ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

もしも海底ケーブルが切断されたら?

2022-04-26 01:00:06 | 日記
2022年4月25日 

2020年の春以来、わたしたちの生活は変わった。会いたい時にはいつでも会えたはずが、行きたい時にいつでも行けたはずが、叶わなくなったのである。ロシアのウクライナ侵攻はわたしたちに更なる打撃を与え、便利だったヨーロッパ日本間、11~12時間の飛行時間も、ロシア上空を通過できないので飛行時間が40年前の昔にもどってしまった。

これらのことは何とか我慢できる。怖いのは、先日、とあるブログで目にした記事、世界の海に張り巡らされている海底ケーブルを、もしロシアが切断した場合、どんなことが起こるかと言う話だ。今ではわたしたちの日常生活に欠かせない通信手段が全て使用不可能になるのだそうだ。

海底ケーブルは世界に447本あり、このうちの10本を切断されるとヨーロッパでは通信不可になると言うのだ。ATMやネットも使用できなくなり、飛行機も離着陸できない。メールが来なくなりニュースも入らない。もしかして、船舶がなんとか動くとして、音沙汰を連絡し合う手紙も2か月3カ月かかる?

コロナ禍とロシアのウクライナ侵攻でそう簡単に帰国はできないが、それでも今はどうしてもという時の帰国の手段はある。が、海底ケーブルが切断されたら、子どもたち、孫、妹、友人たちにいつ会えるか全く分からなくなるということだ。日本の食べ物よりなによりそれが一番辛い。考えたらゾッとする話ではないか。

「待てば空路の日和あり」だ、がんばろ、なんて書いたのは数日前のことじゃん。あはは ウクライナのネット網を使えないようにしたプーチンのことだ、何をしでかすか分からんと、こんなことを考えては、また気持ちが揺らぐ自分にうんざりしているのだ。

わたしは毎朝、ネット上の新聞やブログを通して日本のニュースを見聞きしているのだが、その中にYAHOO!JAPANがあった。ネット新聞は肝心の読みたいニュースが有料だったりしてがっかりすることが多いのだが、YAHOO!JAPANは盛りだくさんのニュースで海外在住の日本人のニュースソースに役立って来たと思う。
それが、今月上旬を持ってヨーロッパからはアクセスできなくなってしまったのである。たったそれだけの不可なのに、随分と不便になってしまった感がある。

ましてケーブル切断でインターネットが全く使えなくなったとしたら、と想像するだに恐ろしい。

また、ポルトガルでは人々は現金を持ち歩かない。カフェを除いてはほとんどがカードでの支払いだ。夫にこの話をして、「あのね、万が一ATMやカードが使えないってことがあったりしたら大変だから、ある程度の現金を用意しておかない?」ともちかけたのだが、あははと笑ってお仕舞い・・・

いいのだ、あたしはちゃんとヘソクリで現金を隠し持ってるのだぞ、へへ。とはわたしの内心のつぶやきだ。我が東京息子は、友人が税金の支払いを溜めていたがため、ある日突然、口座が差し押さえられてカードが使えず手元に現金を置いていなかったので、えらい目にあったとのこと。息子が貸したお金でしばらくなんとかしたらしい。その話を聞いて以来、息子はある程度の現金を持って置くことにしたのだそうな。

本当は、コンピューターのなんたるかを知らずしてパソコンを使っているわたしなのだが、この歳になって便利さに振り回されているのが時に頭にくるのである。頭に来ながらも、世の中の変化についていけないと言うのも癪なのだ。知らなければ心が乱されないのに、あちらこちらでニュースを拾っては、怖いかもなぁと今日もつぶやいているわたしだ。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。

「橋の上の霜」と狂歌師

2021-11-04 03:25:44 | 日記
2021年11月3日

ずいぶん前のことだ。
外国人にとっても日本語が比較的聞き取りやすいとわたしが思った映画、「日日是好日(樹木希林主演)」を、日本語中級クラス生徒に見て欲しいと思って、youtubeで探していた時に、偶然目についたのが「橋の上の霜」という江戸時代のドラマだ。

