ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

曽根崎署始末記

2018-02-28 13:49:39 | 思い出のエッセイ

2018年2月28日

大阪は曽根崎と聞けば、わたしなどは即、「曽根崎心中」と、「曽根崎警察署」を思い浮かべる。「曽根崎心中」は、近松門左衛門の文楽で知られる。

この世のなごり 夜もなごり。死にに行く身をたとふれば
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそ あわれなれ。
あれ 数うれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生の
鐘の響きの聞きおさめ。寂滅為楽とひびくなり。


大阪商家の手代徳兵衛と遊女おはつの道行(ミチユキ)の場面である。この世で結ばれぬ恋をあの世で成就させようとする二人が、手に手を取って心中へと連れだって行く姿の哀れさは、人形劇と言えども真に迫り、見る者の心を濡らさずにはおかない。

若い時に観た人形浄瑠璃の美しさに目を、心を奪われ、わたしは近松の本を手に取り、「女殺し油の地獄」「心中天の網島」と観に行ったものである。上の道行の部分は今でも間違えずにそらんじられる。しかし、なんでまたこれに「曽根崎警察」?とお思いであろう。これが、まったく面目ないことでして^^;

息子を連れて3年ぶりに初めて帰国したわたしは夫を7ヶ月もポルトガルにほったらかして(^^;)堺のアサヒ・ビアハウスの先輩歌姫、宝木嬢宅に同居し、ビアハウスでも週に何回かバイトで歌っていました。いつ帰るとも分からないわたし達に、とうとうシビレを切らした夫が大阪まで迎えに来、ビアハウスで常連さん仲間たちがわたし達家族3人の送別会を開いてくれた、息子がまもなく2歳になろうかという夏の夜のできごとです。


↑大阪堺の宝木嬢たくの界隈で。後ろに見える自動販売機がいたく気に入ったようで、しょっちゅうここに連れていけとせがまれたものです。ご近所に皆さんもにとても可愛がってもらいました。

ビアハウスのステージも終わり閉店の夜9時半、数人のアサヒ仲間と帰路に着き、ゾロゾロ数人連れ立って梅田地下街を歩いていました。

夫がちょっと用足しに行くと言い、「はいはい、ここで待ってます」とわたし。10時頃の地下街はまだまだ人通りが多く、同行していた宝木嬢とホンの一言二言話をして、ひょいと横をみたら、い、い、いない!息子がおれへんやん!ええええ!慌てて周りを見回したものの、見当たりまへん。え~らいこっちゃです!即座に同行していた仲間と手分けして、地下街のあっちこっち走り回って探したものの、あかん・・・
  
トイレの目の前にはビルの上のオフイス街へと続く数台のエレベータードアがズラリ^^;真っ青になりました。このどれかにヨチヨチと乗っていったとしたら、いったいどうなるのだろう^^;もう泣かんばかりの面持ちです。すぐビルの夜警さんに連絡をし上を下をのとてんやわんや。
  
かれこれ1時間半も探し回りましたが、見つかるものではない。心配と探し回ったのとで皆くたびれ果てたころ、ビルの夜警さんの電話が鳴った。
「おかあさん、ちょっと出ておくんなはれ」と管理人さんに差し出された受話器の向こうから、ウェ~ンウェ~ンと大声で泣いてる息子の声が聞こえた。

「あ、もしもし、こちら曽根崎警察署です。この子ハーフちがうのん?○色のちっちゃなリュックしょって。もうオシッコでビショ濡れやで。」万が一を思い、ビルの夜警さんに頼んで曽根崎警察署に連絡を入れていたのだ。

息子は通りかかった若い数人の男女グループに連れて行かれたのか、あるいはついて行ったか。だとすると、そのグループが地下街から外へ出て置いて行ったとも考えられる。思い出してみると、丁度わたし達とすれ違いざまに、若いグループの「うわ!この子可愛い!」との声を思い出した。息子はまったく人見知りしない子だったのだ。ニコニコとついていったのだろうか。

↑宝木嬢のご近所、今は亡き土居さん宅の前。ここのご家族には本当によくしてもらいました。孫のように可愛がってもらい、居心地がよかったようです。ビアハウスのバイト時は、このお宅に息子を預け、安心して出かけて行ったものです。

