ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

グラナダの詩人、ガルシア・ロルカ記念館

2018-01-04 12:28:58 | 旅行
2018年1月4日

今日はグラナダのロルカの生家、現在は記念館になっていますが、それについて綴ります。ロルカについての記事はこれで終わります。

どこの国でも 死はひとつの終わり
死が来て幕はとざされる
だがスペインではちがう
スペインでは幕がひらかれるのだ 
(ガルシア・ロルカ)




残酷な時代はいつでもどこにでもあります。グラナダ生まれの詩人、劇作家ロルカが生きたのはスペインのそういう時代でした。ロルカが自分の早期の死を予期していたかどうかは分かりませんが、彼の多くの詩には死を追悼するのが多いように思われます。ロルカは死によってこそその名を永遠に人々の胸に刻んだのかも知れません。

わたしはロルカの研究者ではなく、青春時代の一時期に彼の短い一生に興味を持って本を読み漁っただけなので、あれやこれやと展開できるような持論はもちません。しかし、詩人の銃殺という残酷な粛清の事実には今も若い時同様に大きな恐怖と悲しみを覚えます。

そして、自由に言論ができる今の時代に生きる自分の幸運を噛み締めます。

      
ロルカが8歳まで住んでいたという記念館。通りにはオレンジの木。

 
             
生家の中庭。内部の撮影は禁止だった。
   

現在記念館になっているロルカの生家フエンテ・ヴァケーロス(Fuente Vaqueros)はグラナダから30キロほどだろうか、小さな村だが、ロルカの生家がどこにも案内の標識が見られなかったのは意外でした。

初夏の暑い日ざしを浴びながら、ひなびたグラナダの小さな村フエンテ・ヴァケーロスでロルカ生家を探しながら、村の雰囲気に田舎の持つ独特の閉鎖性を感じて、わたしは少なからずとまどいを感じ、自分がその閉鎖性を嫌って都会へ飛び出した19の頃を思い出していました。

ロルカはグラナダでより、また、生誕地のフエンテ・ヴァケーロスより、むしろ海外で誉れを受けているのでしょう。そんなことをふと感じました。
          
かろうじて見つけた「Poeta Garcia Lorca=詩人ガルシア・ロルカ」と書かれて壁にはめ込まれたアズレージュ(青タイル)の上方には、グラナダのシンボル「ざくろ」が見られます。
 

グラナダとはスペイン語で「ざくろ」の意味。レコンキスタ時代、ざくろのように堅牢でなかなか陥落しなかったイスラム教徒の街をついにそれを破り、アルハンブラ宮殿という実を奪ったことを意味して、グラナダのシンボルのざくろは割れているのだそうです。

下は記念館の裏側にあるちょっと変わったカフェ。


ロルカ記念館のベルを鳴らしたところ20分ほど待ってくれと言われ、その間、このカフェで時間をつぶしました。

スペインではどこでも言えるのですが、こちらがスペイン語を理解しようとしまいと、スペイン語で喋るのである。ロルカ記念館の案内人もそうでした。見学人はわたしたち夫婦だけです。
                

詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898-1936)について
       

     
1936年8月19日、スペイン内乱中、フランコ軍ファランヘ党によってグラナダ郊外のビズナル(Viznar)にて銃殺されました。ロルカは詩人で劇作家でもあった。「血の婚礼」「イエルマ」などの上演で名声を得ます。アメリカ、キューバ、アルゼンチンなどを訪問しています。詩人のジャン・コクトーやダリとも交友がありました。
     
ロルカは思想的にはリベラリストでしたが政治的には大きな活動はなかったとされます。彼の暗殺はファランヘ党が同性愛者を忌み嫌うことに因むどの説もありますが、明らかではありません。
      
記念館内部は撮影禁止なので、パンフレットの画像を載せます。



多種の才能を持ったロルカは作曲もしており、館内見学中は彼の作曲した音楽が流されていました。透明感がある寂しげな音楽でした。

生家は昔にしては大きな家だったとのことだが、リビング、応接間、寝室などの小さな数部屋があります。二階ではロルカや彼の上演された作品の写真、手紙が展示されて資料館になっています。