題に惹かれて何とはなしに開いてみると、原作が平岩弓枝、主演が金八先生こと武田鉄矢で、1986年に放映されたとのこと。

どれどれ、と見ていくうちに、主人公直次郎が狂歌師だと言う。その親しい友人の朱楽 菅江(あけら・かんこう)の名を耳にして、あっと思った。

我がモイケル娘、院では中世文学を選び、狂歌師、山辺黒人(やまべのころうど)をテーマにした卒論に取り組んだのだが、その時に、狂名にはこんなおもしろいのがある、こんなヘンチクリンなのがある、と、話を聞かされたのである。それを思い出したのだ。

狂歌師はしゃれに富んだ狂名を号したと言われ、朱楽 菅江は「あっけらかん」から、頭光は「つむりのひかる」、元木網(もとのもくあみ)など(モイケル娘の受け売りなり。笑)、愉快な狂名が多い。

しからば、ドラマの直次郎とはと言うと、江戸の下級武士太田直次郎で、後に狂歌三大家と呼ばれた、朱楽 菅江、唐衣橘洲(からこもろきっしゅう)らと並ぶ残りの一人、狂名「太田南畝(おおたなんぽ)」更に「蜀山人(しょくさんじん)」と名を馳せる直次郎の若い頃、「四方赤良(よものあから)」と名乗っていた時代を描いている。

下級武士ゆえ金はなかったが文才があったのでパトロンが付き遊ぶ金にはことかかなかったが、吉原の遊女に入れあげ、ひょんなことから分不相応にも遊女を身請けしてしまう。しまいには自分の屋敷の離れに見受けした遊女を住まわせるという、なんともダメな男の話ではある。

後半は、そこそこに狂歌師としての名も売れてきたところで、

白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき
世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜も寝られず

と、狂歌で寛政の改革批判をしたと噂され、危うく首が飛ぶところであった。

この二つの狂歌は、高校時代の歴史で習ったのでよくそらんじている。が、まさか、こんな年月を経て、こういう物語のからくりがあったとは知らなかった。

さて、直次郎は上の2作については自作を否定している。取り調べまで行く以前に、朱楽 菅江のとりなしで、直次郎の歌を読んだ上司が感動し、おとがめなしとなる。その歌が、

「世の中はわれより先に用のある人のあしあと橋の上の霜」なのである。

太田南畝、または蜀山人(しょくさんじん)の歌にはこういうのもある

「世の中は幸と不幸のゆきわかれあれも死にゆくこれもしにゆく」

後に支配勘定に出世、文政6年(1823年)、登城の道での転倒が元で75歳で死去。
辞世の歌は、

「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」

最後まで狂歌の精神、ユーモアを忘れなかった太田南畝ではある。

下記、モイケル娘が、狂歌師院卒論に四苦八苦していた頃の我が日記を抜粋。以下

2015年2月9日 

去年の秋口からずっと、修士論文、狂歌師に取り組んできた我がモイケル娘ですが、しばらく前に口頭面接試験も終わり、なんとか院卒業にこぎつけそうです。

娘から送られた修論の一部を目にして即、「なんじゃいな?この黒人て?江戸時代に日本に黒人がおったとは思えないぞ」と言ったら、笑われた。
「おっかさん、コクジンじゃなくて、クロウドと読むのじゃ」。

そう言えば、江戸時代の狂歌師をテーマにとりあげて、数ヶ月、市立図書館や大学の図書館に通い詰めで、ほとんど悲鳴をあげんばかりの娘であった。それはそうだろう。大学4年間は英語系だったのを、いきなり院で近世日本文学だと言うのだから。

18歳までポルトガル生まれポルトガル育ちの彼女にしてみれば、英語、ポルトガル語、日本語のトライリンガルに、もうひとつ、「江戸時代の日本語」という外国語が加わるようなものです。

古文などは、週に1度の補習校の中学教科書で、「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」と言うようなさわりの部分を目にしたくらいで、知らないと同様の状態で取り組んだのですから、その大胆、かつ無鉄砲なるところ、その母の如し。笑

