2018-04-11 20:54:44 | 日本のこと
2018年4月11日

今日はツーソン留学紀は休んで。 

わたしの故郷は弘前である。4月に入るや、外国では耳慣れない「さくら前線」という言葉が踊りだし、日本列島は南から北へ北へとさくらの花で埋め尽くされて行く。

南でさくらが咲く頃、北国はまだ早春で長い冬の衣を脱ぎ捨てるのを今か今かと待ち構えている。春の訪れとともに一斉に芽吹き息づく花々を見ては、毎年決まってポルトにいながらわたしは日本の春を、さくらの春を、さくらの弘前を恋い焦がれるのである。


数年前に弘前で買い求めたもの。今は手元に置いてあり、いつでも手にとって眺められる。

「敷島の やまとごころを人問わば あさひににおう山桜花」
 
高校時代教の科書に出てきた本居宣長の歌である。あの頃はただただ外国に憧れ、やまとごころのなんたるかに目を向けることもなかった。ポルトガルという異文化に長い間身を置いて初めて自分の日本人のルーツに心を向け始めたと思う。

その折に、この本居宣長の歌は透明の水の中に、あたかもペンから一滴の青インクが滴り落ちて、静かに環を広げて行くかのように、記憶の向こうからやって来たのである。

本居宣長のこの歌には、色々な解釈があるようだ。「やまとごころ」を「武士道」と照らし合わせる解釈もあるが、大和人は男だけではないからして、わたしはもっと平たく、日本人の心と解釈することにしている。

日本人の心とはなんであろうか。そんな大それたことをわたしには論ずることはできないが、祖国を40年近くも離れて異国に住む一人の日本人として綴ってみたいと思った。

作家曽野綾子さんのエッセイに、4月に成田上空にさしかかった時の経験を書いたものがあった。

曇り空の下に点々と枯れ木にしか見えない木々があった。大変だなあ、今年はあんなに木が枯れた、と思ってからギョッとしたのだそうな。 ひょっとすると桜ではないかと。果たしてその通りで、飛行機が次第に高度を下げて来て、枯れ木としか見えなかった木々がわずかに色彩の変化を見せ、桜となったのだそうだが、機内の外国人客は、誰一人としてさくらに反応を示した様子は見られなかった。この時初めて、桜は花の下で見るものなのかもしれないと思った、(ここまで要約)と。

わたしはこれを読んだ時、軽いショックを受けると同時に、日頃、日本語クラスで日本文化の話に及ぶとき、ついつい「さくら」の美しさを、目を細め熱っぽく語ってしまう自分の姿を思い浮かべたのだ。

桜への思い入れは、日本人独特のものではないだろうか。そうして見ると、秋の紅葉や真っ白い雪の中に映える「寒椿」等にも、わたしたちは深い思いがあるように思われる。このような光景を思い浮かべるだけでわたしの胸には美しき天然へのなんとも言われぬ懐かしさがこみ上げてくる。

また、詩人、大岡信さんが京都嵯峨野に住む染色家、志村ふくみさんの織物を綴っていたことがある。美しい桜色に染まった糸で織ったその着物のピンクは、淡いようで、しかも燃えるような強さを内に秘め、華やかでいながら深く落ち着いている色であった。その色に目と心を吸い込まれるように感じた詩人は、桜から取り出した色だという志村さんの言葉に、花びらを煮詰めて色を取り出したのだろうと思ったのだそうである。

しかし、それは、実際には、あの黒っぽいごつごつした桜の皮から取り出した色なのだった。しかも、一年中どの季節でもとれるわけではなく、桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると言う。「春先、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿。花びらのピンクは幹のピンク、樹木のピンク、樹液のピンクであり、花びらはそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものに過ぎなかった」(要約)

この詩人は、「言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だと言ってもいい。これは言葉の世界での出来事と同じではないかという気がする」と言うのですが、わたしは詩人のエッセイにも、そして嵯峨野の染色家にも、いたく心惹かれて、ずっとこのエッセイに書かれてある言葉が心に残っている。

さくらに限らず、異国の町を車で走りぬけるときも、日本ほどではないが、それなりの季節の移り変わりを見せてくれる景色はある。車を走らせながらも、目前に広がる大きな並木道に 「あぁ、きれい。春やなぁ。秋やなぁ」と、思わずその移り変わる季節の匂いを空間に感じる。

とは言え、ひとひらの花びらを、一枚の紅葉を、そっと拾い上げて日記に仕舞い込む。ポルトガルの生活の中で、こんなことを密かにしている人は、何人とはいないであろう。



そんな時、わたしは自分の中のやまとごころがふと顔を出すように思う。無意識のうちに、自分に密かに語りかける自然の声が聞こえる気がするのだ。大自然が広がるアメリカやカナダにも、そういう人はいるだろうが、わたしのような、極々一般の人間でも、そういう感覚は多くの日本人が持っていると思う。花を愛で、はらはらと散り逝く花の潔さと儚さに美学を見るのは日本人の特性なのだと異国に長年住んで今はしきりに思える。   
  
今年も弘前にさくらが咲く季節になった。