ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

月下独酌

2018-01-13 00:12:22 | 日本語教室

2018年1月12日

日本語教室の話です。

我が生徒の最年長者83歳のアルフレッドさんとの日本語授業でのこと。

現在、二人で600ページ近くに及ぶ「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」を勉強しているのですが、9世紀から10世紀初頭にかけて生きた、在原業平の甥、大江千里(おおえのちさと)の23番歌を読み終えた時のことです。

在原業平とくれば、今で言う「イケメンもて男」。人気漫画のタイトルともなっている「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」の作者でもあります。また、古今和歌集に納められている業平の歌にはわたしの好きな、「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」もあり、優れた歌人だと言われます。

しかるに、このもて男の業平は小野小町を口説いて、実は振られていたのだそうですよ。この本で知ったことですが、単なる歌の解説に終わっていない点がこの本の面白い点で、アルフレッドさんとああだ、こうだと言い合いながら(ポルトガル語、英語でのディスカッションです)、楽しんで学んでいます。

さて、その業平の甥、大江千里の歌、

月見れば
千々に物こそ 悲しけれ
我が身ひとつの 秋にはあらねど

月を見上げると、心が千々にに乱れて悲しくなるなぁ。わたし一人の秋ではないのだけれど
(現代語訳:「ねずさんのねずさんの日本の心で読み解く百人一首」引用)

大江千里は漢学者でもあり、この歌も「燕子楼(えんしろう)」という漢詩が元歌なのだそうです。
下に読み下しを記してみます。

満窓(まんさう)の明月、
満簾(まんれん)の霜

被(ひ)は冷やかに、燈(とう)は
残(うす)れて臥床(ふしど)を払ふ

燕子楼(えんしろう)の中(うち)の
霜月(さうげつ)の夜

秋来(きた)つて只
一人(いちじん)の為に長し

この漢詩を機に、アルフレッドさんの提案で、李白の「月下独酌」なる詩を勉強してみました。下記、ネットで拾ったものです。

花間一壺酒  花間 一壺の酒
独酌無相親  独り酌みて相ひ親しむ無し
挙杯邀明月  杯を挙げて明月を邀へ
対影成三人  影に対して三人と成る
月既不解飲  月既に飲むを解せず
影徒随我身  影徒らに我が身に随ふ
暫伴月将影  暫らく月と影とを伴って
行樂須及春  行樂須らく春に及ぶべし
我歌月徘徊  我歌へば月徘徊し
我舞影零乱  我舞へば影零乱す
醒時同交歓  醒むる時同(とも)に交歓し
醉后各分散  醉ひて后は各おの分散す
永結無情遊  永く無情の遊を結び
相期獏雲漢  相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に

漢字が分かる日本人にとって、漢詩はなんとなく意味がつかめますね。月と自分の影を相手に酒を楽しんでいる訳ですが、興味ある方はネットで検索していただくとして、普段は山で生活をし、日本語授業がある時にポルトに下りて来るアルフレッドさん曰く、「この詩はまるでわたしの山での生活を歌っているようです」。

聞けば、彼の山の家の周囲にはポルトガルでは見られない桜の木や銀杏の木が植えられ、ベランダからは月が昇ってくるのが見えるのだそうな。「いらっしゃい、いらっしゃい」と言われながらも、まだお邪魔していないわたしです。

この時わたしはかれこれ10年以上も昔、木彫家の我が親友の山房での一夜を思い出しました。日本庭園を前に、和室の縁側で向こうに見える山並みと煌々たる月を眺め、漬物を肴にして和歌山の地酒「黒牛」を飲みながら、ポルトガルの、そして、彼女の四方山話をお互いポツポツと夜通し語り合った忘れられぬ夜のことです。


庭から山を望む

気が付けば、いつの間にか二人で一升瓶を空にしていたのでした。それが不思議と酔うこともなく、「酒は静かに飲むべかりけり」とはこういうことかと思ったものです。



座敷の横の縁側で一晩中静かに杯を傾け。

 

漢詩の最後、「ともあれ月と影と親しく交友し、遥かな銀河での再会を誓おう」と訳せる「相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に」は、胸にジンと響くものがあります。

この春の帰国では、3年ぶりに親友を和歌山に訪ね、この詩のにわか講釈を披露してまいりました。ワインよりも、ビールよりも、美味しいお酒を素敵な酒器でいただきたいと思うこの頃、ポルトではそうも粋真ッ線が、毎晩軽く日本酒を晩酌とする妹夫婦との再会も、帰国の楽しみの一つなのであります。

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。
ではまた。