浜辺黒人なんて、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ」の歌人、山部赤人(やまべのあかひと)のもじりではないか(笑)

狂歌は和歌をパロディ化したものらしい。そこで、ちょいとネットで検索してみると、あはははは。狂歌師たちの狂名に笑ってしまった。

朱楽菅江(あけらかんこう=「あっけらかん」のもじり)、
宿屋飯盛(やどやのめしもり)、
頭光(つむりのひかる)、
元木網(もとのもくあみ)、 
多田人成(ただのひとなり)、
加保茶元成(かぼちゃのもとなり)、
南陀楼綾繁(ナンダロウアヤシゲ)
筆の綾丸(ふでのあやまる)
↑これなどはしょっちゅうキーボードでミスタイプして誤字を出すわたしが使えそうだ。わたしの場合は、さしずめ、「指の綾丸」とでもなろうか(笑)

筆の綾丸(ふでのあやまる)は、かの浮世絵師、喜多川歌麿の狂名だという。中には、芝○んこ、○の中には母音のひとつが入るのだが、これなどには唖然としてしまう。

おいおい、モイケル娘よ、こんなヘンチクリンな狂歌師たちとその作品を相手の修論、資料が少ないともがき苦しんでいたなんてホンマかいな。腹を抱えて笑うのにもがき苦しんでいたんではないか?等と勘ぐったりしているのはこのおっかさんで、当たり前だが修論はいたってまじめに仕上げられている。この研究が生活にはすぐ役立たないが、そういう学業を教養と言うのかもしれない。高くついた教養ではあるが(^^;)

本日は長い拙文を読んでいただき、ありがとうございます。
なお、「橋の上の霜」を見たい方は、youtubeで検索すると、出てきます。

風立ちぬ、いざ生きめやも

2021-10-25 22:41:46 | 日記
2021年10月25日
 
「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、1996年に放映されたとある向田邦子ドラマ劇場シリーズのひとつ、「風たちぬ」のラストシーンで使われる言葉だ。

堀辰雄の小説、また近年ではジブリアニメで最初の部分がタイトルになっているが、わたしはどちらも読んでいないし見ていない。

今回Youtubeで見た上記のドラマでも「風立ちぬ」だけで終わっていたら、確認することもなかったと思う。わたしは「いざ生きめやも」に惹かれて意味を辿ろうとした。

すると、あらま、このフレーズは堀辰雄が翻訳したフランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の最後の連(?)にある始めのフレーズなのであった。

ヴァレリーのこの詩は長編詩なので載せるのを省くが、わたしの持つ詩集の翻訳には、

Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
「風が起こる・・・・・いまは生きねばならぬ」とある。(1969年出版マラルメ・ヴァレリー詩集) 人それぞれ感じることはあるだろうが、わたしには堀辰雄の翻訳の方が素晴らしいと思われる。

この詩の墓地はヴァレリーの生まれ故郷で、南フランスの地中海に臨んだ町セートだ。ヴァレリーの先祖の墓があり、彼自身もその墓に眠っていると言う。


Wikipediaより。ヴァレリーが眠る南フランスの海辺の墓地。

ところで、ヴァレリーの「海辺の墓地」で思い出したのが、長年過ぎてついにその詩にわたしがたどり着いた英詩の一行、「とどろく海辺の妻の墓」がある。以下に。

「とどろく海辺の妻の墓」

海の上で太陽が光を雲間に閉じ込められながら、かろうじて姿を見せている一枚の写真があります。



これは撮った写真を白黒にしてみたわけではなく、目まぐるしく天気が変化するロカ岬でスマホを利用して撮影したものです。暗い画像に、わたしはある詩の一行、「とどろく海辺の妻の墓」を思い出したのでした。

ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは詩人のみならず作家、翻訳家でもあり、エドガー・アラン・ポーの訳詩もしていました。

高校時代には、苦手な理数系の勉強はほったらかしに、フランス文学、ロシア文学、ドイツ文学の著名なものを図書館から借り出しては、外国文学の起承転結の明確なところにわたしは心を躍らし、片っ端から読みふけったものです。