わたしたち夫婦と、その日、お宅に泊まることになっていた先輩歌姫、宝木嬢たちと曽根崎署まで急いだ。署内2階で、涙と鼻水とオシッコでグショグショのジョンボーイ(ポルトガルではこう呼ばれていた)を引き取り、曽根崎署でしかとお小言をいただき、始末書を書いたのでありました。
  
いや~、これにはさすがのわたしも参りました。大騒動のその間もその後も夫は冷静で、一言とてわたしを責める言葉を口にしませんでした。この時はまったくもって面目なく、ただただ消え入りそうな思いでした。よくテレビや映画で観られる、あのホンの一瞬、目を離した隙に、ってのが実際自分の身の上におこったのです。以来、外で子供たちから目や手を離すことあるまじ、と心に決めてきたのでした。

このことは息子の記憶にないだろうな。私自身も、弘前の下町にあった祖母の家に母や妹と一緒に住んでいた3歳くらいの頃に、行方不明になり捜索に近所の人たちも狩り出されたと聞かされているが、自分の記憶にはない。

こんなとこ、似なくていいよ、息子、と、自分の不注意を誤魔化してるのだが、事なきを得たことは幸いだ。以後、わたしが子どもたちから目を離さなくなったのは、しつこいほどであります。ほんに肝に銘じた出来事ではありました。

ポルトのボリュームたっぷり「フランセズィーニャ」

2018-02-27 16:27:39 | レストランと食べ物
2018年2月27日

本日はFrancesinha(フランセズィーニャ)の話です。

日本に住む息子も大好きで、かつてリスボンに住んでいた頃はポルトに帰ってくると、必ずフランスズィーニャを食べにいっていました。フランセズィーニャの本場はポルト。



食パンの間には、ハム、ソーセージ、肉、チーズが挟まれており、その上にたっぷりのとろけたチーズがかけられています。中身はこういう具合い↓

YUKOfrancesinha
おいしいものをありったけ詰め込んだようなボリュームたっぷりの、言うなれば、特性サンドイッチです。

好きな人はこの上に更に目玉焼きを載せ、フライド・ポテトをつけます。ビール、ワインには最高!カロリーも最高のワッハッハ!フランスズィーニャのお値段の程は、7ユーロ(\1000ほど)。

本日は、フランセズィーニャについて、自分のメモとして記事を上げておきたいと思います。以下。

ポルトガルなのなぜ「フランセ」とつくのか、どなたも不思議に思うのではないでしょうか。そこで、今ではポルト料理を象徴し、世界でも十指に入るサンドイッチのひとつに数えられるフランセズィーニャのストーリーを紹介します。

元祖フランセズィーニャがメニューに載ったのは1952年、ポルトのダウンタウンRua do Bonjardim(ボンジャルディン通り)に開店したA Regaleira(ア・レガレイラ)レストランです。

ある年のこと、A Regaleiraレストランの店主は、フランスに立ち寄りホテルで一人のバーマンに出会います。今でもそうですが、よりよい生活を求めてポルトガルからフランスへと出稼ぎに出るポルトガル人はとても多く、彼もその一人でした。

このバーマンを見込み、店主はポルトの自分のレストランに誘います。Daniel Davide Silvaというこのバーマンがフランセズィーニャを作った人なのです。

Danielはレガレイラ・レストランで働き始め、フランスの「クロックムッシュ(Croque Monsieur)」というサンドイッチにインスピレーションを得て、肉とポルトガルのハム、ソーセージをパンに挟み、独得のピリ辛ソースを発案し、店のメニューとして出します。


「クロックムッシュ(Croque Monsieur)」Wikiより

さて、この名称ですが、Daniel Davide Silva氏、なかなかの女好きだったそうで、フランスではバスに乗っては、小奇麗でシックな服装のフランス女性を観察するのが好きだったとのこと。このソースを思いついたときに「フランス女性はエキサイティングである」との意味で「Francesinha(フランス女性)」とつけたと言われます。


レストランYUKOのピリ辛ソース。好きなだけフランセズィーニャにかけて食べられます。

ピリ辛ソースをポルトガル語ではmolho picante(モーリュ・ピカンテ、molhoはソース、picanteはピリ辛)と言うのですが、picanteはそのまま「刺激的」と言う意味につながりますね。

