過去の記事を丁寧に読んでいただき、コメントを入れて下さった方への返信を、記事としてアップいたします。
以下引用。
>飛鷹満さま、遅ればせながら初めまして。 最近こちらのサイトを知りました。 過去記事からゆっくり勉強させて頂いております。
ゆらりすさん、はじめまして。ご訪問いただき、ありがとうございます。
過去記事を最初から順に読んでくださっているとのこと。筆者として大変光栄に感じます。
インターネット上に多くの種類の情報発信サイトが存在している。それらがそれぞれの立場から等しく、ある特殊な世界について語っている。...このことに気付いて大いに驚愕し、それらの内の幾つかを自分なりに熟読しては、その筆者宛にコメントを入れるということを始めたのが、私の場合は3年程前でした。
それらのサイトがどれも等しく、活発に発信しつづけているのは、次のようなことでした。
「既知の表層世界の奥に『形而上学的な超越的叡知界』と云うのとはまた全く異なる色合いを持った、それ自体飽くまでも現実的な異世界がある。我々のこの狭小な表層世界をありとあらゆる点で遥かに凌駕しつつ恐ろしく巧妙に隠されてはいるが、実は厳然と存在し、この表層世界をその余りにも強力過ぎる影響力を持って、その隅々まで隈無く支配し続けている」
ゆらりすさんのコメントを拝見して私は、その時の自分自身のことを思い出しました。
>世の中の仕組みというか、いわゆるインボー論を超えた「この世の中は本当はどうなっているんだろう」ということに常々興味を持っております。
そのような興味は、人としても、日本人としても、至極当然のことでしょう。私もこの数年来、ゆらりすさんと同様の興味関心を抱き、それまでの自分をいろんな意味でひとつずつ脱ぎ捨てながら、調査に没頭して来ました。現在は、個人的な生活環境の激変に巻き込まれたせいで記事の更新そのものは随分長いことご無沙汰させて戴いてはおりますが、研究そのものは、全く変わりなく続いています。安本美典の邪馬壹国論や八切止夫の論、ミトラス教=密教論を中心とした東條真人のミトラ研究、『古事記』や『日本書紀』の偽書性の詳細とその取り扱い方をめぐる諸々の論説、『史記』や『三國志』、『韓非子』といった中国の古典等々、新しい文献を膨大に詳細に、気儘に読み漁っている最中です。自分の過去の記事を客観的に読み直す作業も続けています。何れにしても、この研究領域には間違いなく、非常に重要な何かが含まれていると確信しています。研究は、執筆するしない、発表するしないには関係なく、一生死ぬまで続いていくだろうと予想しています。
>ただ、飛鷹満さんや他の方々とは違い、学問に疎いので、四苦八苦している次第です (^_^;)。
上に挙げた研究領域内の諸々の文献は、誰であれ無視することの許されない非常に重要な情報を含んでいます。このことに間違いはありません。ですが、文章表現や概念に関しては、更には、立場の自己規定に関しては、何れも共通して、余りにも曖昧で、厳密性に欠けています。「四苦八苦」は、ゆらりすさんだけではなく私も、恐らくは同じような状況にありますが、その原因は従って、恐らくは大部分が、今述べたような書き手側の落ち度にあると思うのです。彼等の認識に、その重要性に相応しい正確な概念規定と表現形式を与えると共に、そのことによって更には、認識の空白地帯をも発見し、それらを悉く独自に埋めていく。これが、自分のやるべき仕事ではないかと自覚して、私は作業を進めています。私も「学問」とは無関係な場所にいますが、だからこそ得られる自由を強みに、「学問」には欠落しがちな本当の学問を実現したいと思っています。
>昨今、皇室を貶めるような記事のブログもありますが、 飛鷹満さんの公平で客観的な視点、そしてクリスチャンでいらっしゃるということで、信仰心を基にした考え方の方が、私には納得できます (^_^) 。なぜ大の大人と言えるような方々が、サヨク官僚みたいな方=◯◯先生とやらの情報を鵜呑みにしてしまうのか…謎です。その方がよっぽど彼らが嫌う「宗教」っぽ く思えてしまいます。
