ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

シントラ:エドラ伯爵夫人のシャレー(3)

2017-09-20 09:00:00 | シントラ
2017年9月20日

前回の続きです。

ドン・フェルナンド2世は1885年に69歳で亡くなります。
その遺言で、シントラにあるムーア人の城やペナ城を含む森など自分の全財産をエリゼに遺すわけですが、これはさぞかし騒動になったことでしょう。ドン・フェルナンド2世の死後、エリゼはこの小さなシャレーに住みますが、後にこの二つの城はドン・カルロス1世(ポルトガル王国最後から二人目の暗殺された国王)に、エドラ公爵夫人ことエリゼ・ヘンスラーから買い取られ王国のものになります。

同時に、エリゼはシントラを去り、一人娘のアリスとともにリスボンに住むのですが、娘アリスについては、ドン・フェルナンド2世との間の娘かどうかは不明だとの説があります。エリゼにはドン・フェルナンド2世と結婚する前にすでに娘がいたと言われていますが、二人が知り合ったのは1860年、そして結婚したのが1869年ですから、アリスがドン・フェルナンド2世との間の娘であることは十分考えられます。

カトリックの国、ポルトガルはわたしが来た頃にはまだ離婚が認められていませんでしたから、19世紀のポルトガル社会で結婚前に生まれた子供については、どのような扱いになったか想像がつくというものです。エリゼの庶民出身であるのと、正式な結婚以前の娘の誕生は王家にいざこざを起こす可能性があり、それを回避しようとして二人の間の正式な子供としなかったのではないか。と、わたしは推測するのですが、真実はいかに。


後年のドン・フェルナンド2世とエリゼ(Wikiより)

1929年にエリゼは92歳でリスボンで生涯を閉じます。ポルトガル最後の国王だったドン・マヌエル2世と、前ドナ・アメリア王太后は1910年の革命でイギリス、フランスへ各々亡命しており、ブラガンサ王朝は崩壊し、ポルトガルは共和国になりました。庶民出身とは言え王家とゆかりのあるエリゼの葬儀に、亡命先からの帰国は禁じられていましたので、二人とも代理を送っています。かつての王妃に礼を尽くしたということでしょう。

エリゼは自分の墓石について遺言を下記のように遺していました。

縦横4メートルの土地を買い シントラ山頂にあるのと同じ十字架(Cruz Altaと呼ばれる)を墓石のトップに置くこと、十字架のサイズは墓地の大きさに比例すること、墓石には「ここにドン・フェルナンド2世王の寡婦、眠る。1836年生誕」と刻むこと。


シントラ山頂の薔薇十字です(Wikiより)登山できますが、わたしはまだ行っていません。

下がエリゼ・ヘンスラーの墓地。リスボンのプラゼーレス墓地(Cemitério dos Prazeres)に彼女は眠っています。


エリゼことエドラ伯爵夫人に関する記録は少なく、オペラ歌手から王妃になった彼女の生涯に少なからず興味を持つわたしですが、ここまでの調査に時間を費やし、やっと少しだけ綴ることができました。

同じく、明治時代に一般庶民からオーストリア=ハンガリー貴族と結婚して伯爵夫人になった日本女性、クーデンホーフ光子がいますが、夫の死後、相続した財産を巡り一族と裁判沙汰になるも勝訴して伯爵家を取り仕切った光子に比べて、伝記もなく歴史から忘れ去られたようなエリゼ伯爵夫人の生涯について、いつかもう一度焦点をあててみたい気がします。

エリゼ・ヘンスラーとシャレーについては、今回で終わりです。読んでいただき、ありがとうございました。
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