フランセズィーニャはソースがポイントで、レストラン・レガレイラのソースのレシピは門外不出、金庫の中に保管されてあるとのこと。

わたしがポルトに嫁いできたのは1979年ですが、フランセズィーニャはレストラン・レガレイラで既に出されていたものの、名前すら耳にすることはありませんでした。フランセズィーニャを耳にしたのは、息子の口からでした。

ボリュームたっぷりのピリ辛フランスズィーニャは若い人に人気があり、一軒のレストランから口コミで広まったDaniel Davide Silvaのサンドイッチは、今ではポルト郷土料理「Tripas料理(トリッパス料理については次回案内)」に継いで、ポルトを象徴する一品になりました。

ポルトガル国内の大きな都市ではメニューに見るでしょうが、食べるなら、やはり本場のポルト、それもできれば、フランスズィーニャが美味しいと評判の店をお勧めします。レストラン・レガレイラは当然のこと、レストランYUKO、Brasãoもおいしいです。

レストランYUKO。日本人の名前がついていますがオーナーはポルトガル人。

鬼さんこちら、手の鳴るほうへ

2018-02-26 18:32:35 | 思い出のエッセイ
2018年2月16日 


酒癖の悪い父のていたらくを見ては思ったものである。
「自分は飲む人になるまい。酒を飲む人を生涯の相手には絶対選ぶまい。」と。

しかし、大概の人間は、年月を経てコロッと考えが変わったりするものだ。わたしもその例にもれず、二十歳ころから飲み始めたお酒歴は恥ずかしいながら、ちょっと自慢できるかもしれない。

日本酒、ひれ酒から始まって、ストレートウイスキー、カクテル、アブサン、ブランディ、カルヴァドス、シュタインヘイガーシュナップス、そして最後に辿りついたのが、生ビールだ。

シュタインヘイガーシュナップスはドイツの焼酎とでも言えばいいのだろうか、男性的なお酒である。わたしがバイトの歌姫として歌っていたアサヒ・ビアハウスで時々味わったのだ。これはビールの合間に飲むのであって、凍らんばかりに冷えて氷霜で真っ白になった陶器のボトルから、ぐい飲み盃くらいの大きさの小さなグラスに注いで一気に飲む。

胃が「クァー!」と熱くなるくらいに強い!それもそのはず、アルコール度数は40度なのだから^^;

カルヴァドスは我が日記でしつこく何度も出てくる思い出の酒である。フランスのブランデー、りんご酒で、「Pomme d‘Eve、イヴの林檎」と言われる。

レマルクの書いた本、「凱旋門」に度々出てくるお酒の名前だ。「凱旋門」は、ドイツの強制収容所から脱走してフランスに不法入国し、その練達の腕を見込まれ、闇の手術を請け負って不安な生活を送っている医師ラヴィックと、失意に生きる端役の女優ジョアンを中心に、第二次世界大戦中のパリを描いた物語である。

この本を読んでカルヴァドスというお酒があるのを初めて知った。そして、一度は口にしてみたいと望んだものの、それが国内では不可能と分かり、ある日、仕事でパリへ寄ると言う勤め先の本社の上司に、無理矢理頼み込んで、買って来てもらったのが始まりであった。

その後、海外に出る機会があるたびに、上司は土産にと、持ってきてくれたものだ。この上司は、当時社員として初めてイギリス語学留学のためにと、一ヶ月の休暇を申し出たわたしに、その許可が出されるようにと、アドヴァイスをくれた人でもある。

カルヴァドスは甘酸っぱい林檎の強い香りとともに、わたしには苦い恋の味もしたお酒である。

わたしが幾つの時なのだろう。覚えていないのだが、小学校にあがった頃ではないかと思う。当時、父は岩手の競馬場で走っていた頃で、母とわたしと妹の母子3人は弘前の下町にある祖母の家にたくさんの叔父叔母、その家族たちと同居していた。裕福とは言えないまでも、その日その日の食うことだけはなんとか困らないで生きれた頃だった。

4月の終わりから5月初めにかけての、弘前の「観桜会」今で言う「さくら祭り」の頃である。祖母はその頃、観桜会の期間だけ、公園内で蕎麦屋の屋台を出しており、母を含めた家の他の大人たちも、それぞれに仕事をもっていて外へ出ていた。