そして、20歳頃にのめりこんだのに、松本清張シリーズがあります。「黒い画集」から始まり、清張の作品のかなりを読みました。
「社会派推理小説」と当時呼ばれた清張の作品は、大人の匂いがプンプンして、20歳のわたしは世の中の理不尽や犯罪に駆り立てられる人の心理を、こっそり覗いたような不思議な刺激を覚えたものです。 

それらの中でも特に心に残ったのは、霧の旗、砂の器、ゼロの焦点です。つい先ごろ、この「ゼロの焦点」をもう一度読み返す機会があり、思い出したのです。20歳の頃、気になりながら当時は調べようもなかった詩の1節がその本の中にあったことを。

In her tomb by the sounding sea. とどろく海辺の妻(彼女)の墓

訳が素敵だと今も思います。

戦後の混乱期の自分の職業を隠し、今では地方の上流社会で名を知られている妻が、過去を隠さんがため犯罪を犯す。やがて追い詰められた彼女が、冬の日本海の荒れた海にひとり小船を出して沖へ沖へと漕いで行く。その愛する妻をなす術もなくじっと見送る年老いた夫の姿を描くラストシーンに出てくる英詩です。

当時、この詩がいったい誰によって書かれたものなのか分からないまま長い年月が経っていたのでした。改めてこの本を読み終わりgoogleで検索してみようと思いつき英文でそのままキーワードとして打ち込みました。

おお、出たではないか!一編の詩に行き着きました。
この詩は、「Annabel Lee=アナベル・リー」と題されるエドガー・アラン・ポーの最後の作品なのでした。(詩全部をお読みになりたい方はWikipediaでアナベル・リーと検索すると出てきます)

「アナベル・リー」は、14歳でポーと結婚し、24歳で亡くなった妻、ヴァージニアへの愛を謳ったものだそうで、ポー最後の詩だとされています。

「とどろく海辺の妻の墓」は、その詩の最後の1節です。エドガー・アラン・ポーといいますと、わたしなどは、「アッシャー家の滅亡」の幽鬼推理小説家としての一面しか知らず、詩人でもあったとは、無知なり。

Wikipediaで検索しますと、ポーの大まかな人生が書かれていますが、残した作品に違わない(たがわない)ような激しい愛の一生を終えた人です。

50年近くも経ってようやく、「ゼロの焦点」のラストシーンと、このポーの人生の結晶である「アナベル・リー」の詩がつながったのでした。

ロカ岬の暗い画像から、リスボンの詩人フェルナンド・ペソア、そして、ポーのアナベル・リー、松本清張の「ゼロの焦点」のラストシーンにつながるとは奇遇なことです。

う~ん、これは清張ばりで行くと「点と線」が繋がったとでも言えるかしら。(註:「点と線」は松本清張の推理小説)

向田邦子のドラマからこんな話に及んだのですが、ドラマや推理小説から学べることが大いにあると感じたこの数日でした。
おかげで頭の疲れは治ったものの、ドラマの見過ぎで今度は目が疲れて、クマができたわけで。

何事も、過ぎたるはなお及ばざるがごとしでござる。

復活祭に思うつれづれ

2019-04-20 10:11:52 | 日記
2019年4月20日 

国民の大半がカトリック信者だったポルトガルですが、それも時代の流れで変わりました。そのひとつに、わたしがポルトガルに来た当時は離婚が認められていなかったのが、してもよろしいということに法律が変わったことです。神の前で誓った結婚は最後まで添い遂げる、実生活がそうでなくとも紙面上はそうなっていた人が多くいたようです。

わたしの実体験から宗教面での変化がはっきり見えたのは、補習校の講師をしていた頃です。

補習校はポルトの地元小学校の一部を毎土曜日に借りるのですが、ある日、あれ?と気づいたことがありました。それは、教室の大きな黒板の真上に見られていた小さなキリスト像が撤去されていたことでした。国の大きな変化はこうして教育面から変えられて行くのだと言うのを実感した出来事でした。

