ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

ちょっと面白いポルトのホテル・ダ・ムーズィカ

2017-11-28 23:44:02 | ポルト
2017年11月28日

1952年以来、120店舗を有する生鮮市場として、ブリャォン・マーケットと並んで、長年市民に利用されてきた、ボアヴィスタ地区のボンスセッソ・マーケット。老朽化に伴い改築され、軽食グルメスポットとしてオープンされて3年ほどになります。


週末はライブも楽しめる。

中央フロアにはカフェやポルトガル伝統菓子店、オードブルカウンター、チーズ、生ハムの専門店などの小さな店舗が所狭しと並んでいます。平日の昼食時には近隣のオフィスの勤め人たちで、また週末にはカップルや家族連れで賑わいます。

さて、その中に入り口を別にして、85室の客室を持つ四つ星の「Hotel da Musica」があります。


ロビーへの階段絨毯には音符模。

赤と白を基調にしたホテルには、ロビーから客室まで楽譜や音符などの音楽をモチーフにした装飾が施されています。


白の空間に真紅の一対の真紅のコントラバスが目に鮮やか。


レセプションの天井からのライトも音符を象っています。

客室にはモーツアルトの楽譜が施されて。

この画像のみWikiより


レセプションにつながるパヴァロッティ・バー。



ボサノバを創り出したアントニオ・ジョビンの名曲[Águas de Março(三月の水)」の楽譜も廊下の壁に見られます。

♪São as águas de março fechando o verao,  
 É a promessa de vida no teu coracao     

1行目を「三月の水、夏を閉じ」と勝手翻訳し、三月の水がなんで夏を閉じるんだ? 夏を閉じたら秋ではないか、変なの・・・と思ったのですが、ハッと気がつきました。南半球にあるブラジルの3月は北半球と違って秋に入るのでありました。

「Águas de Março」は下記で聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=QF_Ekf6nHj8

本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。
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中川君のブロマイド

2017-11-26 23:17:41 | 思い出のエッセイ
2017年11月26日

自身はそれに染まりませんでしたが、20歳の頃の大阪京橋時代、まわりには上に素人と名のつく、演出家、役者、シナリオライターの演劇関係者、作家志望やカメラマンなど、サラリーマンとは異質の知り合いがたくさんいました。

わたしはと言うと、その中でどういう訳かこれまた上にへんちくりんな定冠詞がついて「自由人ユーちゃん」と呼ばれていたのです。わたしのどこが自由人かと問いますと、常識の枠にとらわれないで行動するからだそうで(これは20代の頃だということをお忘れなく)、褒められているのか呆れられているのか複雑なところではありました。

素人劇団の何のお役目も担っていないのに出来上がったばかりのシナリオを読まされたり、その仲間からはあっちへこっちへと引っ張りまわされたりしたのですが、都会生活がまだ2年ほどの20歳そこそこのわたしからすると彼らが皆、まぶしい輝きを放っているよう見え、深夜を問わず喜んで引っ張りまわされていた感があります。

おかげでまともな生活はできず、飲まず食わずの日が多かった青春時代ではありましたが、今振り返ってみるに、かけがえのない青春の一こまであったと思います。劇団長はかつて「劇団四季」に籍を置いたことがあるという男性で、彼らはサマセット・モームの作品のみを手がける劇団でした。

そんな知り合いたちの中に一人、プロダクションには属していないものの中川君という素人ではない(!)役者がおりまして、これが顔が大きいものですから、現代劇より時代劇でよく映えるのです。案の定、彼は京都四条にある南座で、よく歌舞伎公演での役回りをしていたのでして。なに、役回りといってもハシッパの役(笑)

これが、ある日浮かぬ顔をして現れまして、「舞台でドジッた。トップの役者さんにこってりしぼられてん」と嘆きます。
何をしたかと言いますと、出番寸前にどうにも我慢ができなくなってトイレに行った。そしたら出番の合図が聞こえたので慌てて舞台に飛び出して行ったのだと言う。

出てしまってからハッと気がついたのが、足に履いてる「便所」と書いてあるスリッパ!(爆)おまけに、手に持ってなきゃならないはずの十手をトイレに置いてきてしまって、「御用だ!御用だ! 」と突き出す手には、十手なし・・・