その日は何故か、わたしの従兄弟にあたる他の子供達が家におらず、わたしと妹だけだった。

ふと水が飲みたくなったのだが、当時の田舎にはまだ水道というものが通っていなかった。台所の水場には長い取っ手を上下に動かして水を汲みあげるポンプがあった。まだ小さいわたしと妹の力では水を汲み上げることができなかったのであろうか、わたしたちは家の中のどこかに水はないかと、探し回ったのである。

と、「あった、あった!」机の上の高い棚の上に、瓶に入ったきれいな水を見つけたのだ。妹と二人、机の上に椅子まで乗せてやっと手が届き、一息にグーッと飲み干したその水・・・・その後のことをわたしは全く記憶していないのである。

結論を言えば、水と思って飲み干した瓶の中身は、実は日本酒だったのだ。外へ出て、自分と同じ年頃の近所の子供達を追い回し、「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」と囃し立てられ、フラフラ千鳥足でふらついていたわたしを見つけ、自分の家に運び込んで医者を呼んだのは、はす向かいの畳屋のおばあちゃんだそうだ。

わたしは「急性アルコール中毒症」で危うく命を落とすとこだったのだ。かすかに記憶にあるのは、明るい日差しを浴びた縁側のある広い畳の部屋で、自分が布団の上に寝かされて、冷たい手ぬぐいを額に当ててくれている畳屋のおばあちゃんが、ぼんやり見えたことだけである。後はなにも覚えていない。

後年、時計屋をしていた人のいい叔父が、保証人として判子を押した相手が夜逃げしてしまい、その負債のため祖母は下町の家を売り払わなければならなくなり、わたしたち大家族は以後ちりぢりになったのだが、少し大きくなってから時々下町を訪れると、わたしは決まって畳屋のおばあちゃんや近所の人たちから言われたものである。「あの時の酔っ払ったゆーこちゃんがねぇ~」

「自分は酒飲みにはなるまい」とは大きく出たものだ。何のことはない、6、7歳にして既にわたしは酒飲みの洗礼済みであった。

あの頃、ビアハウス:「ある恋の物語・40年後の終章」

2018-02-23 13:58:42 | あの頃、ビアハウス
2018年2月23日

ポルトガルに来て以来、近況を報告がてらご本人の様子を知りたいと思い、時折、国際電話をかけて話していた、梅新アサヒビアハウスでの歌姫バイト時代の先輩、宝木嬢がいます。

息子が2歳、5歳の時は、帰国して所沢の妹宅から堺の宝木嬢宅に移動し、数ヶ月も親子で滞在したことがあり、子どもがいない彼女は「ジュアン君、ジュアン君」と随分と息子を可愛がってくれたものでした。

それが、日本語教室の仕事やボランティアの影絵上映、日本文化展示などでポルトでの日常生活が忙しくなり、この2年ほど連絡をつい怠ってしまったのでした。これはいかん!と思い出し、宝木嬢宅へダイヤルを回したところが、何度電話を試みても、その電話番号は現在使われていないとの電話局のアナウンスです。

当時のビアハウス時代の知人たちに聴いても、どうも近年は宝木嬢との付き合いが途絶えたようで、ハテ、どうしようかと思っていたのです。和歌山にアトリエを構える木彫家である我が親友の堺みち子は堺市に住居があるので、彼女ともここ数年会っておらず、帰国を機に堺を訪ねることにしたのが昨年2017年の春のことでした。

幼い息子とわたしがかつて数ヶ月も滞在した見覚えのある木造の母屋は雨戸が閉められており、戸板はかなり傷んでいて廃屋です。

わたしに劣らずネコ好きな宝木嬢です、常に5、6匹は居候していた広い庭も荒れ放題です。母屋のすぐ後ろにあるモダンな玄関を持つ離れに足を運び、ひょっとして老人ホームに入っている可能性もあると考えていたので、いるかな?と思いながら呼び鈴を2、3度押しました。

しばらくすると、「ちょっと待ってね」と家の中から声が聞こえます。紛れもない宝木嬢の声です。じっと待つこと数分、ドアが開けられ白髪のパジャマ姿に杖をつく彼女の姿が目の前に現れました。