フランコ政権時代、ロルカの本は発禁され、フランコの死去により独裁政権が終わって、スペインでやっとロルカについて自由に論じることができるようになりました。それまでは、ロルカについてはスペイン国内でよりフランス、イギリスなど欧州でよく知られ論じられていました。
  
なお、ロルカが銃殺されたとされるグラナダ近郊は現在「ロルカ記念公園」になっていますが、ロルカと同じ時に銃殺された5人の遺族から、遺骨発掘の要望が出され、2009年10月から公園内の数箇所の発掘作業が行われていました。ただし、ロルカの遺族は、メディアの見世物になることを恐れ、「このまま静かに眠らせて欲しい」と反対したようです。

2009年12月、公園内では遺骨らしきものは一切発掘されなかったとの結論が出されました。それでは彼らはいったいどこに埋められたのか?
 
ロルカの死から約80年、詩人の死は再び歴史の謎に中に舞い戻ったのでした。

本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。



ローマ編:ミケランジェロのポルタ・ピア門

2017-11-04 21:22:07 | 旅行
一昨日、「観光は歩くに限る」と言い、夫が悲鳴をあげたリスボン歩きを書きましたが、本日はローマ編「夫、悲鳴をあげる」であります。

ローマ行きの主なる目的はミケランジェロが描いたシスティナ礼拝堂の絵を拝見することでしたが、この反骨精神逞しい天才が手がけたもうひとつの作品、あまり知られていないようなのですが、これをこの目でみてみたいと思ったのでした。

それが、地図を見てもパッと分からず、ついにローマを翌朝には発つという前日の夕方、その日も歩き回り、かなりくたびれてホテルのベッドに寝転びながら、「いったいどこに隠れているんや、ポルタ・ピアめ!」と、地図をぼけ~っと眺めておりましたら、おろ?宿泊中のホテルからそんなに遠くない所の観光地図の端っこに、見つけたぞ!

あったあった!この距離なら往復1時間くらいで行けるかも!ホテルから近いよ、行こう!と最後の最後まで諦めきれず、寝転びながら行きたい場所を地図で探していたわたしと違い、歩きくたびれて、もうアカンとでも言うかのように寝そべっている夫、「1時間て、どこが近いねん!君は僕を殺す気かー!」(笑)

同じ寝転がっているのでも、意味がちがいますがな。ほなら、一人でも行ってきます~と最後の切り札で、夫、仕方なく起き上がり付き合うことに相成りました。

地図を頼って歩くこと30分以上、その途中で面白いものを見つけ、小躍りして写真を撮っているわたしを、うらめしげに見ている夫でした。さは言うものの、これは偶然の見つけもので、ほんに得したのでありますが、それは次回紹介です。
さて、件のポルト・ピア門、ホテルを出て後半の道、Via XX Settembre(9月20日通り)をひたすら真っ直ぐ歩いた先についにありました。

 
ミケランジェロ晩年の建築物で、好きでもない教皇ピウス四世の命令で、ローマ市外への入り口に建設された門です。夕日を浴びて少し赤く輝いていました。この門の何が見たかったのかと言うと、門の三箇所に見られる凹みのある円形にかぶさった飾り房が付いた模様なのです。

当時の歴代教皇を始めとするバチカンの腐敗に大いに反発していたミケランジェロは、この模様を入れることで教皇ピウス4世の思い上がった自尊心に強烈な一撃を放ったのです。

実は、教皇の父親は身分の低い瀉血(しゃけつ=治療で一定量の血液を採ること)を行う旅回りの理髪師であったといわれます。奇妙なこのモチーフはなんと、旅回りの理髪師が使う一本のタオルと洗面器だというのです。

教皇は自分の出所の卑しさを公にさらされているとは気づかなかったようで、教皇庁がそれに気づいたのは100年以上も過ぎてからだとのこと。

88歳まで生きたミケランジェロ・ブオナローティの人生は、フィレンツェを出て以来、自分の作品に独得の象徴隠しての腐敗したバチカンとの闘争であったわけです。

ミケランジェロの晩年は、礼拝堂に描かれた最後の審判を始め、その裸体にバチカンからの非難があがり、一時期、修正するか取り壊されるかの脅威にさらされ、憤怒に満ちた晩年でもありました。また、死後も、大芸術家にしてはあまりにも屈辱的な待遇を受けました。