周りの小役人を演じている人らの後ろに後ろにと隠れて誤魔化そうとしたのだそうだが、そんなもん、ロケじゃあるまいし本番なんやから、どうやって誤魔化すのよ(笑)これを聞いたときには、気の毒な気持ちよりも大爆笑が起こって我らは皆、抱腹絶倒。

役者さんの世界って、NGがたくさんあるでしょ?あれ、爆笑ものが多いですね。しかし、劇場では毎回が本番、やり直しがきかない。中川君によると立派な歌舞伎役者さんも時には失敗するのだそうで、そういう時は、舞台が終わった後に先方さんからちゃんと陳謝として全員に何がしかが配られるのだそうです。

あれから40年ほども経つというのに、今思い出しても「便所」と書かれたスリッパを履いて、「御用だ、御用だ!」と空の手を突き出し、にっちもさっちも行かなくなっている中川君の姿を思い浮かべるたびに、くっくっくと腹を抱えて笑わずにはいられないわたしです。

中川君、どうしているでしょう^^彼からもらったヅラをつけたサイン入りのブロマイド、どこへ行ってしまったかなぁ。
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ドウロ河岸の気軽なレストラン:Taberninha do Manel

2017-11-22 18:22:44 | レストランと食べ物
2017年11月22日 


ポルト、ドウロ川沿岸にあるレストランを紹介します。


スペインを源とするドウロ川はポルト市と隣町Vila Nova de Gaia(ガイア市)の間を縫って大西洋と合流します。上の写真はポルトの対岸になるガイア市から眺めるポルトの街です。ポルトの街の美しさはこの対岸から見てこそ醍醐味があると言えます。


「タベルニーニャ・ド・マネル」と読みます。マネルさんのお食事処です。リベイラ(Ribeira)と呼ばれるポルト河岸からドン・ルイス1世橋を渡り、ガイア河岸の散歩道に入って直ぐ左にあります。


ポルト側のリベイラが眺められるオープン席もありますが、店内が面白い。天井には種々のコーヒーカップがぶら下がっており、壁にも興味深いものが見られます。



使われる皿類はポルトガルの伝統的な赤土で作られたLouça de Barro (Louça=食器、Barro=赤土)です。


アルコールで焼いたショリース(chouriço=ソーセージの種類)と、オリーブの漬物(azeitonas)、タラのコロッケ(bolo de bacalhau)、それにワイン、もしくはビールでわたしなどは十分な昼ご飯になります。

軽く食べたいときにわたしたちが行く庶民的な食事どころです。

住所:Avenida de Diogo Leite 308, Vila Nova de Gaia Portugal
営業時間: 10:00~02:00
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ポルトガル式チゴイネルワイゼン

2017-11-19 15:14:11 | 思い出のエッセイ
2017年11月19日 

近頃では、交差点で見かけるジプシーがめっきり減った。(註:ジプシーという言葉は現在では差別用語とのこと。わたしは全く差別の気持ちなしにここで使用しています)

かつては、信号のある交差点は、ジプシーのいないところはないくらいで、赤信号で停車ともなれば、たちまちにして男のジプシー、赤ん坊を抱いた女のジプシー、子供のジプシーのいずれかに、「お金おくれ。」とせがまれるのであった。

男のジプシーは、たいていA3くらいの大きさのダンボール紙にそのまま「赤んぼも含めてこどもが5人いますだ。めぐんでくだされ。」等と書いて、お金を入れてもらうプラスティックの箱を突き出してくる。

女のジプシーは、赤ん坊を腕に抱き、そのままニュッと手を出し、「ミルク代、おくれよ。」と来る。
子供のジプシーにいたっては、これが一番タチが悪いのだが二人一組で来る。車窓を閉めたままでも、小うるさくコンコン窓ガラスを叩き、爪が黒くなった汚れた手をぬぅっと突き出して、
「ねぇ、おくれよぉ。おくれったらぁ。」としつこい。