「こんにちは。宝木さん、わたしを覚えていますか?」
かけていたサングラスを外しながら言うと、「え、ソデバヤシさん!」と大いに驚いた様子です。上がりかまちを上がるとすぐがリビングになっています。

昔から整理が苦手な彼女です、相変わらず物が散在しており、リビングの真ん中にある大きなテーブルはなにやかにやで一杯です。わたしが滞在していた間は、せっせと家の中を磨き、後片付けをしていたもので、「ソデバヤシさん、あれはどこやの?」と言うことがしょっちゅうで、一体が誰の家だったのか(笑)

母屋にあったピアノはそのリビングの隅に置かれ、3匹のネコがピアノを占領していました。

何度電話をしても通じないので、こんな風に突然の訪問になってしまったとのわたしの話に、宝木嬢、
キョトンとしております。そのうち、電話番号が変わったかなぁ、などと言い出しましたが、変わった電話番号も覚えていません。

なにやかにやで一杯のテーブル、その中に携帯電話があるのが目に付きました。ははん、なるほど、携帯があるとなると固定電話は恐らく必要なくなったのであろう。 これは多分、あまりああだこうだと、物事をしつこく聞いたりしないほうがいいのではないかと思い始め、仕方がない、電話番号の件は諦めたのでした。

同居人のマックの姿が見えないので、「マックは今日お出かけ?」と問うと、「マックは去年の11月に亡くなりました」

え!予想もつかなかったその展開に一瞬言葉を失ったわたしです。なにしろマックと言えば、のらりくらりと定職にもつかず、趣味で絵を描いてみたりピアノを弾いてみたりと好き勝手な暮らしをしていた訳で、言うなればジゴロであるよ、と宝木嬢の手前、皆、口には出さねど、周囲も心中そう思っていたはずです。

わたしと息子が数ヶ月滞在した間には二人の口喧嘩も耳にしており、宝木嬢も時にお手上げ状態がなきにしもあらず。何度か別れ話に及んでも結局また元の鞘におさまるという関係でした。

もはやマックの好き勝手なジゴロ生活を支える余裕がなくなったであろう宝木嬢です、一回り以上もの歳の差も気になります。わたしが今回訪れたのには、ひょっとして、宝木嬢、彼からムゲな扱いを受けてはいないだろうかとの懸念があったからです。
それが、なんだって?マックが先に・・・・享年65才。

「周りからは奇異な目でみられるけれど、音楽や絵の話もできるし山登りも共通の趣味やし、ボクは宝木さん、好きやねん」と、弁解でもするかのように聞かされたことがあります。その時は、エディット・ピアフと20歳も年下の夫、テオのことを思い出し、「いいじゃないの、それで」と答えたものだが、病身のピアフに献身的で、彼女の死後ピアフが残した借金を全て返済したというテオを考えると、ジゴロもどきのマックを見るにつけ、なにやら徐々に心配になっていたのが本心でした。

去年11月の、とある金曜日に入院し月曜日にはみまかったと宝木嬢、何の病気だったのかと聞いても思い出せない様子で、ショックであったろうに、わたしはここでもしつこく問いただすのは止めました。

週に何度か介護支援の人が食事を作りに来、デイケアサービスも受けている84歳の宝木嬢、パジャマ姿でいたものの、両手の指には大きな石がついた指輪をはめていました。ビアハウス時代からの宝石好きだものね^^

恐らく、彼女は長年のビアハウス常連でよく知っていた一人、コジマ氏がしばらく前に鬼籍に入ったのを知らないであろう、一人、また一人と、あの頃の懐かしい面々が去っていくのを目の当たりにするのはどんな思いであろうかと、少しは想像できる年代に入ったわたしである。そっとしておくことにしました。

息子と娘の写真を見せながら彼らの近況を知らせ、長居は無用、かえって宝木嬢を疲れさせるであろうと腰をあげました。転ぶと危ないから見送らなくてもいいというわたしを、「山登りで足腰を鍛えてきたんだから」と、杖をついて庭まで出てくれた宝木嬢、遠国に住み何もしてあげられないもどかしさと、これから先の彼女のことに後ろ髪を引かれる思いで三宝町を後にして来ました。

