ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

シントラ:エドラ伯爵夫人のシャレー(2)

2017-09-18 10:00:00 | シントラ
2017年9月18日

庶民の出とは言え、エリゼは元摂政、国王であったフェルナンド2世の妃です。(この頃は次男のドン・ルイス1世が国王)どんなにか豪華なシャレーであろうかと期待するところですが、ご覧あれ。なんとまぁ小さな、そして可愛いらしい!エリゼの故国スイスのアルプスとアメリカの田舎の山荘をイメージして、彼女自らが手がけたデザインです。1869年に建築されました。


ドアや窓枠、ベランダなどにはコルク材が使われています。


窓に小さなローズが絡んでロマンチックなこと!

ここで少しフェルナンド2世についてメモしておきたい。
当時のポルトガル王家の決まりでは、王配、つまり女王の夫はプリンスというタイトルでした。
これは現在のイギリスのエリザベス女王の夫、プリンス・フィリップが例に挙げられます。イギリスと違うところは、女王との間に子供が生まれた場合、女王の夫には国王の称号が与えられるという点です。

実は、女王ドナ・マリア2世はドン・フェルナンドとは2度目の結婚なのです。最初の夫はドイツのロイヒテンベルグ公アウグストですが、結婚後間もなく肺結核で急逝、女王との間に子供は生まれませんでした。ドナ・マリア2世17才にとっては再婚のドン・フェルナンド2世19才との結婚17年間に、二人の間にはなんと11人の子供が生まれています。(うち、4人は誕生後死亡)。

よって、ドン・フェルナンド2世は第一子が生まれると同時に国王の称号を得ますが、摂政として国政を行った時期が長いのです。ドン・フェルナンド2世は女王の政策を多方面でサポートしたと言われます。陶芸、水彩画も趣味で芸術面に造詣が深いフェルナンド2世は人々から「芸術王」の別称を与えられています。

また、彼は中世から存在する錬金術の叡智を持ち、後のフリーメーソンにも影響を与えている秘密結社「薔薇十字団」のグランドマスターだったとも言われます。そうして見ると、ドン・フェルナンドが精魂込めて造りあげた不思議な雰囲気を持つペナ城はなるほどと頷けます。

余談ですが、薔薇十字団員として名を馳せるせる人に、18世紀、ヨーロッパで多くの伝説を残したサン・ジェルマン伯爵がいます。彼はフランスを中心に活躍しました。哲学者ボルテールをして「決して死ぬことがなく全てを知る人」と言わしめています。

わたしが20代に読んだ本では、サン・ジェルマン伯爵は歳をとらない。周囲が知らないうちにいつのまにか何年もどこかへ姿をくらますのだが、再び姿を現しても歳をとっていない。ヒマラヤへ行くらしい、と書かれてあったのを覚えています。サン・ジェルマン伯爵については調べてみると色々面白い物語があると思いますので、興味のある方は検索してみてください。
 
さて、シャレーの内部です。
広い間はなく、部屋のインテリは統一されておらず、どの部屋もそれぞれ特徴をもっています。


天井には薔薇十字団のシンボルである大きな薔薇の花が見られる


レースを思わせる青と白を貴重にした部屋

シャレーの四方にあるベランダからは、遥か彼方に海や山頂のムーア人の城、そしてこんもりとした森の上に姿を見せるペナ城が眺められます。この小さなシャレーは、身分の低さゆえに周囲の蔑みを受けたであろうエリゼにとり、息苦しい宮中生活からの逃避の場でもあったことは想像に難くない。ドン・フェルナンドとエリゼはよくこのシャレーに留まったようです。

して見れば、二人ともポルトガル人ではなく異国の人です。エリゼは多言語を話すことができたと言われますし、ドイツ出身の彼女、きっとドイツ語も話せたことでしょう。オーストリア人のドン・フェルナンド2世とは言語の面でも意思にこと欠かなかったと思います。

さて、その後の二人はどうなったのかと気になるところではありますがこれは次回にしましょう。
コメント
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