飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

正しい国家観と間違った国家観

2013-05-04 12:53:03 | 日本論と宗教論
アルトさんがご自身のブログに、私の回答への更なる回答を記事として上げて下さいました。その内のほんの一部に対する私のコメントを記事として上げておきます。


以下引用。


丁寧な回答、ありがとうございます。取り急ぎ、次の二つに再回答を入れさせていただきます。

>すでに飛鷹さんは私が頭のおかしい人、カルト的偏執狂と思われているかもしれません。それでもかまいません<

いいえ、カルト的偏執狂などとはこれっぽっちも思っておりません。私も、あの世の生と人間存在の奥行きの深さについては、全く疑っておりません。

ただ方法として「普通の人達」が持っているものに素材を限定した上で、それらをどう組み合わせたらあの世の生と人間存在の奥行きの深さについてより効果的に、自分をも含む「普通の人達」を覚醒できるのか、これに関心があるだけなのです。

これはかの、インマヌエル=カントに学んだ態度です。彼が霊能者スウェーデンボルグを大いに尊敬し、知己を得ようと何度も熱心な手紙を書いていたことは有名です。彼にスウェーデンボルグへの激しい関心を抱かせたものと同じものが、かの有名な『純粋理性批判』を彼に書かせたのだと、私は理解しているのです。何らかの理由でスウェーデンボルグが彼の手紙を悉く無視した時に、カントはスウェーデンボルグの真意を邪推してしまう気持ちを抑えることができず、やや根深過ぎる恨みを抱いてしまったそうですが、この点を除けば、霊能者や超能力者、聖人、師匠、はたまたこの世で出会う全ての霊魂たちに接する時の私の姿勢は、このカントのものと同じものなのです。カントも、誰からも窺い知ることのできない場所で、主の祈りを唱えながら日々生きていたに違いないと思っています。

地上の人間に天的なことを理解させるのは、いくら天使であっても難しいことです。信仰と観察力、洞察力、認識と表現の道具としての言葉への習熟、決して諦めない忍耐力、道を正しく選び取っていこうとする気構えと判断力。これら飽くまでも地上的なものを使って、自分に許される範囲で表現していくしか方法のないことと、私は考えます。この方法は、私自身の選択による私自身のものです。アルトさんにも誰にも強制することはできません。

アルトさんが何か価値のあるものを持っていらっしゃること。こちらに湧いてくる疑問点を、ある程度は分を弁えながらも、素直に指摘して差し上げるだけの価値があること。指摘して差し上げることで何か積極的なものの生まれて来る可能性が非常に高いこと。これらのことを私は信じています。

>私にとってこの⑩は、なんにも矛盾しないのです。主なる神はヤコブを通して予言しました。レビを呪いました。そして、レビの族長モーゼに権威を授けました。授けた権威をモーセが自分の氏族にイスラエルの王権を齎すことに利用し、モーセに授けられた権威が条件として付帯していたユダとヨセフへの王権神授を蔑ろにしたことが遠因となって、最終的にイエスが十字架に架けられたのです。レビの既得権益を激しく脅かすイエスは、殺す必要があるということだったのでしょう。十字架という預言者たちの預言も、それによって成就しました。聖書的に何も矛盾はありません。主の目から見れば、何の矛盾もないのです<

なるほど、筋が通っています。主がモーセとモーセの一族に与えた権威は、出エジプトの際にその大事業をリーダーとして指導することに限定された権威であって、モーセとモーセの一族(レビの子孫の一部)がもし、その限定を踏み越えてユダとヨセフから王権を奪い取ろうとしたなら、それは主の目から見れば、主がイスラエルと定めたヤコブにユダとヨセフを王権所有者として祝福させたことへの重大な違反になります。そして、そのような違反が初めて明確に行われたのは、紀元前2~1世紀のハスモン朝において、セレウコス朝ペルシアからユダヤを独立させるのに大きな役割を果たしたレビが、実権の無い大祭司の地位に甘んじられずに、空位になっていた王位にも同時に就いた時でした。ということは、それまでのかなり長い期間においては、どんな政治情勢の中においてもレビが王権を簒奪しようとすることなどなかったとも言える訳ではありますが、それでも兎に角この時に、レビによる王権簒奪が行われたのは間違いない訳です。