恐らく返事がこないであろうが連絡の手段は手紙にしよう、そう思っています。

最後に、マックが生前わたしにくれた彼の父上の死を悼んで編集出版した昭和の時代を語る写真集の一部を紹介して、わたしのマックへのレクエイムにしたいと思います。表紙の編集者の名前から分かるように、マックとは「牧雄」に因みます。


2002年発行


祖母が来た日


まんがとテレビの夜


紙芝居
 

紙芝居


三ノ宮駅


水辺


春の庭(幼児期のマックであろうと推測)


昭和の残像を心に刻みながら、同時代を生きたマックよ、さらば。

あの頃ビア・ハウス:第12話:「すみれの花咲く頃」

2018-02-21 10:11:49 | あの頃、ビアハウス
2018年2月20日        
    
       
♪春すみれ咲き 春をつげる
 春なにゆえ 人はなれを待つ 
 楽しくもなやましき春の夢
 甘き恋 人の心甘く酔わす
 そは すみれ咲く春

 すみれの花咲く頃~ 


ご存知、「宝塚歌劇団の歌」として広く世に知られている「すみれの花咲く頃」のイントロです。おそらく誰もがこの歌を耳にした記憶があるのではないでしょうか。宝塚歌劇「パリゼット」の主題歌として取り上げられ流行しましたが、もとはといえば、オーストりアの歌がシャンソンとして歌われていたとも言われます。

このイントロで「すみれのは~な~咲く~ころ~」と歌が始まる時には、ビアハウス場内がみな一斉の合唱になるのでした。春を待ち焦がれる者と、遠き春をしのぶ者と、馳せる心は皆違うだろうが、それぞれの思い入れがこの大合唱からうかがわれるのでした。
「アサヒ・ビアハウスは人生のるつぼである」とわたしは言う。

ここは恋あり歌ありの人生劇場で、ビアホールを訪れる多くの客を目の当たりにし、少なからず数編の恋物語をビアハウスで読んだ感がわたしにはある。

ここで出会って別れた人たち、出会ってハッピーエンドに結ばれた人たち、苦しい恋をずっとここでひきずった人たち。さまざまな歌の合間合間に、アサヒ・ビア・ハウス人生劇場の登場人物たちが思い出の中でフラッシュ・バックするアサヒビアハウス梅田はその魅力で未だにわたしをとらえて放さない。そして、我が先輩、宝木嬢が歌う「すみれの花咲く頃」は、素晴らしかった。


宝木嬢

わたしよりずっと年上である彼女は当時すでに40代半ばを過ぎていたと思う。その独身の彼女と一回り以上も年下の男性、マックとの恋は周りをドキドキ冷や冷やさせながら、数年間は客たちの話題をさらっていました。

ビアハウスのバイトが終わると、わたしはその二人と連れ立って、梅田地下街あった京美人の姉妹が営む小さなカウンターの食事処に腹ごしらえに誘われて行ったことも何度かあります。

アメリカ移住の夢を放り出し急遽アリゾナから日本に帰国し、その後、ポルトガルに嫁いだわたしは、2度ほどの一時帰国中、堺にある宝木嬢の家に、幼児の息子を伴い数ヶ月滞在しながら、ビアハウスでカムバックしては歌っていましたが、この時期、宝木嬢と恋人マックが同居している中に加わったのでした。


一時帰国中のバイト歌姫復活時。往年の常連たちと店長(後ろ真ん中)、H大病院の外科医中川先生、そして息子。

少し面白い同居人構成ではありましたが、宝木嬢の自宅は、上空から見ると、ひしめき合った民家の中で、そこだけ緑がこんもりとしていると言われるほど、結構広い自然体の庭があったのです。そして、その庭たるや、何匹もの猫たちが住人でもありました。ネコ好きのわたしも息子も大いに数ヶ月の滞在を楽しんだものです。

恐らく未だに同居していると思われるのだが、あれから四半世紀以上を経た今、果たして宝木嬢とマックの恋の結論はどう出たのだろうか、と、春まだ浅い頃には、この歌に思いを馳せるのです。

「すみれの花咲く頃 今も心ふるうよ
忘れ君 我らが恋 すみれの花咲くころ」

この恋物語だけは、未完なのです。


追記:高齢の宝木嬢のこともマックとの恋の行方も気になり、ここ数年訪れていなかった堺の彼女宅を昨年訪ねてきました。このエピソードは次回に続きます。