そして、近頃感じるその手の変化はと言うと、これまでの宗教祝日が国政のトップによって突然その年は休日にならなかったりすることです。

さて、このように変化しつつあるポルトガルですが、クリスマス、復活祭を祝うのは欧米諸国と同じく今のところ健在です。

この時期はテレビでは聖書がらみの映画、「ベン・ハー」「十戒」「聖衣」「ー偉大な生涯の物語」など、たくさん放映されてきましたが、ここ数年その本数がかなり減りました。これも時代を反映しているのでしょう。

わたしはクリスチャンではありませんが、聖書に基づく物語はスケールが大きくて、現代に通ずるものが随所に織り込まれているように思われ、興味があります。これらの物語は古代史を考察する上でも興味深い点がたくさんあると思います。

好きな本や映画は何度繰り返しても飽きない性質です。素晴らしい場面は感動を呼び覚まし、随所随所で語られる言葉は、乾いた大地に染み込む清水のようです。クリスチャニティを持たないわたしにすらこのような思いを抱かせる聖書の物語は、やはり偉大であると言わざるをえません。

ポルトガルは聖木曜日から明日の日曜日まで復活祭の週ですが、復活祭に因んで今日はわたしが調べたことをここで取り上げてみたいと思います。

「過ぎ越しの祭り」を知っているでしょうか。これは、旧約聖書を読んだことのある人なら、旧約聖書の出エジプト記に記されている出来事だと分かるでしょう。現代に至ってユダヤ民族が受け継いでいる祭りです。

エジプトのファラオの元で奴隷として扱われていたイスラエル人を、モーゼが奴隷状態から開放するよう、ファラオに願いでるのですが、王はこれを聞き入れません。モーゼは、神の導きによりエジプトに10の災いを施します。最後の災いが「人や家畜などの長子を死に導く災い」です。

この時、神の指示により、イスラエル人の家は子羊の血を「家の柱と鴨居」塗ります。(←日本の神道の赤い鳥居と重なるとの説を読んだことがある) この疫病(ビールスや病原菌)はこうして闇の中、赤い印のあるイスラエル人の家は過ぎこされるのです。

ファラオの長子もこれで死にます。哀しみに打ちひしがれたファラオはついに、イスラエル人がエジプトを出ることを認め、この後、映画「十戒」でもあるように、出エジプト記の山場「紅海」が真っ二つに割れて海を渡るのです。

ユダヤ民族の「過ぎ越しの祭り」はこの故事に由来し、モーゼと共に果たした出エジプト・「Exodus=奴隷から開放され約束の地までの40年間の長い旅」を記念して、3000年もの昔から祝ってきたのだそうです。この時期はイースト菌を入れないで焼いたパンを食べるのが慣わしです。

この由来からして、イースター、復活祭と言うのはキリストの復活を祝うだけではない、ということがわかります。キリストが生まれるそれ以前にユダヤの人々の間では「過ぎ越しの祭り=pessah=ぺサハ」として、この時期は祝されて来たことになります。

イエスは、木曜日の最後の晩餐後、彼の12使徒の一人、ユダの裏切りにあい十字架の刑を受け、復活します。こうしてキリスト教でもこの時期はイースター=キリストの復活として、受け継がれて来ました。

余談になりますが、2006年に米国ナショナル・ジオグラフィック協会が、エジプトの砂漠の洞窟で1978年に発見された、約1700年前のパピルス文書が修復されたと発表。この写本は、イエスやユダの死後100年ほどしてから書かれたものだそうです。

12使徒の一人でありながら、銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切ったと言われる、イスカリオテのユダは現在でも裏切り者の代名詞です。それが、この写本では、ユダがしたことは全てイエスの指示に従ったことであり、この役割を任命されたユダは弟子達の中でも特別な地位にあった証拠だと書かれてあるそうです。

それが真実だとすれば、では、いったい誰がユダヤ人のユダを裏切り者と仕立て上げ、2000年もの昔から現在に至るまで、陰謀を計ったのか。これには政治が関係してくるのでしょうか。古今東西、宗教と政治が切り離せないとはよく言ったものです。