「小銭持ってないから、だめだよ。」などと言おうものなら、腹いせに、垂らしていた鼻水、鼻くそまで窓ガラスにくっつけて行ったりするのがいるから、小憎らしい(笑)

子供たちが学校へ通っていた時は、毎日車で迎えに行くのが日課だったから、行きも帰りも赤信号で停車となると、それが年がら年中だ。よって外出時には小銭を用意して出るのが常だった。

わたしには、顔馴染みのジプシーがいた。いや、顔馴染みと言うなら、毎日通る殆どの交差点のジプシーがそうなるのだが、このジプシーは言うなれば「ひいきのジプシー」とでも言おうか。恐らく当時は30代であったろう、男のジプシーで、かれらの族の例に洩れず目つきはするどい。小柄でどこか胡散臭いのだが、なにやら愛想がよろしい。

言葉を交わした最初が、「中国人?日本人?」であった。こう聞かれると日本人だよと返事をしないではおれないわたしだ。「日本人よ。」すると、「やっぱり思った通りだ。ちょっと違うんだよね。」で、彼はここでニコッとやるわけです。用心はするけれども、わたしはこういうのに吊られるタイプでどうしようもない。

それがきっかけで、その交差点を通るたびに、「こんにちは。今日は調子どう?」と挨拶を交わすようになった。

我が家の古着や使わなくなった子供の自転車、おもちゃ、食器など不要になった物、たまには食べ物なども時々その交差点のあたりで停車して手渡したりしていた。

たまに、その交差点に、かの贔屓のジプシーがおらず、別のジプシーを見ることがあって、そういう時は、おそらく縄張りをぶん捕られたか、縄張り交代なのだろう。

ある日、同乗していた、中学も終わる頃の息子が、そのようなわたしを見て言うことには、「ああやって小銭をもらって稼いでるジプシーには、借家のうちなんかより立派な自分の家に住んでることがあるんだよ。」

「3日やれば乞食はやめられない」と日本でも言う・・・・家に帰ってシャワーを浴び、こぎれいになっているそのジプシーの一家団欒を想像してなんだか可笑しくって仕方がなかった。

息子はリスボンへ、娘はバスでダウンタウンにあるポルトガルの私立高に通学するようになって以来わたしはそのジプシーに会うことはなくなった。

その間、東ヨーロッパの国々がEC加入し、気がつくといつのまにやら交差点からは、小銭をせびるジプシーたちの姿が消え、代わりにポルトガルに流れ込んで来た東ヨーロッパ人達が目立つようになった。

彼らは、「要らん!」と言うこちらの言葉にお構いなく、車のフロントガラスにチュ~ッと液状洗剤をかけ、拭き始めるのである。そして「駄賃おくれ」と来る。

「昨日、洗車したばっかよ!」と、頼みもしないのに強引にする輩には絶対小銭を渡さない。しつこく手を出されても赤信号から青に変わるまで、わたしは頑張るのだ(笑)

近頃は、もう交差点の輩には小銭をあげないと決心した。小銭を車窓で受け取り、うっかり落としたふりをし、運転している者の油断をついて、ひったくったり脅したりの犯罪が増えてきたからである。

先日、家の近くの交差点で、数年ぶりにかの「贔屓のジプシー」に遭遇した。わたしが駆っている車種も車の色もあの頃のとは変わっているのだが、即座にわたしを見つけ、「奥さん、久しぶり。お住まいこっちの方で?お子さん達元気?」 少しやつれていた。歳をとったのだ。

閉めていた車窓を開けた。
「E você?」(で、あなたは?)助手席のバッグを引き寄せ、小銭を出して手渡しながら、信号待ちの間のしばしの会話。やがて、信号が変わりわたしは他の車の流れに乗って動き出した。

バックミラーに、車の発進でその身をグリーンベルトに寄せるジプシーの少しやつれた姿が映って、それがあっという間に遠くなった。

世界広し言えども、「贔屓のジプシー」を持っている日本人などそうざらにいるものではあるまい。夫は知らない。
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杉本町津国ビル純情2:抜き足差し足