ラファエロが眠るパンテオンにも埋葬されず、辺鄙な低地の暗い建物、サンティ・アポストリ教会に眠らされることになりました。ミケランジェロがローマを嫌いフィレンツェを愛し、そこに埋葬されたいと願っていたのは周知の事実でしたが、屈辱的にも嫌いなローマに埋葬との決定が下されたのでした。

さて、これを聞いたフィレンツェの人々は、泥棒を雇い、ミケランジェロの遺体を盗み出しフィレンツェに運び、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬しました。現在もミケランジェロはそこに眠っているとのこと。ユダヤ教のタルムードやカバラを学び密かに支持していたミケランジェロが眠る教会のファサーダにはユダヤ民族の「ダビデの星こと六ぼう星」が輝いています。

20世紀に入りコンクラーベで新教皇に選ばれたジョン・パウロ2世は、かつて何度か試みて失敗したシスティナ礼拝堂の洗浄と修復を命じ、20年をかけて徹底した復旧作業が行われました。ジョン・パウロ2世は、完成したシスティナ礼拝堂のミサで、ミケランジェロと彼のフレスコ画の名誉回復を宣言しました。そのお陰で、現在わたしたちはシスティナ礼拝堂に描かれたミケランジェロが残した秘密のメッセージを見ることができます。

自由思想が迫害され、命の危険があったカトリック教一色の中世の時代に、権力に従わざるを得ない状況のもと、持ち前の反骨精神で自分の作品に魂と精一杯の批判性を盛り込んだミケランジェロの激情は、偉大な建築家画家であったればこそでしょう。

ポルト・ピア門の皮肉を込めたモチーフを見ては、「ほんっと、絶えられないくらい嫌だったんだろうなぁ。」となんだか可笑しくなってしまったわたしでもありました。

機会があれば、いつかフィレンツェを訪れてこの大芸術家に大いなる敬意を表したいと思っています。

バチカン市国:サン・ペドロ大聖堂「聖なる扉」

2017-10-09 09:06:49 | 旅行
2017年10月9日

バチカン、大聖堂の続きです。

「Porta santa (Porta=扉、ドア、santa=聖なるの意)」と呼ばれ、ポルトガル語と同じです。

サン・ペドロ大聖堂内には5つの扉がありますが、その中でもっとも重要なのがこの「Porta santa」です。一般的には25年ごとに開かれるこの扉を通って参拝すると、犯した罪が許されると言われています。扉に彫られてある絵は受胎告知に始まるキリストの生涯でしょうか。

扉の上には、サン・ペドロが持つシンボルである「天国への鍵」が見られます。


聖なる扉が開かれる儀式は、新約聖書ヨハネ10・9に見られる「わたしは門である。だれでもわたしを通って入る者は救われる」、また、ルカ11・9「求めよ、さらば与えられよう。叩けよ、さらば扉は開かれるであろう」をシンボル化したものだと推測されています。

下は椅子に座るサン・ペドロ像。


この像の前には警備員が立っており、長い間立ち止まって見る事はできません。なぜなら、写真で見るように、この像の足に触れたり、接吻したりしてご利益を願う人が大勢並んでいるからです。そのせいで、サン・ペドロ像の足は磨り減っています。

東京の亀戸天神の神牛坐像もそうです。ご利益を願って訪問者が撫でていくもので、テカテカになっています。宗教の違いはあれ、東西南北、考えることすることは似ています。

さて、大聖堂の一番奥、「ペドロの司教座」には、ペドロが使ったと言われる木製の椅子が玉座にはめ込まれています。ベルニーニの作品です。ロレンツォ・ベルニーニはダン・ブラウンファンならその名が登場する「天使と悪魔」で知っているでしょう。