こうしてみると、歴史は人間の手によっていろいろに捏造されている部分があります。「イースター」一つを取って調べても分かるのですが、思うに、人間の歴史は昨日今日にできたものではなく、遡れば遥かな古代文明にさえ行き着くのです。

故に、長い歴史があるものは、有形無形に拘わらず宗教思想の違いを超えて、人類の歴史遺産として残していくべきではないかと思うのですが。

中近東の紛争で破壊される歴史的遺跡をテレビニュースで見るにつけ、思わず「ばっかだねぇ、何もかも破壊しちゃって・・・」と残念至極に思っているのは、わたしばかりではありますまい。

というところで、ただ今から、2013年に製作された「The Bible」をみます。英語版ですが、ポルトガル人俳優Diogo Morgadoが主役でイエス・キリストを演じています。夫は向かいのカフェへサッカーを観に。どっちがポルトガル人なんだか(笑)

2018.3月記

野分

2018-10-19 07:34:46 | 日記
2018年10月19日

日は自分のメモとして書きます。

「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな」 

鳥羽殿とは鳥羽上皇のことで、この情景は鳥羽上皇の離宮へ急を聞きつけた5、6騎の武者が野分を駆け抜けていく様を詠んだ与謝蕪村の俳句なのですが、これを目にして、「おぉ!」と思ったのです。

と、言うのは、以前、拙ブログとりあげた、「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」ですが、我が日本語生徒のアルフレッドさんと一緒に勉強し始めたのは2016年10月、ちょうど2年になりますが、今回は時代の背景を「保元の乱」とする藤原基俊の75番歌から藤原顕輔(藤原のあきすけ)の79番歌までを5週間かけて詠み終えたところなのです。

雅やかな貴族政治から武家政治へと移る過渡期が歌の背景になるのですが、この時代に登場する白河天皇、崇徳院、近衛天皇の主だった立役者の中に鳥羽上皇は欠かせない名前です。なぜなら、この鳥羽上皇の死が、崇徳院(鳥羽院の第一子)と後白河天皇(鳥羽院の第四子)の皇位継承争いの「保元の乱」の引き金になるからです。

76番歌から79番歌の間には、保元の乱で破れ、藤原忠道によって讃岐に流された崇徳院の歌も含まれています。

「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」

多くの百人一首が恋を詠んだ歌だと解釈されているのですが、この歌も「別れたあの人ともいつかまた逢いたい」と現代語訳になりますが、ねずさんの解釈では、政争の濁流に押し流された二人(崇徳院と後白河天皇)の運命を象徴する歌であろうとされています。

崇徳院崩御の七百年後、明治天皇は食指を讃岐に遣わし崇徳院の御霊を京都へ帰還させたとあります。それが現在の白峰神宮だそうです。言うなれば、七百年後に崇徳院が詠んだ滝川は再びひとつの川になったということです。

我が日本語生徒で、80数歳のアルフレッドさんが、週に一度、その週の一首を共に勉強するとて、山を下りてくるのですが、この解釈本を読むことで、日本の歴史の一端にふれ、平安時代の貴族生活、文化、ひいては日本人とはどういう民族なのかを学ぶことができて、とても面白いと言います。

百人一首は恋の歌だものなぁ、などど思って、長い間、あまり見向きもしなかったのですが、こうしてねずさん(小名木善行氏)の解釈本を手にすることで、改めて日本の歴史に目を向け、思わぬ発見に出くわすことが多いこの頃です。

さて、冒頭の句にある「野分(のわき)」ですが、これは秋の暴風のことです。秋草の野を分けて、いずこへともなく去っていく強い風、つまり台風の古い呼び名です。


Wikipediaより

今ではあまり耳にしなくなった言葉ですが、秋の野の草花が強い風に乱れ吹かれる様を思うと、こんな台風にも風情を思ったいにしえの人々の心にいたく惹かれる自分に気付かされます。

もっとも、現代の大きな被害をもたらす台風には情緒も風情もありませんが、それもある意味、現代人が片棒をかついできた結果によるのではないかと思うわたしです。

最後に、野分についてわたしが好きな一句を。

大いなるものが過ぎゆく野分かな     高浜虚子

では、また。