2017-11-15 10:19:08 | 思い出のエッセイ
2017年11月15日


大阪杉本町の津国ビル下宿屋には門限があった。シンデレラ・タイムの12時である。
それを過ぎると、例え前もって電話で、「ちょっとだけ12時過ぎるけど開けといて~」と頼もうが何しようが、玄関は管理人夫婦がバッチリ閉めて決して開けられることはない。

いずれにせよ、門限時間まで遊ぼうとしたら、タクシーで帰れるだけの経済的余裕がないといけないのであり、貧乏学生やわたしのように定職のないようなのが多いのだから、そういうことで締め出しを食うのは、あまりいない。いたとしても男の話であるから、さほど心配にも及ぶまい。

と、言いたいところであるが、何を隠そう、女のこのわたしこそ、実は門限破りの常習犯であったのだ。しかし、一言言わせてください。それは遊び呆けてではなく、レストラン等の宣伝撮影のための助手バイトが理由である。

同じ下宿先にカメラマンN君がおり、彼も副職としてこういう撮影の仕事をしており、照明やらなんやらのアシスタントがいる。そこで、わたしにこの話が回ってきたのだ。

撮影場所のライトのあたり具合に小道具を使うので、わたしがそれを上げたり下げたりと照明ライト等を持ったりしてのバイト。大した収入にはならないが、それでも生活の足しである。撮影の話が来るたび、
わたしは引き受けた。

撮影場所のライトのあたり具合に小道具を使うので、わたしがそれを上げたり下げたりと照明ライトを持ったりしてのバイト。大した収入にはならないが、それでも生活の足しである。撮影の話が来るたび、
わたしは引き受けたのだが、問題は門限だ。

この仕事はレストランの閉店後になる。撮影は夜10時半ころから始まり一時間半ほどで終わるのだった。後片付けを終えて下宿屋に着くのは、どうしても12時を回る。

3階建てのコの字型の下宿先で、わたしの部屋は一階中庭に面していたので、一階とて外からアクセスすることは不可能である。しかし、運良くN君の部屋はだだっ広い野原を隔てたとおりに面していたのだ。

そこで、撮影の仕事がある日は、N君は自分の部屋の窓の戸締りをせずに出かける。そして、仕事終了後、二人でタクシーで下宿屋の近くまで乗りつけ、野原をざざ~っと横切って、手はず通り開けてある窓から入り込む、ということを、わたしたちは繰り返したのでした。

あの頃は今のように物騒な世の中ではなかったので、窓の戸締りをしなくても安全であった。わたしなど、後年、自分のアパートの台所の窓は、飼いネコのポチがわたしの留守中の日中に自由に出入りできるよう年中開けっ放しにしていたが、一度も泥棒に入られたことはない。

さて、その夜も大阪、難波にある中華料理店の撮影を事なく終えて、いつもの通りN君の窓から入り込む。「お疲れさん、またあしたね」と言いもって、わたしは窓から彼の部屋に入り込むときに脱いだ靴を両手に軽く持ち上げ、抜き足差し足の素振りでN君の部屋のドアを開けた。
とたん、「こらぁーー!」
なんと、目の前に怒声とともに、管理人のおっさんがつっ立っているではないか。
「また、お前らか!一回や二回ならいざ知らず、何べんやっとるねん!」

おっさんは、毎夜門限時間になると、下宿屋ビルの屋上から通りに面した側を見張っておったのである。
悪い趣味だよ。

もう完全に袋のねずみで、現行犯で何の言い訳もできない。もとより、嘘をつくのが下手なわたしである。現行犯ともなれば、もやは潔くするに越したことはない。

二人ともしらを切ろうと思えばできたやもしれない。なぜなら、若いわたしたちはしょっちゅう下宿仲間の誰かの部屋に集まっては、夜更けまで話し込んだりしていたのだし、それについては何のおとがめもなかったのだから。しかし、両手に靴を下げて、人様の部屋を出るかい?(^^;)

あっさり門限破りを白状したわたしたちはこっぴどく叱られ、以後すっかり目をつけられて、深夜に及ぶ撮影のバイトは終了せざるを得なかったのであった。

これも若者が多かった大下宿屋なればこその懐かしい思い出ではあった。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。
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