あの鬼塚氏のことですね。彼に限らず、この分野の情報発信には何れも、パイオニアだからこそ致し方なくそうなってしまう面もあるのだと私は理解していますが、情報発信者自身の、この情報に対する制御せられざる悪感情の表出が付随しています。体臭漂うかのごとき極めて個人的な存在次元でしか、このようなタイプの真相暴露はそもそも、発想も実現もできないものだからなのでしょうか。何れにしても、このようなタイプの真相暴露の受容の際には、情報の発信者に対して沸き上がってくる生理的な嫌悪感をある程度は覚悟しながら、その嫌悪感にまみれた真実そのものを丁寧に取り出して清めるという作業が必須になってくると思います。そして、自分の体臭が公に晒されることも厭わず、そのような情報発信に邁進してくれたパイオニア達の、尊い心意気に対する敬意も忘れてはなりません。
本当の宗教は本質的に、先ず、支配層の秘密結社内で「密教」として存続している筈です。その支配層の秘密結社から、土地土地の定着被支配民の為にそれぞれの定着被支配民に相応しい支配の道具としての「宗教」と組織が往古に与えられたのです。所謂「顕教」のことです。近代になってこの定着被支配民の間に、ある特定の者達の明確な意図と暗躍の元で、「宗教」への公然たる反発の機運が広められた。その際に、事の本質の理解できない大部分の自称「インテリ」層が養成され、彼等の主導の元で「宗教」と宗教の区別が曖昧にされ、「宗教」への反発が宗教そのものへの反発へと変質させられた。結果として、それまで以上の凄まじい人間阻害が、自由の名の元、あちこちで絶えず繰り広げられるようになった。
そんな定着被支配民の中からも当然、本当の宗教に目覚める人々が時々出てきます。そんな人々に対して支配層が常に、試練しか与えないということにはなっていないでしょう。彼等の厳しい試験に合格した者として、世に救いをもたらす貴重な聖者として、最高級の期待と敬意をもって待遇することも、少なからずあるに違いありません。
他方、本当の宗教を保持している支配層には、そうでない定着被支配民に対する態度の違いによって必ず、大まかに言って二つの派閥ができてきたことでしょう。「哀れみ啓蒙して差し上げよう。できない場合でも蔑むようなことはしてはならず、彼等の慰めにならなくてはならない」と考える者たちと、「啓蒙など無駄だ。試練を容赦なく与え、耐え抜いた一部を除いて全て、弱者として切り捨てざるを得ない」と考える者達です。この両派閥は、支配層として互いに互いを仲間と認め合いつつも、定着被支配民に対する以上のような態度の違いに基づいて対立し合うようになっていた筈です。また、支配層内での人口増加によって支配層内に、限られた権益を巡る争いも頻発していた。この際の敗者に対する勝者の処遇や、その処遇に対する敗者の対応の中にこそ、戦争というものの起源が、更には、歴史的実在としての悪の起源があると、私は最近、考えるようになっています。
>宗教という言葉は確かに怪しい気配を含む場合がありますが、「神さまと私」という経験としての信仰は、人を人たらしめる最もステキなことだと思っています(神道が好きです)。
私も全く同じ思いです。例えば、神々しい夕陽に照らされて何とも言えないような美しい、崇高な姿を現した巨大な雲と、それを眺めて何かに打たれ、うっとりした顔で思わず「神様雲だあ」とひとりごつ子供。この時の気持ちを大人になっても忘れず、日常生活に自ら反映させて生きていこうとする。そして実際に、そのように生き続けていられる。これこそ宗教なのではないでしょうか?
「宗教」に盲従することに慣れ、感情と認識の器官が根から腐ってしまっている者達。更には、そんな人々への憎悪や軽蔑の感情を無批判に、宗教そのものへの憎悪や軽蔑へと転化させてしまい、そのことによって、自覚のないまま、自分と周囲の人間の人間性を自ら著しく阻害してしまっている者達。この人達はどちらも、大きな間違いを犯しているのではないでしょうか?