そして、その前にはこれもベルニーニの手による4本のねじれた柱のが天蓋を支える「教皇の祭壇」があり、その真下の地下にはサン・ペドロの墓があると言われます。
 

天蓋の上がミケランジェロが設計したドームです。

Wikiより。うっかりドームの写真を撮り忘れ^^;

ルネサンスとバロックの巨匠、カトリック教会に遮二無二したくもない仕事(システィナ礼拝堂のフラスコ絵など)命令され、様々な暗号で反抗し続けたミケランジェロと表面上の装いで教会から愛されたロレンツォ・ベルニーニ。この二人の作品を上下同時に鑑賞できるこの贅沢さ。

ローマ、バチカン市国はその長い歴史の息吹が21世紀の現代でも感じられ、大いに興味がそそられる街です。


バチカン市国:サン・ペドロ大聖堂「ピエタ」像

2017-10-02 16:16:19 | 旅行
2017年10月2日 

ピエタ(Pietà)とは、十字架から下ろされたキリストの亡骸を膝に抱く聖母マリア像の彫刻や絵のことを言いま
す。

ミケランジェロの彫刻のなかでもダビデ象同様つとに有名なので、宗教に興味のない人も一度は本などでみたことがあるのではないでしょうか。

わたし自身は信者ではありませんが、旧約聖書や神秘主義思想には歴史的な面で、多少興味を寄せて独学してきました。このピエタ像を始め、システィナ礼拝堂の天井画など、これらの作品がバチカンの権力に生涯目一杯反抗したと思われるミケランジェロが制作したという点で、一度はこの目で見てみたいと願ってきました。

今日はミケランジェロの名声を確立したとされるサン・ペドロ大聖堂内のピエタ像についてです。

写真が曇っているように見えるのは防弾ガラスで保護されているからです。1972年に精神に異常をきたした男が鉄槌でマリア像に襲い掛かり叩き壊すという事件が起こり、修復作業後、現在のように防弾ガラスで保護されるようになりました。

さて、これはわたしが楽しみながら読んだ本の受け売りですが、ミケランジェロは友人のラグロラ枢機卿からピエタのテーマで作品以来を受けます。1年以上も心血を注ぎ精魂をこめて制作に漕ぎつけた素晴らしいピエタ像でしたが、当時はどんな芸術家も作品に作家の署名は許されませんでした。

ピエタ像のお披露目の日、サン・ピエトロ大聖堂の柱の陰に隠れて群衆や評論家たしの称賛の声を耳にしますが、そのうちこの素晴らしい作品はフィレンツェ以外からやってきた者の作品に違いないという声も聞きます。

ミケランジェロは、当時既に衰退していたフィレンツェのメディチ家ロレンツォの保護の下、その邸宅で一流の教師、哲学者、画家、科学者たちに彼の神秘主義思想を形づくった教育を受けてきたのです。この声を聞いてカットなり、その夜大聖堂に侵入し、自分の傑作によじのぼり、マリアの胸にかかる飾り帯の上に「ミケランジェロ・ブオナローティ、これを政策す」と大急ぎで刻み込みました。

侵入者は見つかるとすぐスイス衛兵に首をはねられるのですから、びくびくしながら慌てて銘を彫り付けたミケランジェロ、何箇所かつづりを間違ったり、脱字があって無理やり文字を突っ込んだりしたようで、これには大いに笑わされました。

結局、署名が発見され、ミケランジェロは教皇に頭をさげることになったのだそうです。88年の生涯で彼の名が記されているのはこの作品だけです。

もうひとつ、このピエタ像に秘められた秘密があります。
聖母像を見たらわかるのですが、顔が若すぎます。ミケランジェロはこれについて、「無原罪の聖母は歳をとらないのだ」との説明をしたとか。しかし、これは聖母であると同時に、ミケランジェロがメディチ家で学んだ旧約聖書の「創世記」に登場する、信心深く美しいアブラハムの妻サラをも表しているとの推測があります。

となれば、世界一有名なキリスト教の重大なテーマを持つ「ピエタ像」にはユダヤ教の秘密が隠されているということになり、ミケランジェロよ、してやったり、ではあります。

ということで、本日はこれにて。
次回は同じくサン・ペドロ大聖堂の内部についてです。