さらば「受験の国」 高校生ニュージーランド留学記---池部敦---新書
あまりちゃんと読んだわけではないのだけれど、日本の高校で重視されたことが「ノートと教科書」であったのに対し、ニュージランドの高校では「ディスカッション・調査・エッセー」だったというところを読んで、スヌーピーで知られる「Peanuts」を思い出した。
Peanutsシリーズでは、よく「Show & Tell」という学校でのエピソードが出てくる。谷川俊太郎の訳では「見せて、お話」となっている。
チャーリー・ブラウンの妹であるサリーが、これに四苦八苦する顛末は、「Peanuts」の定番であるが、彼女だけでなく、チャーリー・ブラウンやペパミント・パティといった他の子供たちもよくやっている。
僕は、小学生の頃からこの「Peanuts」を読んでいて、この「見せて、お話」とはいったい何なのか、とよく考えていた。優秀な作文を書いた人がみんなの前に立って発表するでもない。理科の実験結果をグループで説明するでもない。児童全員が、もっとずっと頻繁に日常でやっている感じである。
まず、テーマが多彩だ。自分の書いた絵のこともあれば、昨日行った美術館のこともあれば、町の歴史のこともあれば、飼っている犬(つまりスヌーピー)のことでもある。
要するにこれはプレゼンテーションの練習なのである。
が、「Show & Tell」はそれだけではなく、まず「準備」がある。サリーはいつもこれに苦労している。図書館に行き、本を調べ、人に話を聞く。サンプルを集めたり、数を数えたりもする。めんどうくさくなって、お兄ちゃん(チャーリー・ブラウン)に頼ることも多いし、手近なもので済ませてしまうこともある。(学校への道すがら落ちていた葉っぱをネタにしゃべった回もある)
そして、プレゼンして終わりではない。そのあとに質疑応答、つまりディスカッションがある。たいがい、ここでみょうちくりんな問答になって最後のオチになるのだが、このような「Show & Tell」は、どうやらアメリカの小学校では必須課題だそうで、連中のフィールドワークやプレゼンテーションやディベートの能力はこんなところからスタートされる。
で、ニュージランドの高校の「ディスカッション・調査・エッセー」というのは、この「Show & Tell」とよく似ているなあと思った。「調査」というのは、「Show & Tell」のコンテンツをつくるための準備に他ならないし、「エッセー」とは要するにアウトプットがスクリプトになった場合である。そして「ディスカッション」。
要するに、両方とも情報を収集し、編集し、伝達する「方法」というものを訓練している。で、その「情報」素材として、国語算数理科社会その他が総動員される。
この教育システムの全てが良いとは思わないにしても、これ、もう少し日本でも定着すればいいのに、とずっと思っていた。というのは、「国語算数理科社会」の成績が抜群で、しかし「Show & Tell」ができない人、あるいは「ディスカッション・調査・エッセー」が下手な人の“イタさ”というのをここのところよく体感するからだ(不思議なことに、この両者が逆な人というのは、けっこう社会でも強い)。
他人と共有できない、させられない「情報」は、「情報」として意味をなさないのだから、「概念を情報化するセンス」というのは、もっと公的に訓練する機会を、それこそ義務教育の段階から鍛え上げていいと思う。
あまりちゃんと読んだわけではないのだけれど、日本の高校で重視されたことが「ノートと教科書」であったのに対し、ニュージランドの高校では「ディスカッション・調査・エッセー」だったというところを読んで、スヌーピーで知られる「Peanuts」を思い出した。
Peanutsシリーズでは、よく「Show & Tell」という学校でのエピソードが出てくる。谷川俊太郎の訳では「見せて、お話」となっている。
チャーリー・ブラウンの妹であるサリーが、これに四苦八苦する顛末は、「Peanuts」の定番であるが、彼女だけでなく、チャーリー・ブラウンやペパミント・パティといった他の子供たちもよくやっている。
僕は、小学生の頃からこの「Peanuts」を読んでいて、この「見せて、お話」とはいったい何なのか、とよく考えていた。優秀な作文を書いた人がみんなの前に立って発表するでもない。理科の実験結果をグループで説明するでもない。児童全員が、もっとずっと頻繁に日常でやっている感じである。
まず、テーマが多彩だ。自分の書いた絵のこともあれば、昨日行った美術館のこともあれば、町の歴史のこともあれば、飼っている犬(つまりスヌーピー)のことでもある。
要するにこれはプレゼンテーションの練習なのである。
が、「Show & Tell」はそれだけではなく、まず「準備」がある。サリーはいつもこれに苦労している。図書館に行き、本を調べ、人に話を聞く。サンプルを集めたり、数を数えたりもする。めんどうくさくなって、お兄ちゃん(チャーリー・ブラウン)に頼ることも多いし、手近なもので済ませてしまうこともある。(学校への道すがら落ちていた葉っぱをネタにしゃべった回もある)
そして、プレゼンして終わりではない。そのあとに質疑応答、つまりディスカッションがある。たいがい、ここでみょうちくりんな問答になって最後のオチになるのだが、このような「Show & Tell」は、どうやらアメリカの小学校では必須課題だそうで、連中のフィールドワークやプレゼンテーションやディベートの能力はこんなところからスタートされる。
で、ニュージランドの高校の「ディスカッション・調査・エッセー」というのは、この「Show & Tell」とよく似ているなあと思った。「調査」というのは、「Show & Tell」のコンテンツをつくるための準備に他ならないし、「エッセー」とは要するにアウトプットがスクリプトになった場合である。そして「ディスカッション」。
要するに、両方とも情報を収集し、編集し、伝達する「方法」というものを訓練している。で、その「情報」素材として、国語算数理科社会その他が総動員される。
この教育システムの全てが良いとは思わないにしても、これ、もう少し日本でも定着すればいいのに、とずっと思っていた。というのは、「国語算数理科社会」の成績が抜群で、しかし「Show & Tell」ができない人、あるいは「ディスカッション・調査・エッセー」が下手な人の“イタさ”というのをここのところよく体感するからだ(不思議なことに、この両者が逆な人というのは、けっこう社会でも強い)。
他人と共有できない、させられない「情報」は、「情報」として意味をなさないのだから、「概念を情報化するセンス」というのは、もっと公的に訓練する機会を、それこそ義務教育の段階から鍛え上げていいと思う。