>それでは、また寄らせて頂きます。
はい(笑)。ありがとうございました。
引用以上。
以下引用。
>飛鷹満さま、遅ればせながら初めまして。 最近こちらのサイトを知りました。 過去記事からゆっくり勉強させて頂いております。
ゆらりすさん、はじめまして。ご訪問いただき、ありがとうございます。
過去記事を最初から順に読んでくださっているとのこと。筆者として大変光栄に感じます。
インターネット上に多くの種類の情報発信サイトが存在している。それらがそれぞれの立場から等しく、ある特殊な世界について語っている。...このことに気付いて大いに驚愕し、それらの内の幾つかを自分なりに熟読しては、その筆者宛にコメントを入れるということを始めたのが、私の場合は3年程前でした。
それらのサイトがどれも等しく、活発に発信しつづけているのは、次のようなことでした。
「既知の表層世界の奥に『形而上学的な超越的叡知界』と云うのとはまた全く異なる色合いを持った、それ自体飽くまでも現実的な異世界がある。我々のこの狭小な表層世界をありとあらゆる点で遥かに凌駕しつつ恐ろしく巧妙に隠されてはいるが、実は厳然と存在し、この表層世界をその余りにも強力過ぎる影響力を持って、その隅々まで隈無く支配し続けている」
ゆらりすさんのコメントを拝見して私は、その時の自分自身のことを思い出しました。
>世の中の仕組みというか、いわゆるインボー論を超えた「この世の中は本当はどうなっているんだろう」ということに常々興味を持っております。
そのような興味は、人としても、日本人としても、至極当然のことでしょう。私もこの数年来、ゆらりすさんと同様の興味関心を抱き、それまでの自分をいろんな意味でひとつずつ脱ぎ捨てながら、調査に没頭して来ました。現在は、個人的な生活環境の激変に巻き込まれたせいで記事の更新そのものは随分長いことご無沙汰させて戴いてはおりますが、研究そのものは、全く変わりなく続いています。安本美典の邪馬壹国論や八切止夫の論、ミトラス教=密教論を中心とした東條真人のミトラ研究、『古事記』や『日本書紀』の偽書性の詳細とその取り扱い方をめぐる諸々の論説、『史記』や『三國志』、『韓非子』といった中国の古典等々、新しい文献を膨大に詳細に、気儘に読み漁っている最中です。自分の過去の記事を客観的に読み直す作業も続けています。何れにしても、この研究領域には間違いなく、非常に重要な何かが含まれていると確信しています。研究は、執筆するしない、発表するしないには関係なく、一生死ぬまで続いていくだろうと予想しています。
>ただ、飛鷹満さんや他の方々とは違い、学問に疎いので、四苦八苦している次第です (^_^;)。
上に挙げた研究領域内の諸々の文献は、誰であれ無視することの許されない非常に重要な情報を含んでいます。このことに間違いはありません。ですが、文章表現や概念に関しては、更には、立場の自己規定に関しては、何れも共通して、余りにも曖昧で、厳密性に欠けています。「四苦八苦」は、ゆらりすさんだけではなく私も、恐らくは同じような状況にありますが、その原因は従って、恐らくは大部分が、今述べたような書き手側の落ち度にあると思うのです。彼等の認識に、その重要性に相応しい正確な概念規定と表現形式を与えると共に、そのことによって更には、認識の空白地帯をも発見し、それらを悉く独自に埋めていく。これが、自分のやるべき仕事ではないかと自覚して、私は作業を進めています。私も「学問」とは無関係な場所にいますが、だからこそ得られる自由を強みに、「学問」には欠落しがちな本当の学問を実現したいと思っています。
>昨今、皇室を貶めるような記事のブログもありますが、 飛鷹満さんの公平で客観的な視点、そしてクリスチャンでいらっしゃるということで、信仰心を基にした考え方の方が、私には納得できます (^_^) 。なぜ大の大人と言えるような方々が、サヨク官僚みたいな方=◯◯先生とやらの情報を鵜呑みにしてしまうのか…謎です。その方がよっぽど彼らが嫌う「宗教」っぽ く思えてしまいます。