それでもまだ、イエスの十字架を巡る物語の解釈には問題が残っています。ここでは一旦、アーロンの子孫たるパリサイ派とサドカイ派にモーセの子孫も何らかの形で加わっていたものと考えましょう。その場合、彼らのやったのは、ユダの王権を妨害し(つまりはイエスを「ユダヤ人の王」という罪状の元で処刑し)、ヘロデの王権を存続させることだったのを想起しなくてはなりません。自分たちのことをマムシの子と看破したイエスを殺害してヘロデの王権を維持すれば、自分たちが恩恵に浴している既得権益も乱されないで済むという内容の謀略だった訳です。つまりは、ユダの王権の妨害ではあっても、ユダの王権の奪取にはなっていなかったことになります。ヘロデは、レビ族が祭司王として統治したハスモン朝を破ってヘロデ朝を創設したエドム人(エソウ族)で、ローマとの協調関係を構築した王でした。レビであるパリサイやサドカイが何故、ユダヤ化していたとは言え、エソウ族出身の王を支持して、ユダ族出身の王イエスを妨害したのか?遠い昔にエジプトで先祖が個人的に反目し合った恨みから、更には、将来自分達が王権を奪取するには現段階ではエドム人の王の方がユダ族の王よりマシだろうとの小聡い計算から、次善の策としてそうしたのか?それにしても、エドム人の王を支持するなど、レビとしては、あってはならないことだったように感じます。カナン人の悪魔崇拝邪教秘密結社が牛耳ってしまっていたローマによる過酷な支配を乗り越えなくてはならないことが、このような異常行動を彼等に許容させたのか?それとも、彼ら自身がもう既に、密かに、カナンやアマレクの悪魔崇拝邪教秘密結社の侵入を受けてしまっていたからなのか?

悪の根源がレビのユダへの私怨とユダの権威を簒奪しようとする願望にあったのか?それとも、ハムやエソウによるセムやイスラエルに対する根源的な恨みと、悪魔崇拝を基盤とした秘密結社としての、極めて洗練された謀略の技術体系を駆使した邪悪な暗躍にあったのか?この問題の解決を探る現場がこの場面にあるのは、どうやら間違いないことのようです。ここに目をつけたはぐれメタルファラオさんの直感は鋭い。

>(「日本人とか、一括りにして語られる集団などこの世に実在しないのは明らかなのに」という私の発言に対して)これはとても悲しいの一言です。日本とは、「太陽」の国、「十字架のイエス」の国と言う意味です。これを否定することは私に言わせれば反キリストです。はらわたが千切れそうです。なんたることか。

私の言う「国」とは、主の祈りにおける「御国が来ますように」でも分かるように(当ブログ内の拙記事『主の祈りについて』を参照のこと)、国境線で括られ、隣国との対立や分離を原理とした、領域としての国ではありません。主による支配とその支配の下で生きる人々の繋がりとしての国、ある一定の条件を備えた人間の社会的活動としての国のことです。この意味での「日本」あるいは「ヤマト」は、私のこのブログのテーマそのものです。このような意味での「日本」や「ヤマト」なら、「韓国」や「中国」「北朝鮮」など様々な名称で呼ばれている領域としての国家を溶融してひとつに纏める原理となりうる。歴史的経緯を見れば本来はひとつであったことの明らかなアジアに「韓国」や「中国」「北朝鮮」などの作為的な枠組みを無理に押し付けて、我々民衆を不当に支配している邪悪な秘密結社。そんな彼等を駆逐し、彼等からアジアを解放する原理となりうる。日本を無意識で感覚的ながら、そのような目で見ることで互いに連帯し、インターネットなどのテクノロジーの助けも借りつつ、本来の美しさや強さを取り戻そうとしているアジアの姿が、実際に今、色んな分野、色んな地域で観察できるようになってきている。近い将来に日本から出てくるであろう日本の正統なリーダーは、同時にまた、アジア全体から希望の星として仰ぎ見られる可能性が非常に高い。織田信長がアジア全体を舞台に構想し、豊臣秀吉が実際に実現しようとした理想、或いは、結果的に建前でしかなかったことが暴露されたと言う人がいるにせよ、戦前に日本帝国陸海軍が掲げ、アジア全体の人々に心から受け入れられた理想は、強ち間違いではなかった。それが今、武力侵攻なしで、この上なく理想的な形で実現しつつある。・・・私がこのブログで一貫して主張しているのは、このようなことなのです。これは日本という国家のこの上ない肯定、賛美であって、決して否定ではありません。否定されているのは、隣国との対立や分離を前提とした領域国家としての日本の概念でしかありません。どうか誤解がありませんように。

引用以上。