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散歩哲学 よく歩き、よく考える

2025年02月17日 | エッセイ・随筆・コラム
散歩哲学 よく歩き、よく考える

島田雅彦
早川書房


 本書の全体的印象としては、著者による散歩の効能論と実践記録を主観と客観の境目もあいまいに無秩序に無軌道に繰り延べられたエッセイで(たぶん散歩の妙を再現しているのだと思われる)、ちょいとばっかし自慢と傲慢さも感じちゃったりしたのだが、「はじめに」と「おわりに」がなかなか味わい深かった。このブログのひとつ前の投稿である國分功一郎の「目的への抵抗 シリーズ哲学講話」とシンクロする内容だったのである(巻末の参考文献一覧にしっかりと「目的への抵抗」が含まれていた)。

 本書の「はじめに」と「おわりに」では、散歩とは要するに「移動の自由の権利」の象徴であり、「国破れて山河あり」の幸福を享受できる行為なのであるということを宣言している。


 「移動の自由の権利」とは、近代社会における人類の権利の最も崇高なものである、というのが本書「散歩哲学」においても「目的への抵抗」においても語られている。「移動の自由」があれば、我々は暴力や圧政から逃れることができる。いじめやDVから身を守るのはもちろん、職業選択の自由や婚姻相手の自由もこの延長上にある。最大の人権侵害は移動を禁止することなのだ。江戸時代の庶民には引っ越しの自由がなかったというし、旧共産圏の国々の多くは、国民の国内旅行を制限していた。現代でも中国は、最新テクノロジーを用いた監視国家であり、防犯カメラや盗聴システムが随所に仕掛けられて作動している。真の意味で移動の自由とは言えない。
 この「移動の自由」が不要不急の名のもとに著しく制限されたのがコロナ禍であった。つい数年前のことなのに、現在の街にあふれるインバウンドや、混み合う都心の地下鉄や飲食店を見るに、あのゴーストタウン化した光景は記憶としてひどく朧気になりつつある。しかし、あれこそが「移動の自由の権利」をはく奪された状態だったのだ。あのとき実際に新天地での進学や転職が許されずに不遇を囲った人々は増えたし、DV問題も顕著化した。

 その「移動の権利」の究極は「不要不急」ではない移動の実践であり、その象徴が「散歩」なのであった。「散歩」こそはそもそも目的地も理由もない。ただ歩きたいから歩くものだ。

 そもそも、移動の自由を制限してくるのは、時の権力であり、行政である。企業も学校もその行政指導の名の元に行われている。我々の日々は行政基盤の上で営まれているのだ。散歩とは、その国の統制からの脱却行為であるともいえる。散歩をしているときはひと時とはいえ我々は我々を束縛するものから自由である。行政だけではない。勤務先や所属先からも自由である。諸々のしがらみと連結しているスマホなんぞは奥底にしまってぷらぷらと歩く散歩こそはアナーキーな行為と言えよう。そんな気分のときに目や耳から入ってくる光景、すべての支配が溶け去ったあとに残った光景、これを愛でるセンスこそが「国破れて山河あり」なのである。理由も意味も目的も捨てて、眼前に現れる大気と自然、街並み、店頭に並ぶ品々、行き交う人々、供される食。これらを虚心坦懐に眺め味わう。これが散歩の醍醐味である。

 しかも「散歩」は無為かと言えばそうでもない。過去の哲学者も科学者も芸術家もよく散歩をした。カントもベートーヴェンも夏目漱石もアインシュタインも散歩を愛した。その散歩から、文化文明史を変えるあれだけの閃きが生まれてきている。散歩という行為は、脳みそをいい感じに弛緩するようだ。頭の中でぐるぐるまわっていたパズルのピースがはまったり、悩んでいたことが案外そんなたいしたことではないと気付いたり、記憶の底に眠っていたことがよみがえったりする。散歩にそういう効能があることは昔から知られていたし、逆説的に言えば、普段の我々の生活は、いかに脳みそをコチコチにさせる時間を過ごしているのかということでもある。


 というわけで、たかが散歩されど散歩。本書にあてられてしまったかついつい僕も語ってしまった。


 ところで、散歩には大きくわけて2つのスタイルがあるらしい。一方は毎回知らない道や町を歩くスタイル、他方は同じルートをたどるルーチンのスタイルである。もちろん両方を塩梅よくやっているのだろうけど、どちらかが主になっていることが多いんじゃないかという気がする。本書の著者は後者のようだ。馴染みの町とか行きつけの店を滔々と語っているのでルーチン型だろう。

 僕自身は、知らないところを行く2、同じところにいく8くらいの割合だろうか。どうしても勝手知ったる本屋やカフェに偏重してしまい、新たな発掘を怠ってしまっている。実は本書を読んでいちばん気が付いたのはこのことだった。
 ルーチンみたいな散歩でも十分にリラックスして脳みその弛緩に効果的なのは自覚しているのだけれど、せっかくの「移動の自由」の権利を自分で狭めていることに気が付いた。しかも、歳をとるごとにそうなってきている。だんだん知らない道や知らない店が億劫になってきているのだ。これはたいへんよろしくない傾向である。もうすこしランダムに歩いてみようと思う。


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