あの鬼塚氏のことですね。彼に限らず、この分野の情報発信には何れも、パイオニアだからこそ致し方なくそうなってしまう面もあるのだと私は理解していますが、情報発信者自身の、この情報に対する制御せられざる悪感情の表出が付随しています。体臭漂うかのごとき極めて個人的な存在次元でしか、このようなタイプの真相暴露はそもそも、発想も実現もできないものだからなのでしょうか。何れにしても、このようなタイプの真相暴露の受容の際には、情報の発信者に対して沸き上がってくる生理的な嫌悪感をある程度は覚悟しながら、その嫌悪感にまみれた真実そのものを丁寧に取り出して清めるという作業が必須になってくると思います。そして、自分の体臭が公に晒されることも厭わず、そのような情報発信に邁進してくれたパイオニア達の、尊い心意気に対する敬意も忘れてはなりません。
本当の宗教は本質的に、先ず、支配層の秘密結社内で「密教」として存続している筈です。その支配層の秘密結社から、土地土地の定着被支配民の為にそれぞれの定着被支配民に相応しい支配の道具としての「宗教」と組織が往古に与えられたのです。所謂「顕教」のことです。近代になってこの定着被支配民の間に、ある特定の者達の明確な意図と暗躍の元で、「宗教」への公然たる反発の機運が広められた。その際に、事の本質の理解できない大部分の自称「インテリ」層が養成され、彼等の主導の元で「宗教」と宗教の区別が曖昧にされ、「宗教」への反発が宗教そのものへの反発へと変質させられた。結果として、それまで以上の凄まじい人間阻害が、自由の名の元、あちこちで絶えず繰り広げられるようになった。
そんな定着被支配民の中からも当然、本当の宗教に目覚める人々が時々出てきます。そんな人々に対して支配層が常に、試練しか与えないということにはなっていないでしょう。彼等の厳しい試験に合格した者として、世に救いをもたらす貴重な聖者として、最高級の期待と敬意をもって待遇することも、少なからずあるに違いありません。
他方、本当の宗教を保持している支配層には、そうでない定着被支配民に対する態度の違いによって必ず、大まかに言って二つの派閥ができてきたことでしょう。「哀れみ啓蒙して差し上げよう。できない場合でも蔑むようなことはしてはならず、彼等の慰めにならなくてはならない」と考える者たちと、「啓蒙など無駄だ。試練を容赦なく与え、耐え抜いた一部を除いて全て、弱者として切り捨てざるを得ない」と考える者達です。この両派閥は、支配層として互いに互いを仲間と認め合いつつも、定着被支配民に対する以上のような態度の違いに基づいて対立し合うようになっていた筈です。また、支配層内での人口増加によって支配層内に、限られた権益を巡る争いも頻発していた。この際の敗者に対する勝者の処遇や、その処遇に対する敗者の対応の中にこそ、戦争というものの起源が、更には、歴史的実在としての悪の起源があると、私は最近、考えるようになっています。
>宗教という言葉は確かに怪しい気配を含む場合がありますが、「神さまと私」という経験としての信仰は、人を人たらしめる最もステキなことだと思っています(神道が好きです)。
私も全く同じ思いです。例えば、神々しい夕陽に照らされて何とも言えないような美しい、崇高な姿を現した巨大な雲と、それを眺めて何かに打たれ、うっとりした顔で思わず「神様雲だあ」とひとりごつ子供。この時の気持ちを大人になっても忘れず、日常生活に自ら反映させて生きていこうとする。そして実際に、そのように生き続けていられる。これこそ宗教なのではないでしょうか?
「宗教」に盲従することに慣れ、感情と認識の器官が根から腐ってしまっている者達。更には、そんな人々への憎悪や軽蔑の感情を無批判に、宗教そのものへの憎悪や軽蔑へと転化させてしまい、そのことによって、自覚のないまま、自分と周囲の人間の人間性を自ら著しく阻害してしまっている者達。この人達はどちらも、大きな間違いを犯しているのではないでしょうか?
>それでは、また寄らせて頂きます。
はい(笑)。ありがとうございました。
引用以上。